中原区上平間在住 大塚ミネさん(93) 「亡くなった人の無念伝えたい」 満州から逃避行、一人故郷へ
「生き抜いて80年生かされて80年まだ生きる」――。戦後80年の今年、そんな句を詠んだ。
新潟県刈束郡高柳村生まれ。教員や議員を務めていた父親が、中国東北部にあった「満州国」の開拓団に手を挙げ、家族で海を渡った。当時8歳。現地の学校に通い、家では放牧、家畜の飼育を手伝った。
1945年8月9日。ソ連が侵攻してくると聞き、避難するため、畑に行っていた父親、長兄以外の家族で神社へ。団長から青酸カリを渡された。駅に向かうも列車は出た後だった。迫るソ連軍。待ち受ける満人。列の間が開き、後方は満州軍に襲われ、多くの人が亡くなった。「乗るはずの列車は爆破され、前列だったから助かった。運が良かった」
8月21日、集落に着くとソ連軍機から「日本は負けた。降伏して出てきなさい」とチラシがまかれた。信じられず出発するも、満人に襲撃され、集落に戻った。そこで言い渡された団の解散。絶望し、家族で青酸カリを飲んだ。意識を失うも数時間後に目を覚ました。「一人で行動できる者で脱出する」と団から言われた。残ると決めたが、母親らに「生きて国のために働きなさい」と背中を押され、家族でただ一人、涙ながらに団を後にした。集落はソ連軍に囲まれて全滅。家族との最期の別れとなった。
9月半ば、渡河中にソ連軍に囲まれ降参。収容所に送られ、日本が負けたことを知った。「わかっていれば、みんな死ななくて良かった。悔しくて涙が止まらなかった」。収容所で満人に売られかけ、発疹チフスにかかり命を落としかけたこともあった。
1年後、引き揚げが始まった。満人から「日本に帰っても大変。ここに残れ」と誘われたが、忘れるはずのない故郷。博多港から一人、新潟に戻った。「孤独に慣れすぎてしまった」と、故郷の地を踏んでも悲しさが募った。
父と長兄は帰ってこなかった。大阪で就職し、結婚後、川崎に転居。食料品店などを営んできた。満州での出来事を知る人は数少ない。「時代だから仕方ない。亡くなった人の無念さを伝え、戦争のことを若い人に知ってもらいたい」。次世代へ言葉を紡ぐ。
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今年で戦後80年。体験者が年々減少し、戦争の記憶が風化しつつある。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。