江戸時代の不思議な噂・デマ・風説「生きて動く人形、人をさらう天狗」
最近、メディアも取り上げるようになったネット上の「デマ」や「フェイクニュース」。
それをうかつに拡散しないための「ファクトチェック」も話題になっています。
現代では、画像や動画など視覚的に訴える情報がスマートフォンなどのデバイスで瞬時に拡散されるため、感情に訴える内容ほど広まりやすい傾向にあります。
こうした現象は、実は江戸時代にも通じる部分があります。
当時は現代のような情報インフラこそなかったものの、噂や風説が広がることは日常的に起きていました。
今回はその中から、少し変わった2つの話題をご紹介します。
「生人形(いきにんぎょう)」に関する噂・風説
江戸〜明治頃にかけて、見世物興行に使われて大人気を博した「生人形」。
あまりに精巧なつくりで、本当に生きているかのように見えたため、「活人形」とも呼ばれていたようです。
恐怖心や好奇心も相まって、「本物の人間なのではないか」「人間を使った人形だ」「夜中に動いたらしい」といった根拠のない噂が、瞬く間に広まったとされています。
そして「そんなにすごい作品なら一度見てみたい」と、見世物小屋を訪れる人が増えたようです。
今のように画像や動画などがない分、話を聞いた人が想像を膨らませることで内容に尾ひれがつき、より怪奇的な噂へと変化していったと考えられます。
当時の瓦版でも生人形は大きく取り上げられ、人々の関心を集めました。
各地を行き来する飛脚も通信手段として機能しており、噂は遠方へと広がっていったようです。
情報の拡散速度や範囲こそ現代とは比べものになりませんが、好奇心や恐怖心が噂を広める原動力となる点には、今も昔も変わりがないといえるでしょう。
生人形に関する噂や風説の記録は、当時の瓦版や随筆、歴史書などに散見される程度ですが、歌川国芳や歌川芳艶による錦絵にも、その様子が描かれています。
また、安政四年(1857)頃の瓦版には、新吉原で起こったとされる人形にまつわる怪談話も見られます。
内容は次のようなものです。
両国の両回向院で催された百面相人形の興行の中でも、花魁の人形の出来栄えがひときわ素晴らしかった。
ところが夜になると、その人形のあたりから酒盛りのような賑やかな声が聞こえてくる。
不思議に思った番人が様子をうかがうと、稲荷神と人形が酒盛りをしていた。
人形の出来栄えがあまりに見事だったため、そのようなまことしやかな噂が立ち、怪談話として広まったり、興行を盛り上げるために瓦版が話題として取り上げたのではないかと推測されています。
「天狗の仕業」ということに関する噂・風説
古くから「天狗」は、信仰の対象としてさまざまなご利益をもたらす一方で、妖怪や伝説上の存在として恐れられてきました。
そうした天狗にまつわる噂や風説も、日本各地に数多く伝わっています。
そもそも「天狗」という言葉は、中国で凶事を知らせる流星を意味していたとされています。
大気圏を突き抜けて落下する火球が空中で爆発し、大きな音を立てる様子が「天を駆ける犬の咆哮」にたとえられ、「天の狗(犬)」すなわち天狗と呼ばれるようになったという説があります。
日本では天狗は山岳信仰と結びつき、「山の神」として信じられるようになりました。
その姿は地域や時代によってさまざまですが、「輝く鳥」のような姿で描かれることが多かったとされています。
天狗にまつわる逸話にも多くの種類があり、災害や異常気象、不可解な出来事が起こると、不安のあまり「天狗のしわざだ」とする風説が広まることもあったようです。
「天狗による人さらい(天狗攫い)」
「天狗による人さらい(天狗攫い)」という風説も各地に伝えられています。
山間部や農村で人が突然姿を消すと、「天狗にさらわれたのではないか」と噂されました。
特に子供や若者が山で行方不明になった場合、「天狗に連れて行かれた」と信じられ、村全体で恐れられることもあったようです。
ただし、これらの噂は特定の人物や事件に基づいたものではなく、各地で似たような話が語られていたと考えられています。
また、さらわれた子供が戻ってきて、「天狗に日本各地の名所を見せてもらった」と語り、その場に行った者しか知らないようなことを話したという不思議な逸話も伝えられています。
この種の話の中でも特に有名なのが、“天狗小僧”の異名で知られる江戸時代の少年・寅吉です。
文政年間、当時7歳だった寅吉は天狗にさらわれたとされ、数年後の文政3年(1820年)に江戸に戻って人々を驚かせました。
彼は異界での体験を当時の国学者・平田篤胤に語り、その内容は著書『仙境異聞』にまとめられました。
1780年代の甲斐国(現在の山梨県)や信濃国(現在の長野県)では、山中で迷子になった子供や猟師が「天狗にさらわれた」と噂され、村人たちが山に近づくのを避けるようになったという記録が残されています。
松浦静山の随筆『甲子夜話』などにも、こうした天狗伝説が地域の民話として記録されています。
このような風説は、山岳地帯における危険や、未知の自然現象への恐怖を反映したものと考えられます。
実際、山に入るのを控えたり、夜間の外出を避けたりと、村人の行動に影響を与えていたようです。
原因不明の「天狗火(てんぐび)」
原因不明の火事が発生すると、「天狗が火を放った」「天狗火が原因だ」といった噂が広まることがありました。
天狗火とは、山間部や農村などで夜間に目撃される怪しい光で、鬼火や狐火に似た現象とされ、火事との因果関係が語られるようになったものです。夜間に説明のつかない光が見られた直後に火災が起きると、「天狗のしわざ」とされたのです。
こうした風説は、火災に対する恐怖心を煽り、夜の外出を控えたり、火の用心を徹底したりといった行動につながりました。
また、天狗火を鎮めるための祈祷やお札が売られるなど、宗教的あるいは商業的な動きも見られたとされています。
なお、天明8年(1788)に京都で「天明の大火」が発生した際には、西陣の浄福寺に火の手が迫ったものの、朱塗りの東門の手前で火が止まったという逸話があります。
このとき、鞍馬山から天狗が舞い降り、巨大な団扇で火をあおいで鎮めたとも語られています。
天狗の世直しの予言
幕末の動乱期(1850~1860年代)、社会不安が高まる中で、「天狗が現れて世直しを予言した」「天狗が幕府の滅亡を告げた」といった風説が各地で広まりました。
たとえば、京都や大坂では「天狗が山に現れ、異国を追い払うと予言した」という話が広まり、一部の人々が尊王運動に共感し、集会や行動に参加するきっかけになったと伝えられています。『※幕末維新見聞録』
このような風説は、間接的に幕府への不満を煽る役割を果たし、幕府はこのような噂を危険視し、取り締まりを強化しました。
最後に
現代のように、スマホで写真も動画も撮影できず、SNSで話を拡散することもできない時代でも、人から人へと伝わっていく噂・風説。
どの時代でも、社会不安や、正体のわからない存在に対する関心は尽きることがなく、恐ろしければ恐ろしいほど人々の好奇心を刺激し、拡散する手段がなくても口伝えで広がっていったのです。
このほかにもさまざまな事例がありますので、またの機会にご紹介したいと思います。
参考 :
『江戸東京の噂話「こんな晩」から「口裂け女」まで』 野村 純一
『江戸の見世物』田中優子
『日本庶民文化史料集成 第14巻 見世物』編: 国立劇場芸能調査室
『江戸の遊びと祭り』笹間良彦 他
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部