戦後80年 平和を発信する場所となった「沖縄 海軍壕公園」国による初めての調査
沖縄戦で構築された全長450メートルの地下陣地、旧海軍司令部壕。1945年の沖縄戦で、壕内やその周辺では4,000人が命を落としたとされる戦跡。 この場所では現在、国による初めての遺骨収集が行われている。
沖縄県那覇市の南西、豊見城(とみぐすく)市の丘にある海軍壕公園は、平和を発信する場所として整備され、2023年度には10万人余りが訪れた戦跡公園だ。
ビジターセンターから地下へと続く105段の階段を下ると、旧海軍司令部壕にたどり着く。
現在、450メートルのうち300メートルが一般公開されている。
公開されていない区画では、崩落の危険性が指摘されており、厚生労働省による遺骨収集が2025年1月20日から始まった。
厚生労働省 社会・援護局 手塚直樹 室長補佐 「岩盤が大きく崩れている箇所があるため、安全管理を徹底しながら、たい積した土砂を丁寧に搬出しています。壕の外で、ご遺骨や遺留品、その他当時の物品が見つからないか、確認を進めています」
厚生労働省は1977年に海軍壕近くの病院壕で遺骨収集を実施したが、この司令部壕での調査は今回が初めてだ。
作業が行われているのは、約150メートルある未公開部分のうち、信号室などに近い区画。
壕内の遺骨収集は1952年ごろから旧海軍兵などによって複数回行われてきたが、さらなる調査を求める遺族の声が沖縄県に寄せられていた。
沖縄戦で兄を亡くした新垣宏子さんは、「私が生きている間に遺骨を探し、母に報告したいです」と話した。
2022年から、ボランティア団体による遺骨収集が複数回行われている。 これまでに、大たい骨などの遺骨のほか、万年筆や印鑑といった遺留品が見つかり、遺族に返還された。
戦死した父の万年筆を受け取った坂下満子さんは、「本当に父が帰ってきたような感じがします。よっぽど会いたかったんだなと」と声を震わせた。
ボランティアによる遺骨収集には、沖縄戦で犠牲となった兵士の遺族の姿もあった。 荒川恒光さん 「この海軍壕は父との関係が非常に深いと思いますので、できるだけ参加させていただきたいです」 福岡県から遺骨収集のために沖縄を訪れた荒川恒光(つねあき)さん。
父の一登(いっと)さんは、大田實司令官がこの壕から海軍次官にあてた電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」を打電したとされる通信兵だった。
荒川恒光さん 「ここで自決した遺体が3体あったということで、私もここで父が亡くなったと思っています。やはり通信兵というのは、最後まで司令官のそばで業務をしなければならない立場だったのだと思います」 沖縄県民は青年も壮年も防衛のために駆り出され、残った老人・子ども・女性が砲爆撃の下でさまよい、一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまった。
この電文は、戦火に追われた沖縄県民の厳しい状況を伝え、戦争が終わったあかつきには特別の配慮を求めたものだ。 この打電から7日後、大田司令官は壕の中で自決した。
旧海軍司令部壕は、観光客や修学旅行生、沖縄県内の学生などに戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えてきた。
遺族にとって、ここは今もなお、肉親の遺骨が眠っているかもしれない場所だ。 厚生労働省によると、2025年1月20日から31日までに、DNA鑑定が可能とみられる骨のかけらのほか、軍が使っていた飯盒(はんごう)や歯ブラシが見つかっている。
厚生労働省 社会・援護局 手塚直樹 室長補佐 「戦後80年を迎えるにあたり、戦没者のご遺族が高齢になっている現状をとても重く受け止めています。そうしたなかで、戦没者のご遺骨を1日でも早く、1柱でも多く収容し、ご遺族のもとに返せるよう、しっかりと取り組んでいきたいと考えています」 沖縄県内では、当時の形を残すガマや野戦陣地で、戦没者や遺族を思い、遺骨を探すボランティアの活動が続いている。 戦後80年が過ぎても見つかり続ける遺骨は、戦争が人の命を奪う恐ろしさと悲しみを私たちに伝え続けている。