バーチャル・シンガー「初音ミク」はどう生まれた?開発者に聞く
日本中の誰もが、一度は耳にしたことがあるであろう「初音ミク」の名前。彼女は実在しないバーチャル・シンガーで、その人気は道民のみならず海外にも広がり公式Twitterには約50万人のフォロワー、公式YouTubeには約240万人のチャンネル登録者数がいるほどです。
「バーチャル・シンガー」と言っても、初音ミクは、単に歌ったり踊ったりする3Dキャラクターではありません。
彼女は、歌詞とメロディーを入力して歌を歌わせることができる「歌声合成ソフトウェア」。ソフトさえあれば、誰もが初音ミクのプロデューサーになれます。
2007年に突如出現した彼女を開発したのは、札幌で「音」にまつわる素材やソフトを開発・販売するクリプトン・フューチャー・メディア株式会社の、佐々木渉氏です。
世界的人気となったバーチャル・シンガーはどのようにつくられたのでしょうか。佐々木氏に、開発に至るまでのことや制作の裏側、独立せず会社に居続ける理由について伺います。
音楽とテクノロジーに魅了された過去
2013年、横浜アリーナで、初音ミクを含むバーチャル・シンガーの3DCGライブと、創作の楽しさを体感できる企画展を併催したイベント『初音ミク「マジカルミライ」』(以下、マジカルミライ)が開幕しました。彼女たちに会うため集まったファンは、約1万5千人。
ステージ中央には、等身大の初音ミクの姿が。本物のギタリストやドラマーの演奏に合わせて歌うその姿は、実在するアーティストとなんら変わりないように見えます。異なるのは、彼女が透明なスクリーンに映されていることと、歌っている曲がソフトのユーザー(クリエイター)によってつくられたものであることです。
マジカルミライは以降も毎年開催され、10年間で累計36万人を動員しています。
https://youtu.be/PBYHtoMXvNs
「初音ミクは、ぼくらがビジネスを盛り上げているというよりは、皆がネット上で遊んでくれたからこそ盛り上がったと感じるんです」
そう語る佐々木さんは、1979年、札幌市で生まれました。小学生時代は図画工作が好きでしたが、次第に「手先が器用じゃないことに気付いた」と言います。
小学校5、6年生のある夏の日、佐々木さんは突然「ラジカセがほしい」と思い立ちます。ダウンロードミュージックもまだない時代で、誕生日プレゼントに買ってもらったラジカセで、音楽のヒットチャートを聴くのが日課になりました。
「ドイツとかジャマイカとか、ブラジルとか、時々かかるまったく知らない国の音楽にも興味が湧きました。音楽の中心はたしかにアメリカかもしれないけど、実は世界各国に音楽があって、ヒットチャートも多分あって……世界から見たら日本もきっと同じで、遠い外国から見たらアメリカの音楽はどう見えて、日本の音楽はどう見えているんだろう? と思うと、世界は広いなって思った。そういうのをぼんやりと考えるのが好きな子でしたね」
勉強も嫌いではありませんでしたが、気付くといつも、アニメの効果音や、シンセサイザーで作られたラジオのジングル(番組の節目に流れる短い音楽)のような、“不思議な音”に惹かれていました。たとえば、カセットテープを巻き戻し・早送りするときの「キュルキュルキュル」という音。佐々木さんはこれを聴いて、こんな風に考えていました。
「そうか、音って、速くしたり遅くしたりするとこんな聴こえ方になるんだ」
高校を卒業すると進学はせず、アルバイト生活を始めます。幾つかのアルバイトをしながら、昼休みに公園でノートパソコンを開き、音声編集ソフトで音の編集を行っていました。
1997年の当時はまだ「ダイヤルアップ接続」という、電話回線を使ったインターネット接続が普及したばかり。佐々木さんは、音楽家の坂本龍一さんらが雑誌で「これが未来だ!」と、インターネット上の楽器について紹介するのを見て、わくわくした気持ちになりました。「初音ミク」の開発に必要な技術や、ツールの使い方は、この時期に3割がた身についていたと言います。
