佐伯祐三の短く、濃く、熱いキャリアを紹介! たった6年、パリでの画家人生。
20代の若い時期に他界してしまった芸能人や有名人、芸術家は数多くいます(私たちがすぐイメージする有名人だと、尾崎豊、ジェームス・ディーン、三船史郎や、K-POP歌手のキム・ジョンヒョン、ソルリ、ク・ハラあたりでしょうか)。 パリで活躍した佐伯祐三もその一人でした。この記事では6年間の画家人生を全速力で駆け抜けた佐伯祐三をご紹介します。
郵便配達夫 (1928年)
佐伯祐三はこんな人
佐伯祐三のポートレート
佐伯 祐三(さえき ゆうぞう、1898年4月28日 - 1928年8月16日)は大正~昭和初期に活躍した洋画家で、大阪府大阪市出身です。
1924年に26歳でフランスに渡り、ヴラマンクやユトリロの影響を受け、激情的かつ哀愁に溢れるテイストでパリの街を描き続けました。1925年に一度帰国し、この時期に連作『下落合風景』に取り組みました。
1927年に再度フランスに渡り精力的に創作活動を行いましたが、わずか1年でパリで病没(享年30歳)。佐伯の作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多く、代表作に『郵便配達夫』(1928年)などの作品があります。
25歳で東京美術学校を卒業してから30歳で亡くなるまでの画家人生はわずか6年でしたが、その人生はドラマチックな出来事に溢れていました。
お寺の次男として生まれた佐伯祐三、画家の道に
パリで活躍する前の佐伯祐三は、お寺の次男として将来の進路を期待されていました。
医師にしたいという親の願いと違い、画家を目指した
佐伯祐三は現在の大阪市北区にある光徳寺の男4人女3人兄弟の次男として生まれました。なんとお坊さんの息子だったんですね!活発な子供でしたが、虫1匹も殺さないくらい殺生嫌いだったそうです。
旧制中学時代(現在の高校)は野球やバイオリンに熱中しましたが、5歳年上の従兄の影響で梅田にあった画塾に通いデッサンを学びます。これがきっかけで、佐伯を医師にしたいという父の思いを振り切り、洋画家を目指すようになりました。
19歳で旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)を卒業すると、東京美術学校(現東京藝術大学)受験準備のため上京。1917年、東京の川端画学校に入り、藤島武二に師事します。
最初は穏やかな作風だった
1918年、佐伯は東京美術学校西洋画科に入学し、引き続き藤島武二に師事しました。この頃に描いた自画像は印象派風の穏やかなもので、その後の彼のダイナミックな作風とは異なるものでした。
東京美術学校では、卒業の際に自画像を描いて母校に寄付することがならわしになっており、佐伯の自画像も現存しています。鋭い眼光が印象的なこの自画像は、作風の面では印象派風の穏やかなものです。
佐伯は、川端画学校で出会った山田新一と親交を深めます。東京美術学校でも同級生だった山田は佐伯に洋画家の里見勝蔵を紹介するのですが、里見との出会いは佐伯の画業に大きな影響を与えることになりました。
また佐伯は、在学中に足の不自由な画学生の池田米子と知り合い、22歳で学生結婚しました。
学生時代から病弱だった
15th arrondissement of Paris
病弱だった佐伯は、在学中も喀血を繰り返していました。この頃は父と弟が相次いで病で亡くなって、死を身近に感じていた時期です。佐伯は自身の複雑な状態への思いを込めて自画像を描いていたのかもしれません。
佐伯は東京美術学校に在学中の1921年に、現在の新宿区中落合にアトリエ付き住宅を新築していました。
この地で佐伯が生活し創作活動をしたのは4年余りにすぎませんが、中落合は佐伯がアトリエを構え、創作活動拠点とした日本国内唯一の場所です。
現在も当時のままの敷地に、大正期のアトリエ建築を今に伝える建物が残されており、新宿区立佐伯祐三アトリエ記念館として整備・公開されています。
佐伯祐三 1回目の渡仏
当時のフランス渡航は、現在のように簡単ではなかったはずです。1回目のフランス滞在で、佐伯祐三はどう変化したのでしょうか?
