政治は『推し活』と同じように進められている
「推し活」が新現象として語られる時期は過ぎたかもしれないが、「推し活」に伴うトラブルも大ヒットもなくなる気配がない。「推し活」を成立させる社会状況や社会インフラがたいして変わっていないのだから、それは当然だろう。
「推し活」を巡るトラブルとして、第一に世間の人が知りたがるのは、経済的なことだ。
経済的に破綻するような推し活をしてしまった人は目立つので、「推し活」批判の槍玉にあげられやすい。もちろん、そのような個人、そうせずにいられない状況、それを助長するようなマーケティングや制度にはそれぞれ問題がある。と同時に、「推し活」の経済効果を寿ぎ、あてにする言説もしばしばみられる。「推し活ビジネス」などという言葉が用いられ、実際「推し」にお金やアテンションや時間を惜しみなくつぎ込む人がいるのだからそれもそうだろう。
第二に世間の人が知りたがるのは、個人的なことだ。
なぜ、人は「推し活」に惹かれるのか? そのとき心理的にどのような影響が起こっているのか? 私は2024年に『「推し」で心はみたされる?』という書籍を上梓し、それに関連したインタビュー等を受け続けているが、一番よく聞かれるのは「推し活」をする当人への心理的な影響だ。「推し活」をし過ぎてしまう人や、「推し」に裏切られたと思って怒ってしまう人やコミュニティで厄介になってしまう人の問題も含め、個人と「推し活」との相互影響に関心を持つ人は引きもきらない。
だが、それらだけとも思えない。「推し活」は政治に繋がっている。いや、「政治は『推し活』と同じように進められている」と言い直すべきだろうか。本当は、そうしたことも言語化され、共有されておいてもいいのではないだろうか。そう思って書いたのがこの文章だ。
SNSは、「推し活」と同じように政治力や影響力を盛り上げる
「推し活」は、権力や政治の問題と切り離せない。拙著でそこをあまり強調しなかったのは、ニーズがなさそうだったのと、面倒な話だったのと、あまり確実なことを言えそうにない話だったからだ。
「推し活」は個人的だったり経済的だったりすると同時に、集団的であり、社会的でもある。
何百人、何千人、何万人と人が集まって誰か/何かを推せば、推される側には社会的な影響力が付与される。その影響力の一番わかりやすい指標が経済的な成功や、「推し活」をする人たちが実際に支払う金額だろう。しかし、「推し活」をとおして「推し」に集まるのは金銭だけではない。アテンションが集まり、期待が集まり、SNS等をとおして布教力までもが集まっていく。これは凄い影響力の集積だ。影響力とは、政治力と言い換えてもほとんど問題ない。
というのも、広く解釈すればフォーマルな選挙だけが政治ではないからだ。有名人、IP、キャラクターなどが「推し活」のおかげでアテンションや期待や布教力を獲得し、それが人を動かす力の源となるなら、獲得された影響力は、広義の政治力と言える。商業的成功を純粋に追いかけているようにみえるIPですら、本当はそうだと言えるし、そのようなIPが政治的目的に利用されたとしたら、広義の政治力(の一部)を狭義の政治力としてふるうことさえ可能だろう。そうでなくとも、「推し」の対象として有名になった人には、その有名さの度合い、その応援される度合いに基づいた発言力や発言機会、立場や仕事が与えられがちだ。
だから「推し」を論じる際に、「推し活」する側の影響、とりわけ個人的な影響だけを論じるのは片手落ちだった。推される側にもたらされる影響と、社会的影響──本当はそこまで考えてはじめて「推し活」についての考察は完結する。
で、「推し活」という語彙が生まれる以前から、著名人や人気タレントなどは影響力を獲得してきた。その際には既存のテレビや新聞や雑誌などが影響力を媒介するメディアとして重要だったのは言うまでもない。だが、ちょうど「推し活」が台頭する少し前からそれら由来の影響力が(相対的に)小さくなり、SNS由来の影響力が(相対的に)大きくなったことは特筆に値する。SNSの持つ、リアルタイム性や敷居の低さ、即時報酬・心理的欲求充足・アルゴリズムによる最適化などといった性質は、「推し活」する人々をより熱心にSNSで語らせ、繋ぎ合わせ、布教力を拡大させる。
今日の「推し活」が従来のファン活動と異なっているのは、SNSという、「推し」に影響力を収集すると同時に「推し活」をする人々同士を繋げあわせ、布教者たらしめる社会装置を前提としている点だ。そうした社会装置に乗っかっているのは、有名なタレントやIPやキャラクターだけではない。もっと草の根の領域で活躍しているインフルエンサーもいよう。そもそも、インフルエンサーと今日呼ばれる人々自体、SNSなどを地盤とし、そこで獲得した影響力を経済的成功に変換している人達ではなかったか?