20代では音楽活動をしたり、“サウンドアート”に触れたりする機会が増えました。「クリエイティブなものや先鋭的なクラブミュージックに触れて、学生時代の自分と距離を取り、感覚をリセットしたかった」のだと言います。26歳の時、バンドメンバーや友人のつながりではたらき始めたのが、初音ミクの開発の舞台となるクリプトン・フューチャー・メディア(以下、クリプトン)でした。
「クリプトン社内では一般客向けにも音楽ソフトやサンプリングCD(音の素材を集めたCD)が販売されていたので、高校生のころ遊びに来たこともあったんです。10代後半からサンプリングCDの紹介文を書くような簡単な手伝いから始めて、その後社員になったんですが、最初のころは当時友人だったクリプトン社員と、週末ロイヤルホストに行って、テーブルにサンプリングCDを山積みにして、CDプレイヤーで聴きながら原稿を書いたのを覚えています(笑)」
日本初「ボーカロイド」の誕生
2023年現在、同社には130名以上の社員がいますが、当時は20人前後の小さな会社でした。一方、世界各国の「音」素材をつくるメーカーと代理店契約を結んでおり、欧米でつくられたサンプリング音源の国内展開を担うなどしていました。
2004年、クリプトンがYAMAHAからボーカロイド開発の相談を受け、イギリスのZERO-G社を紹介したことで、ZERO-G社から世界初のボーカロイド「LEON」と「LOLA」が誕生しました。が、まったく売れないどころか、イギリスの業界専門誌で「使い勝手も音も良くない」と酷評されてしまいます。
※「VOCALOID(ボーカロイド)」とは、ヤマハ株式会社が開発した歌声合成技術と、その応用ソフトウェアの総称です
その後、クリプトンによって日本人向けにつくられたのが、日本語対応としては初のボーカロイド「MEIKO」、続いて「KAITO」でした。このうち女声のMEIKOのソフトの売上数が、約3,000本という、当時としては異例のヒットを遂げます。
「需要はむしろ日本にあって海外にはないんだ、と社長と実感し始めていた」と佐々木さんは振り返ります。
「ボーカロイドの声って、人間の声をPC上でバラバラに分解して、もう一度つなぎ合わせてつくるんです。でも英語の発音は日本語より複雑なので、その時点で独特のクセが強く出てしまったんですね。たとえて言うなら、ツギハギ感の強い、機械的でぎこちない音声です」
男声ではなく女声が売れた。海外ではなく、日本で人気が出た──。そこで3人目の、初音ミクが企画されたのです。
「それならぼくにやらせてください」
そう手を挙げたのが、入社2年目の佐々木さんでした。当時ボーカロイドの担当部署はなく、佐々木さんも他の業務を担当しながらのチャレンジでした。手を挙げたのは、「人間の声を操作できるソフトなんて面白い!」と思ったからです。
開発にあたって工夫したのは、声の質感と、ミクの外観です。
「MEIKOとKAITOの声は人間の柔らかさがある、息交じりの肉感的な声でした。ただ、PC上で切り貼りしてつなぎ合わせた時に、“肉感の感じ”が切り刻まれて変わってしまうのが難点だった。
ミクは、声のハリと、可愛らしさ、質感を大事にしつつ、もう少しカチッとした硬い感じの声にしようと思いました。ただ、声優事務所さんから声のサンプルCDを複数いただいて1枚1枚聴いていったんですが、イメージと合うものがなくて……。『もっとないですかね?』と聞いたら、まだCDになっていない新人声優さんの声をメールで送ってくださって、その中に藤田咲さんの声がありました」
「ミクの見た目は、たとえば一般的に“女の子のフィギュア”と聞いて連想されがちなイメージとは真逆に、肌の色味を極力白く、すらっとストレートなバランスを意識したんです。アンドロイドっぽいというか、少しテクノっぽいイメージでした」
異例の約3万本ヒット
初音ミクがリリースされたのは2007年。
日本ではこの時期、ニコニコ動画やYouTubeが盛り上がりを見せていました。ニコニコ動画内では、人気アニメをアレンジした面白動画の投稿がトレンドに。ところが、そうした動画にも見飽き、「何か新しいおもちゃがネット上にないかな……」と暇を持て余すニコニコ動画ユーザーも一定数いたと言います。
