被害者か、加害者か?―柴咲コウ、綾野剛、亀梨和也―誰がいちばん悪いのか?/これはホラーではない怖ろしい実話。『でっちあげ~ 殺人教師と呼ばれた男』いよいよ公開!
本作を試写室で観終わって、慌てて同名の単行本『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』(2007年1月新潮社刊)を手に入れて一気に読み終えた。まずもってじっくりと取材し真実を求めて書き上げた原作者のジャーナリスト・福田ますみ氏を心よりリスペクトするものである。そしてこの事件のルポルタージュを細部にわたって紛うことなき映像にした三池崇史監督、脚本の森ハヤシ氏に深く御礼申し上げたい。何よりこの恐ろしい事件が、スクリーンに展開され改めて世に問うたことが、善人面した〝正義〟、〝人権〟、をかざす偽善者たちの仮面を剥ぎ、〝隠蔽〟から白日の下に晒した意義はあまりにも大きいからである。
こんなにも胸糞悪く、哀しく、情けなく、腹の底からの抑えようのない憤怒を生じさせる〝事件〟が日本の地方都市の小さな街に起きていたことに、心ある人なら愕然とさせられるに違いない。理不尽極まる虚言の連鎖と大看板を背にしたメディアによって、一人の小学校教諭の人生が破壊されてゆく恐怖の現実を目の当たりにして、正直、怒りの鉾先をどこに向ければいいのか。エンドロールを茫然と眺めながらしばらく立ち上がれなかった。これは人間と社会のダークサイドをバイオレンスやホラーに変えてエンターテインメントにしてきた三池監督にとっても、現実に起こった実話を基にしたルポルタージュを鋭利に客観的に描写しながら、恐らく彼もまたハラワタが煮えくり返ってメガホンを取っていたことだろう。
話は2003年(平成15)6月27日の全国紙のローカルニュースに端を発した、日本で初めての教師による児童虐待、虐めが認定された体罰事件だった。火に油を注いだのは同年10月、「教え子に死に方を教えたろうかと恫喝した〝殺人教師〟」というセンセーショナルなタイトルの週刊誌の後追い報道で、テレビのワイドショーが一斉に飛び付き、小学校教諭・薮下誠一(綾野剛)は、一気にマスコミの標的となる。誹謗中傷の嵐、裏切り、そして停職と日常は瞬く間に壊れていった。教師による児童の虐めとする世論が一方的に形成され550人もの大弁護団の民事訴訟に発展。小学生の母親・氷室律子(柴咲コウ)の主張する身に覚えのない内容に、薮下誠一の法廷での第一声は、「真実はひとつもありません」と声を震わせることだった。こうして圧倒的に不利な民事裁判の幕が開ける……
惜しむらくは本作(映画)がもしドキュメンタリーだったら、原作者が書いたように「全国紙」、「週刊春報」の名前を堂々と明かしていただろう。他にも裏付けのない記事を垂れ流した、多くのマスコミの記者たちの事件後の素知らぬ顔、言い訳だらけの恥知らずメディアたちももっとしっかり描けたと思う。原作者自身が直に彼ら似非メディア連中に接触、逃げ腰の彼らを痛烈に文章で罵倒しているのである。原作者は、当事者の教諭と件の児童及び家族の名は仮名にしたが、事件からわずか3年余に出版された同書だけに、事後に降りかかる影響を考慮してのことなのだろう。
事なかれ主義の学校長と教頭、教育委員会、人権弁護士と大弁護団、〝殺人教師〟呼ばわりした教諭を実名報道した週刊誌とその記者…真実に向き合わなかった人々が起こした事実は、底なしの絶望に突き落とすだけなのか。これは救いようのない世論という渦に巻き込まれた被害者の再出発の物語であって欲しいが、誰でも被害者に貶(おとし)められ、世論の勢いに何の疑問もなくつながれて加害者にもなり得る表裏一体の現代社会に生きている私たちへの警鐘なのである。
これは作り話ではない、真実の物語である。
『でっちあげ ~殺人教師と呼ばれた男』
6月27日(金)公開
配給:東映
©2007 福田ますみ/新潮社 ©2025「でっちあげ」製作委員会
出演者:綾野剛 柴咲コウ
亀梨和也 / 大倉孝二 小澤征悦 髙嶋政宏 迫田孝也
安藤玉恵 美村里江 峯村リエ 東野絢香 飯田基祐 三浦綺羅
木村文乃 光石研 北村一輝 / 小林薫
監督:三池崇史
原作:福田ますみ『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』(新潮文庫刊)
脚本:森ハヤシ
音楽:遠藤浩二 主題歌:キタニタツヤ「なくしもの」(Sony Music Labels Inc.)
《映画公式ホームページ》:https://www.detchiagemovie.jp