【倉敷市】倉敷素隠居保存会 ~ 倉敷のお祭りを江戸時代から見守り続ける「素隠居」を継承する市民団体
毎年5月と10月に阿智神社で開催される例大祭。
例大祭の日に美観地区のあたりを歩いていると、茶色いお面をかぶって赤い団扇(うちわ)を持っている素隠居(すいんきょ)に出会えます。
素隠居はすれ違いざまに団扇で頭を優しく叩いてきます。見た目や雰囲気が独特なので最初はドキッとしますが、その行動には「幸せになりますように」という願いが込められているそうです。
素隠居の文化はなんと江戸時代から続いており、現在は倉敷素隠居保存会によって引き継がれています。
素隠居をどのような想いで継承しているのか、倉敷素隠居保存会に取材しました。
倉敷の名物「素隠居」とは
素隠居とは、阿智神社のお祭り(春季例大祭・秋季例大祭)に合わせて登場するキャラクターで、江戸時代から続いている名物です。
素隠居は「じじ」「ばば」のお面をかぶっており、街ゆく人々の頭を赤い団扇(うちわ)で優しく叩きます。素隠居に叩かれると、賢くなったり、長生きできたり、良いことが起きるといわれてきました。
幸せを振りまいてくれる存在として、長年お祭りを盛り上げています。
今でこそ優しい素隠居ですが、地元の人のなかには「昔の素隠居は怖かった」と話す人もいます。
昔と今で素隠居にどのような変遷(へんせん)があったのか、その歴史をまずは振り返ってみましょう。
江戸時代から現在までの素隠居の歴史
素隠居が誕生したのは、江戸時代といわれています。
当時、京都の祇園祭(ぎおんまつり)に刺激を受けて、倉敷村の人は「妙見宮の御神幸(ごしんこう)を盛大にしよう」と考えたそうです。
妙見宮(みょうけんぐう)
現在の「阿智神社」。
江戸時代初期から明治時代初期までは、観龍寺が別当寺(べっとうじ=神社を管轄する寺)として管理していました。
その後、明治2年の神仏分離政策により、妙見宮の御神体は観龍寺に引き取られ、観龍寺の妙見堂に納められます。
それぞれの村で役割分担をするなかで、獅子舞の役を任された老夫婦は、高齢のため参加が難しい状況でした。そこで、自分たちを現した「じじ」と「ばば」のお面を製作し、若者にそのお面をかぶらせて代理でお祭りに参加させます。
1692年のお祭りで登場したこの「じじ」と「ばば」が、現在に続く素隠居のはじまりとなったのです。
江戸時代の素隠居は、お神輿(みこし)が停まった際に獅子舞を舞う役割を担っていました。「じじ」と「ばば」は近隣の人々に対して愛想が良く、人気のあるキャラクターだったようです。
明治時代に入り、明治2年(1869年)の神仏分離政策で妙見宮の本社が空殿になったことから、倉敷の古名である「阿智」に由来して「阿智神社」と改称。また、祭神が宗像三女神に改められました。
このとき、妙見宮の御神幸も廃止されていたそうですが、再興の気運が高まり、明治5年(1872年)に阿智神社の御神幸として再興されました。
しかし、再興後の御神幸はそれまでのものから無駄が省かれ、神輿太鼓(みこしたいこ)などが廃止され、参加する氏子たちも少なくなったそうです。このため、御神幸に参加しない氏子たちが「これからは我々が神輿を出すぞ!」と自分たちでお布団を重ねて神輿を作り、祭りを盛り上げました。これが今の千歳楽(せんざいらく)です。
その際にも素隠居は現れ、千歳楽に近寄る子ども達がケガをしないように、追い払う役割を担っていました。
千歳楽(せんざいらく)
「千歳楽せんざいらく」とは、内部ないぶに縦置たておきの太鼓たいこを置おき、布団ふとんを重かさねてその屋根やねとした、瀬戸内せとうち一円いちえんに分布ぶんぷする山車だしの一種いっしゅで、岡山県南部おかやまけんなんぶでの共通きょうつうする呼称こしょうです。布団ふとんの数かずは、1枚まいから9枚まいまでさまざまで、狭間はざまには、彫刻ちょうこくがあるものもあります。引用元:高梁川流域キッズ
素隠居は団扇を使って子ども達を叩いて追い払い、子ども達は素隠居を「はやしことば」でからかって追いかけさせようとするなど、そのようなやりとりもお祭りの風物詩だったといいます。
子ども達の安全を守るために、叩いてきた素隠居。やがて、現在の「素隠居に叩かれると健康に育つ」「素隠居に叩かれると幸せになる」などの言い伝えに変化していきました。
さらに、バシバシするような力強い叩きかたも、時代に合わせて優しいものへと変わっていったそうです。
倉敷素隠居保存会とは
倉敷素隠居保存会は、伝統的な素隠居の文化を守り、継承していくことを目的とした市民団体です。
元々、素隠居は阿智神社の例大祭にしか現れない存在でしたが、現在は活動の範囲が広がっています。
倉敷素隠居保存会の活動内容