「そこに初音ミクが現れたので、皆『これで遊ぼうよ』と集まってくれたんだと思います。そこからは一気に、オリジナリティの強い作品が増えていきました」
初音ミクのソフトは、「年間1,000本売れれば大ヒット」と言われる市場で、リリース後1週間で1,000本を突破、半年で約3万本という、異例の爆発的ヒットとなったのです。
それだけではありません。約3万本はあくまでも、初音ミクのソフトが購入された数。佐々木さん曰く、個人のクリエイターによる初音ミクを使った作品が瞬く間に増え、初音ミクをネタにした動画やイラストが、『ニコニコ動画』や『YouTube』、『Pixiv』、『piapro』といった無料投稿サイトに掲載されたことで広まっていきました。2023年の今、初音ミクを含めて、クリプトンの手がけた歌声合成ソフトウェアの売上数は累計約28万本に上ります。
「あの時の気持ちをたとえると、ジャングルジムをつくった遊具の会社が、ワーッと喜んで遊ぶ子どもたちを『つくって良かったな』と感慨深く眺めているような……ちょっと遠くから眺めるような気持ちでしたね」
通常、オリジナルキャラクターの二次創作は著作権法で禁止されています。しかし初音ミクは「営利を目的としない、公序良俗に反しないなどのルールを守れば、誰でも自由に使える」という規約をクリプトン・フューチャー・メディアがつくり、二次創作を認めています。
想像を超えるヒットに、社内は混乱状態。佐々木さん曰く、ブームの中心は札幌ではなく東京だったため、さまざまなメディア系企業や個人のクリエイターからの、これまでにない量の問い合わせに忙殺されました。依頼の規模も、新サービス展開からグッズ制作まで大小さまざまで、佐々木さんは「取引ルールもマナーも分からないなかで息つく暇もなかった」と思い返します。
「一気に話題になったので、やっぱりネット掲示板で何言われているかな? って気になるし、見ちゃうじゃないですか。それを見て喜ばしいことも多かったですが、落ち込むことも度々ありました。たとえば『誰々の作風を誰々がパクった』とか、『誰々の曲が誰々の曲に似ている』とか。ニンテンドーDSからコメントする小学生までいて、コメントの多様化も感じていました」
2011年7月、ロサンゼルスで行われた北米最大級のアニメイベント「Anime Expo 2011」には、現地のコスプレイヤーが続出。佐々木さんもその場を訪れ、予想を上まわる熱狂ぶりに心底驚いたと言います。
「初音ミクブームは当初、ニコニコ動画が中心だと思っていたんですが、実際にはYouTubeにも動画がたくさん上がっていて、それを海外の人も観てくれていたようで。現地の方が、男女関係なくコスプレをして楽しそうにしているのを見て、『新感覚だ』『アメリカにもこんなオタクカルチャーがあるんだ』と新鮮な気持ちになりました」
ここで感じるのは、佐々木さんは初音ミクヒット後16年間、なぜ独立・移籍しなかったのか?ということです。独立して佐々木さんの名前で新たなボーカロイドを開発すれば、その収入は佐々木さん自身のものになります。また、開発者として著名になった今、東京や海外の企業から声が掛かることも稀ではないでしょう。
「皆さんの熱量のお陰で、ぼくも仕事でも大好きな音楽をたくさん聴けるようになった。ミュージックビデオなどのアートもたくさん見ることができた。開発者というより『音楽オタク』としてミクやクリエイターのみなさんを見て、関わらせてもらっているんですよね。これは、お金に換算できることではありません。
初音ミクの動画の中には何千万人が観てくださっているものもあるんですけど、『何千万人も観ているのかぁ……』と、どこか不思議な気持ちです。だって、彼女本人は実在しないわけで、みんなが空想や想像の世界で初音ミクを認識しているんだと思うと、すごく面白いなって」
初音ミクのヒットによって、佐々木さんを取り巻く環境は大きく変わりました。それでも、彼自身は今も昔も「音楽オタク」のまま。皆が好きに音楽をつくる状態が、ずっと続くといい——佐々木さんはそう願っています。
(文・写真:原 由希奈 画像提供:クリプトン・フューチャー・メディア株式会社)
※「VOCALOID(ボーカロイド)」および「ボカロ」はヤマハ株式会社の登録商標です