インフルエンサーが獲得してきたのは経済的成功だけでない。ときには政治的成功をすら獲得する。少なくともそうした動きはみられる。
SNSが普及した後の日本の政治風景だけ見ても、その兆候はある。SNSで過激な発言を繰り返して影響力を獲得したインフルエンサーが、そのまま選挙に打って出たり、選挙に協力したりする流れだ。SNS上のインフルエンサーが選挙に出るのは、広義の政治力を狭義の政治力に変換しようとする、かなりダイレクトな試みだと言える。そしておそらく、SNS普及後の社会や世界ではそれが効果的なのだ。だから従来型の政治家もSNSにアカウントを設置し、アナウンスメントやステートメントを繰り出すようになった。
そして国外の政治風景に目を向ければ、アラブの春、オバマ大統領の当選、そしてトランプ大統領の二度の当選といった具合にSNSがその広義の政治力を狭義の政治力へ変換する社会装置として機能しているらしき類例が次々に思い出される。フランスのマクロン大統領やフィリピンのドゥテルテ大統領もSNSを活用していた。
もちろん、現代の政治の帰趨がSNSだけで左右されるわけではないし、しばしばSNSでは真偽の不確かな情報やメッセージが流布する。それでも、疑わしさを含もうともSNSの声が政治的に有意味になったことがはっきりした今、(さきほどまで書いてきた)広義の政治力と狭義の政治力との区別は曖昧になったとは言える。
2025年現在、SNSをとおして政治力をかき集めた政治家とその過程が決定的に否定されたり、SNSが政治力の生成過程として禁止されたりするには至っていない。いや、禁じてくれと言いたいわけではない。影響力や政治力は、人が集まって誰かを推挙したり評価したりすればおのずと生じるものだし、それは村の集会からグローバルなSNSまで同じことだ。政治力の生成過程としてのSNSを禁じるとは、SNSを禁じることそのものや、オンラインで集会をやるなというのと同義である。それは21世紀の集会禁止法だ。自由主義の国でそれはないだろう。
しかし、SNSの持つリアルタイム性や敷居の低さ、即時報酬や心理的欲求充足やアルゴリズムによる最適化などといった性質は、政治力の集積過程に今までのメディアには無かったブーストを与えているだろう、とは思う。SNSは、20年前ならテレビに向かって不満をつぶやいていただけの人や居酒屋でくだをまくだけだった人々をも、布教端末たらしめた。そしてそうした人々の声までもが、影響力、ひいては政治力の一端を担うようになった。この、SNSによって収集され可視化されるようになった政治力のブーストは、「推し活」を盛り上げているブーストと同根のものだ。政治をカーニバルのようなものとみるなら、それもいいのかもしれない。だが政治は本当にカーニバルで良かったのだろうか? ん? 案外カーニバルだったのかもしれないか? だがなあ。
ともあれ、SNSは選挙を「推し活」のように、政治をアニメのキャラクター人気選挙のようにブーストする。「推し活」と同じく、活動に熱心な人間は政治に夢や希望を託すこともできるし、布教をとおして所属欲求や承認欲求をみたせていると感じる者もいるだろう。ミクロな個人の水準における心理的欲求の充足が、マクロな社会における影響力の生成と結びついているから、活動が軌道に乗ってきたと感じた人においては、さぞ、やり甲斐があるに違いない。
で、キングが爆誕しましたよ!