倉敷素隠居保存会のメインの活動は、お祭りへの参加です。
阿智神社の春季例大祭・秋季例大祭、真備・船穂総おどり、倉敷天領夏祭りなど、市内のさまざまなお祭りに素隠居として登場しています。
また、令和6年度は以下の活動もおこないました。
・JR西日本「トワイライトエクスプレス瑞風」の乗客に向けた倉敷駅でのお出迎え、交流会への参加
・「Kurashiki LIVE-GYM」「くらしき白壁花嫁行列」など、地域イベントの参加
・素隠居体験や子ども向けのお面作りなど、体験イベントの企画
・倉敷市職員の研修や市民講座での登壇
・MICEに向けたデモツアーのディナータイムでのアトラクション
(※MICEは、多くの集客交流が見込まれるビジネスイベントなどの総称)
素隠居として人々と交流することはもちろん、研修や体験イベントなどで、素隠居の文化・歴史・技術を伝える活動にも多く取り組んでいます。
2025年は素隠居がくらしき日本遺産大使に任命されたため、今後はさらに活躍する機会が増えそうです。
江戸時代から続く素隠居を守り続けている倉敷素隠居保存会。事務局長の小田晃弘(おだ あきひろ)さん、安藤俊晴(あんどう としはる)さんに活動のやりがいなどを取材しました。
倉敷素隠居保存会にインタビュー
倉敷素隠居保存会の事務局長 小田晃弘(おだ あきひろ)さん、安藤俊晴(あんどう としはる)さんに話を聞きました。
──倉敷素隠居保存会が結成された経緯について教えてください
小田(敬称略)──
倉敷素隠居保存会は、有志のメンバーによって1977年(昭和51年)に立ち上げられた団体です。
素隠居は昭和40年代まで倉敷のお祭りに出没していたのですが、昭和50年代に入るとお祭り自体の活気がやや減り、それに伴って、素隠居を伝承する人たちも少なくなっていました。そこで倉敷素隠居保存会が発足しましたが、素隠居のなり手が少ないこともあり、まったく活動ができていない状態が続いていたんです。
その後平成に入り、倉敷市観光協会のもとに、テレビ局から素隠居の取材依頼がありました。当時観光協会に勤めていた藤井淳平氏(倉敷素隠居保存会の前事務局長)が、街中をめぐって素隠居の衣装やお面などを必死に集めて、そのときはなんとか取材対応ができたそうです。
ただ、神社に聞いても町内に聞いても、素隠居のことを知っている人がなかなか見つからない現状に、藤井淳平氏とその中学の同級生たちが「このままじゃいけない」と危機感をおぼえて、活動中止していた倉敷素隠居保存会を引き継ぎ1991年(平成3年)に再興しました。
──お二人はどのような経緯で保存会に参加したのですか?
小田──
僕は子どもの頃に、素隠居にバシバシ叩かれた経験があるので、昔からずっと気になっていた存在だったんです。
ただ、時代の流れで素隠居が現れることも少なくなり、僕自身も大人になるにつれてお祭りに行く機会が減って、気づけば素隠居には会えなくなっていました。
ですが30代になって、子どもと久しぶりにお祭りに行ってみたら、えびす通り商店街の裏道に集まる素隠居たちがいたんです。「うわ、久しぶりに素隠居がおった!」とビックリしつつ、そこで素隠居の皆さんと昔話をしていたら、「興味あるならやってええよ」とお声掛けをいただいて携わることになりました。
安藤(敬称略)──
僕の場合は、たまたま街で出会って叩いてきた素隠居が同級生だったんです。彼は素隠居保存会にすでに入っていて、「素隠居は誰でもできるんよ」と教えてくれたので、じゃあちょっとやってみようかなと。
当時、「なにか地域活動をしていきたい」という気持ちを持ち始めていた頃だったので、ちょうど良いタイミングではありましたね。実際に素隠居をやってみたら想像以上に楽しくて、今では20年弱この活動を続けています。
──素隠居をしていて感じられるやりがいはなんでしょうか?
安藤──
素隠居になって叩くと皆さんが喜んでくださるので、そこに一番面白さを感じています。
叩かれた後にお礼を言ってくださる人も多く、なかには「もっと叩いて!」とお願いをされることもあります。地元の人だけでなく、観光客や海外のかたも同じように楽しんでくれるんです。
倉敷に訪れた人たちに対して、楽しんでもらえるきっかけを提供できているのかなと思います。
小田──
やはり感謝されることが一番のやりがいにつながっています。
特にご高齢のかたは「これで若くなるわ」と笑ってくださったり、わざわざ手を合わせて拝んでくださったりと、素隠居にご利益があることを信じてくださるんです。
そのような反応を見ると、「あぁ、素隠居をやっていて良かったな」と思います。
──地元の人から「昔の素隠居は怖かった」と聞くことがありますが、今はそこまで怖い印象はないですよね。やはり時代に合わせた変化があったのですか?