実はパリに日本人画家は100人以上いた
佐伯祐三は東京美術学校を1923年に卒業します。11月には妻・米子と2歳になる娘の彌智子とともに神戸から旅立ち、翌1924年1月にパリに到着します。
実は当時、日本の画家が箔をつけるためにパリで修行するのは珍しいことではありませんでした。この頃は100人以上の日本人画家がパリに滞在していたといわれています。
佐伯が渡仏する10年前には藤田嗣治が渡仏し大成功を収めていましたが、ほとんどの日本人画家は高い評価を受けることはありませんでした。唯一、すでに人気画家の地位を確立していた藤田嗣治がサロン・ドートンヌの審査員であったため、同展はパリの日本人画家の登竜門となっていました。
しかし佐伯は藤田にあまり接近せず、あえて距離を置いたようです。日本人同士のコネったり、人気画家に媚びを売ったりするのが好きではなかったのかもしれません。このあたりに佐伯らしさが感じられます。
ヴラマンクとの出会い ~最初はけなされた~
パリに到着した佐伯は、モンパルナスにアトリエ兼住居を借りて制作に励みました。セザンヌやゴーギャン、ルノワールらの作品を研究し、パリ滞在初期の作風は特にセザンヌの影響がみられます。
佐伯は先輩洋画家の里見勝蔵に連れられて、憧れていたゴッホの終焉の地、オーヴェル=シュル=オワーズへの旅行に出かけます。その地で佐伯は、フォーヴィスムの画家ヴラマンクのアトリエを訪問しました。
佐伯は持参した自信作『裸婦』をヴラマンクに見せますが、「生命感がない」「アカデミック!(保守的)」と批判されてしまいます。佐伯自身は、自分はセザンヌやゴッホに影響を受けアカデミックとは無縁と思っていたそうで、「アカデミック(=保守的でつまらない)」と批判されたことはショックだったようです。
その後もヴラマンクの下に足を運ぶ機会がありましたが、この時期に佐伯の画風は変りました。『立てる自画像』はパレットと絵筆を持って立つ自身の顔をパレットナイフで荒々しく削り取ってあって、彼の絶望と決意を表しています。
パリの街並みを描くように
下落合の風景 (1926年)
ヴラマンクと出会ってから佐伯は独自の表現方法を模索し、それまでの端正な作風かフォービスム風の荒々しいタッチで風景を描き始めます。
やがてユトリロの描くパリの街並みに感銘を受けた佐伯は、独特の重厚なタッチでパリの風景を描くようになりました。
佐伯の絵の特徴は、画面に数多く書き込まれた文字です。たしかに現実の街を歩くとチラシや看板の文字が多数目につきます。佐伯によって描かれた文字は、その意味をすぐに理解できない日本人にとって異国情緒を感じさせるものとなっています。
絵が売れたが、結核に…一時帰国
成功し始めた矢先、結核に
1924年、佐伯は住居兼アトリエとして借りていた建物の1階にあった靴屋を描いた『コルドヌリ(靴屋)』で、翌1925年のサロン・ドートンヌに入選して買い手がつきました。
作品も売れて成功を収めつつありましたが、結核の病状を心配した家族の意向で1926年3月に一時帰国することになりました。なんとも無念ですね…。
1930年協会を結成、瞬くまに会員が急増
黄色いレストラン (1928年)
日本に一時帰国した1926年、1920年代前半を佐伯と共にパリで過ごした小島善太郎、木下孝則、里見勝蔵、前田寛治と「1930年協会」を結成しました。
エコール・ド・パリの雰囲気の中で修行した画家たちは、日本の硬直した既成画壇や当時先鋭化していたプロレタリアに対抗して純粋な芸術を目指すことを謳いました。会の名前はミレーやコローのバルビゾン派の別名「1830年派」に倣ったものです。
創立時は5名での活動でしたが、瞬く間に400人の集う勢力へと成長しました。しかし、創立メンバーの佐伯の死、里見の脱会、前田の死など画壇再編の渦に巻き込まれます。その後、新たに誕生した「独立美術協会」へ合流するように消滅しました。
佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在しました。代表作の多くはパリで描かれています。
佐伯祐三の2回目の渡仏、そして死
最高作は『黄色いレストラン』?