そうした活動をとおして、海の向こうではトランプ大統領が二選目を迎え、ホワイトハウスから王冠をかぶったイラストが出てきた時には目を疑った。
アメリカ合衆国という、王や貴族のいなかった国にこんなイラストが現れることに、私は不思議な納得感を感じたりする。そういう国じゃないだろ、というツッコミは理解できる。でも、そういう国じゃ無さすぎるからこそ、専制国家のくびきから逃れてきた記憶のない移民二世以降のアメリカ人が増えている今、こういうイラストが現れてもおかしくないかもしれない。
私の見たところ、このイラストに象徴されるアメリカの政治的状況は、今になって急にできあがったものではなく、オバマ→トランプ→バイデン→トランプ という政権交代のバトンリレーのあいだにできあがり、次第に大胆になっていったもの、と想像される。SNSをとおして推し活的な選挙活動が可能になったことに、アメリカの大衆が慣れてきただけでなく、その大衆を統治・利用しようとする人々も、SNSをとおして推し活的な選挙活動を行うことに慣れてきた。その帰結が現状なのだろう。トランプ大統領その人が、そうした帰結の極みにあったことは専門家も指摘しているところである。
そして、この王冠をかぶったトランプ大統領の絵が象徴しているように、SNS以前にはあり得なかったメンションやステートメントが効果的とみなされる。これまで政治力や影響力を独占していた勢力のプレゼンスが低下し、SNSをとおして政治力や影響力を新たに吸い上げられる勢力のプレゼンスが向上すれば、後者におもねった表現や表象をアウトプットするニーズが高まる。そのような表現や表象を上手にアウトプットできる政治家は有利をとりやすく、SNSにたむろしている大衆に嫌われやすい表現や表象しかアウトプットできない政治家は不利になるだろう。マスメディアに対して不信感を持っている層が大勢いるような社会情勢では、なおさらだ。
それにしても、たかだか十年かそこらで遠いところまできたものである。「SNSが政治に役に立つ」といった話は2010年頃にも耳にした話だが、まさかホワイトハウスから王冠を被ったキングのイラストが出てくるとは!
私も、このRootportさんのコメントには同感だ。これから大きな国際紛争が起こるとしたら、SNSは紛争の成立過程に大きな影響を与えた21世紀初頭の大衆メディアとして、やり玉に挙げられるだろう──ちょうど、第二次世界大戦の成立過程にラジオや映画といった当時の大衆メディアが大きな影響を与えたと紹介されるように。
SNSが社会に与える影響は大きいはずだ。それが、「推し活」のようなエンタメと経済の領域に留まるなら、まだしも話は穏便だったが、もちろんそうはならず、影響力や政治力が集積するメディアとしてすっかりあてにされるようになった。そこは旧来のマスメディアに不信感を持った人々が集まっている場でもあり、きわどい表現や違法な活動やフェイクニュースをとおしても政治力や影響力が集められてしまうメディアでもある。ユーザーの傾向が収集され、分析され、利用されるよう運命づけられたメディアでもある。
そのようなメディアが、第四の権力ならぬ第五の権力として立ち上がってきていることを、多くの人が歓迎し、利用している。それはいい。だが、このメディアが持つ力を無邪気に利用し、開放し、その波の大きさ、政治力や影響力の大きさに惚れ惚れしているだけでは、だめだろう。「推し活」と同じく、ビッグウェーブに乗っている最中は心地良さが伴う。しかし、その波がいつしか巨大化し過ぎた時、いったい誰がどうやってそれを止め得るだろうか? このクエスチョンの答えが、私にはまだわからない。
「推し活」と比べて、狭義の政治は人の生死や食い扶持によりダイレクトに繋がる。もし、その政治が「推し活」と同根の仕組みで再現なく盛り上がり、なおかつ、鎮静化するすべも不明なまま盛り上がり続け、まだエスカレートし続ける過程にあるとしたら。
もしそうだとしたら、エモーションの発露やぶつかりあいがそのまま政治に反映される社会、ひいては世界がどういうものなのかを、これから私たちは目撃することになるだろう。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo:Markus Spiske