小田──
昔の素隠居は、激しく叩いたり、追いかけ回したりするのが主流でした。
ただそのスタイルを続けていたら、2000年代に入ったあたりでクレームやトラブルの数が一気に増えたんです。さすがに今までと同じやり方では通用しないので、相手の反応を見ながら優しく叩く、現在の素隠居のスタイルが出来上がりました。
また、そもそも素隠居にクレームが来るのは、素隠居が知られていないことが原因だと考えて、ホームページやSNSなども利用して素隠居を知ってもらう活動も始めたんです。
──素隠居の認知を広げる活動が始まったんですね
小田──
そうですね。ホームページやSNSで発信をしたり、FMくらしきでラジオ番組を持ったりなど、2000年代から情報発信に力を入れました。そこから、イベントに呼ばれる機会やメディアに取り上げてもらうことも少しずつ増えてきたんです。
過去には、海外のイベントに呼ばれたこともありましたよ。さすがに僕たちは現地に行けませんでしたが、衣装の貸し出しなどをおこないました。
安藤──
直近の大きな活動だと、2025年に開催される「日本遺産フェスティバル in 倉敷」で、素隠居がくらしき日本遺産大使に認定されました。オフィシャルな存在になったので、より素隠居の認知度が広がれば良いなと思います。
──素隠居のお面はどのように作られているのですか?
小田──
素隠居のお面の素材は和紙です。和紙を何枚も何枚も貼って、乾燥させて、重ねていく作業を繰り返して作ります。
昔は数多くの街にそれぞれのお面があったので、いろいろな表情がありました。
ちなみに、私たちが使用しているお面の元となったのは、倉敷はりこの職人である生水さんが作ったものです。
今はお面の作り手も減っているので、自分たちでも手作りしてみましたが、半年かけてようやく完成しました。やはり手間と時間がかかるんですよね……。
──基本、素隠居はお祭りでしか会えない存在ですが、お土産などで素隠居を楽しむこともできますか?
小田──
お土産でいうと、むらすゞめで有名な橘香堂さんでは「素隠居もなか」が販売されています。あとは、新渓園の向かいにある倉敷和平治商店さんでは「素隠居のお漬物」が売られています。また、倉敷川沿いの土手森さんで売られている「爺爺婆婆(じじばば)」という地酒もありますよ。
食べもの以外だと、かわいいイラストのLINEスタンプもあります。
ちなみに過去には、期間限定で素隠居が描かれたきびだんごや、アクリルキーホルダーなども販売されていた時期もありました。
──今後の目標はありますか?
小田──
僕は今後も素隠居の周知に力を入れていきたいです。素隠居は倉敷市ならではの文化ではありますが、玉島や児島など、美観地区から少し離れた地域での認知度はまだまだ低いと思っています。
素隠居のなり手を増やすのも、活動を継続する資金を集めるのも、素隠居を引き継ぐのも、まずは知るというきっかけが大事だと考えています。素隠居がどのようなものなのかを伝えて、その存在を知っていただくことが、僕たちの永遠のテーマです。
安藤──
くらしき日本遺産大使に素隠居が任命されたこともあり、現在は倉敷市と連携を取りながら、周知するための取り組みを検討しています。
今考えているのは、高校生に素隠居を体験してもらうこと。
その若いときの経験が、いつか大人になって素隠居を思い出すきっかけになればうれしいです。倉敷の伝統として、素隠居がさらに広く活躍していけたらと思います。
──最後にメッセージをお願いします。
小田──
もし素隠居に興味のあるかたがいたら、ぜひ一緒にやってみませんか。素隠居は誰でもなれます。皆さんのご連絡をお待ちしております。
安藤──
素隠居のなり手が減ってきているので、新しいかたとのご縁があればと思います。気になるかたは、ぜひホームページやFacebookからご連絡ください。
おわりに
以前、筆者も一度だけ素隠居を体験したことがあります。
素隠居になって街ゆく人の頭を叩いてみると、地元の人や観光客を問わず、多くの人たちに感謝されました。素隠居は人々に好かれて、求められている存在なんだと実感した体験でした。
地域活動や伝統行事に興味のある人は、ぜひ素隠居にチャレンジしてみてください。
また、お祭りや街中で素隠居を見かけた際は、叩かれることをおすすめします。なにか良いことが舞い込んでくるかもしれませんよ。