日本に帰国した佐伯祐三は、電信柱や帆船のマストなど線の描写に力を入れ、新たな表現を模索します。その後1927年8月に再びパリへ戻り、何かに追われるように制作に励みました。「5か月で107枚の絵を仕上げた」と里見勝蔵への手紙に記しています。
最初のパリ滞在の時と変わらず描くのは下町の風景でしたが、日本に帰国した際に磨いた線の描写に力を注ぐようになりました。古い建物の壁の質感の表現にこだわり、場末の壊れかけた建物に書かれた文字や破れたポスターを線描で捉える画風へと変化します。
遺作とされている『黄色いレストラン』が屋外で描いた最後の作品で、「描ききった」と家族に説明していたといいます。その完成度は高く、今後の活躍が期待されるなかでの惜しまれる死でした。
佐伯祐三のキャリアの壁は「身体の弱さ」だった
佐伯祐三を苦しめたのは生来の身体の弱さでした。健康を案じる兄の勧めで1926年に日本に一時帰国した佐伯ですが、パリへの郷愁を断ちがたく、翌1927年に再び妻子を連れて渡仏します。
しかし、この時点で佐伯の身体は結核にむしばまれていました。体調が悪い中、寒い屋外で制作を続けたせいで1928年3月には風邪をこじらせて喀血してしまいます。
病で寝込むことの多くなった佐伯は精神的に追い詰められて失踪し、自殺を試みます。妻の同意のもと精神病院へ入院することになりました。
佐伯祐三の最期
Camionn (1925年)
佐伯は病院で一切の食事を拒み、1928年8月16日に衰弱死しました。
当時、一人娘の彌智子も重篤な結核で寝込んでいたため、妻の米子としては夫にまで手が回らなかったようです。佐伯の死からわずか2週間後の8月30日に、一人娘の彌智子も6歳で後を追うように亡くなりました。
佐伯は最後の時期でも創作意欲を失わず、屋内では偶然訪れた郵便配達夫をモデルに油絵2点、グワッシュ1点を描いています。
この郵便配達夫は一度しか姿を見せなかったことから、米子は「あの人は神様だったのではないか?」と話しています。
佐伯祐三の作風
佐伯祐三の作品は力強いタッチと大胆な筆致が特徴的です。驚くほど速く描く制作スタイルが、躍動的で荒々しいタッチを生み出しました。自作のキャンバスに施した独自の厚い下地と厚塗りの技法が、独特の重厚感を醸し出しています。
色彩は黒や茶色、グレーなど暗い色調が多く、パリの曇り空や石造りの建物に馴染み、また画家自身の内面的苦悩を反映しているとも言われます。
構図はヴラマンクの影響を受けた表現主義的要素が強く、パリの下町を不規則な構図で描くことで街の雑多な雰囲気や自身の感情を表現しました。
同時に写実的要素も兼ね備え、対象を細部まで捉える写実主義と内面感情を表現する表現主義が絶妙に融合した独自のスタイルを短い画業の中で確立したことが、佐伯祐三の大きな魅力となっています。
佐伯祐三の主な作品
モランの寺
モランの寺 (1928年)
佐伯祐三が1982年にパリ郊外にある村であるモランに滞在したとき、サン=レミ教会を何枚か描きました。黒く太い輪郭と白い壁が印象的で、迫力を感じます。
パリの裏道
パリの裏道 (1927年)
人通りがなく、うらびれた雰囲気を重苦しい色彩で表現した絵です。佐伯祐三が描いたパリの絵には、華やかなパリ以外に「雑多でリアルなパリ」が数多く登場します。
ガス灯と広告
カフェの広告 (1927年)
壁に描かれた広告の文字がリズミカルな雰囲気を感じさせ、当時のパリの賑わいを感じさせます。
郵便配達夫
郵便配達夫 (1928年)
何も知らずに見ると、なんてことがない郵便配達夫の作品に思えますが、これは佐伯祐三が最後に書いた作品です。(そう思うと感慨深くなりますね)直線を多く使って角ばったフォルムで描かれた郵便配達夫からは勢いや力強さが感じられます。
日本国内で見られる佐伯祐三の作品
大阪中之島美術館(大阪府)
所蔵作品:郵便配達夫、ロシアの少女 他
日本最大級56点の佐伯祐三作品を所蔵(旧・大阪新美術館コレクション)。
代表作「郵便配達夫」と「ロシアの少女」は佐伯が亡くなった年に描いた最後の作品。
▼大阪中之島美術館 公式HP
大阪中之島美術館
和歌山県立近代美術館(和歌山県)
所蔵作品:プセルヴァトワール附近 他
佐伯祐三の洋画13点、素描1点を所蔵。「オプセルヴァトワール附近」のオプセルヴァトワールはパリ天文台のことで、高い場所からパリの街の眺めを描いた作品です。
▼和歌山県立近代美術館 公式HP
和歌山県立近代美術館
東京国立近代美術館(東京都)
所蔵作品:ガス灯と広告 他6点
「ガス灯と広告」は、二度目の滞仏期における代表作として有名。くすんだ石壁や、幾重にも貼られた広告ビラなどから佐伯独特の世界観を感じられます。
▼東京国立近代美術館 公式HP
東京国立近代美術館
まとめ
たった6年という短い期間でしたが、佐伯祐三はフランスのパリに滞在した時に見事な作品を数多く描きました。
幸い、佐伯の作品は国内の様々な美術館で見ることができます。美術館に行き、独特の激しい筆遣いやダイナミックな構図を鑑賞すると、より佐伯作品の迫力が感じられるでしょう。