「船橋ヘルスセンター」の思い出を集めました!懐かしいエピソード満載【船橋市】
読者の皆さんから募集した懐かしいエピソードをご紹介します。
※( )内はペンネーム
1.駅名の名残
今年95歳で亡くなった父が、兄、姉、私の子供3人を、よく連れて行ってくれました。「船橋競馬場駅」を、私は今でも「センター競馬場前駅」と言ってしまいます。船橋ヘルスセンターは、今はららぽーととなり、現在私はその目の前のマンションに住んでいます。(ひょこたん)
2.夏の楽しみ
もう60年前になりますが、夏になるとよく父と2人で花火大会を見にいきました。その光景を絵日記に一生懸命描いた事をよく覚えています。ヘルスセンターが無くなると聞いた時、夏の楽しみが無くなると思い、残念でした。(ミコノス)
3.スケートリンクの光景
昭和40年代、就職した頃は労働運動が高揚しており青年婦人部に加入しました。勉強会の後で、誘われヘルスセンターのアイススケート場に寄りました。リンクは弱い光でフォークダンスの曲が流れ両脇を手をつないでもらいノロノロ滑りました。氷の床が反射し銀色のエッジが動き回っているのが、別世界にいる様でした。(花咲じい)
4.いいとこ行ってきたね
「はるみちゃん、どこに行ってきたの?」と近所のおばちゃんに声をかけられ、3歳くらいの私は「パパとヘルスセンター行ってきた」と言うと「良かったね、いいとこ行ってきたね」と言われました。昭和30年前半、ヘルスセンターのセスナに父が乗っていた関係でよく行きました。なくなった時はなんだか泣けました。遠い日の思い出です。(りんこママ)
5.父が競馬に勝った時の楽しみ
小学生の頃、父に連れられ、家のある四谷から船橋競馬場へ行きました。父は競馬が大好き。私はお馬さんを見るのも飽きてしまうのですが、一つだけ楽しみがあるのです。それは、父が競馬に勝ったら船橋ヘルスセンターの大きなお風呂に入り、ホットケーキを食べさせてもらえるからです。負けたら、(オケラ街道一直線)?の歌を歌い道端のおばさんが焼いて売っている蛤を食べるのです。だから私は一生懸命父が競馬に勝ちますようにと祈りました。不思議なもので60歳になった私は今船橋に住み、お馬さんが大好きな馬ババです。昨年亡くなった父との思い出です。(ぷると)
6.ジェットコースターの思い出
テレビが一般家庭に普及し始めた頃、毎日の様にテレビから、♪船橋ヘルスセンター♪のコマーシャルが流れていました。東北の田舎から上京したばかりの級友と私は、休日に船橋駅で待合せて、憧れの総合温泉レジャーセンター行きのバスに乗りました。山育ちの私達は、生まれて初めての大プールに入り、目の前に広がる本物の海に驚き、感動しました。遊園地の乗り物にも挑戦し、ジェットコースターの落下する恐さに絶叫し、拡声器で園内中に流され恥かしかったのを覚えています。それ以来ジェットコースターには、乗れなくなりました!! お正月休みをもらっても、里帰りが出来ず、級友と思い切り遊んだ船橋ヘルスセンターでの楽しかった若き日の思い出です。(船橋ばあば)
7.父母の結婚式
父母の昔のアルバムに、船橋ヘルスセンター宴会場にてと添えられた集合写真がある。新郎新婦の出立ちの2人の周りにはとても晴れやかな笑顔の大勢の人。自分が小さい頃は、お父さんお母さんは、なんで健康ランドで結婚式をしたのかな?お金がなかったのかな?なんて心配までしていた。インターネットが普及した今、船橋ヘルスセンターを改めて調べてみたら、日本館という格式ある建物があり、結婚式場やホテルもあった事がわかる。船橋で産まれ育った父。家から数分の距離にあった船橋ヘルスセンターでの挙式は、決して貧乏だったからではなく、幸せでとても誇りに思うべき歴史だったのだ。跡地に残る一本松を通り過ぎる時に、ふいにタイムスリップしたりして…と思ったりする。そんな話もしてみようかなと、写真と変わらぬ笑顔が待つ、実家への道しるべ。(ヒカリ)
8.アイススケート場の思い出
夏のお目当てはゴールデンビーチと大滝すべり。冬は大滝すべりの下にあったアイススケート場。はじめの頃は、市川駅から千葉街道を走る京成バスを使っていましたが、渋滞が酷かったので、京成電鉄のセンター競馬場前から歩くように。スケート場の中で食べるアメリカンドッグと、北風が吹く中、駅からの途中で飲む温めたコーヒー牛乳も楽しみでした。連れて行ってくれた父も今年三月に亡くなり、当時の思い出を話すこともできなくなりましたが、空の上から四年前にできたアイスパークを眺めているかもしれません。(NEVE39)
9.兄と乗ったセスナ機
小学生頃なので今から60年も前になりますかねぇ…。当時江東区の砂町在住で総武線亀戸駅から手軽に行ける事もあり夏休みになると両親と兄の4人家族でよく船橋ヘルスセンターへ行きました。2個上の兄は落着きがなく広いセンター内で何回か迷子になりました。又セスナ機に乗り記念写真も撮りました。よくぞセスナ機に乗れたもんだと当時としては経済も大変な中、両親が子どもたちの為に奮発したのだと思います。潮干狩りや海水を張った巨大プール?等々。いつの頃からか行かなくなりいつまでもあると思っていた船橋ヘルスセンターがなくなるニュースをみて何とも悲しい気持ちになった事、覚えています。船橋ヘルスセンターは昭和の景気が良い時の象徴だったのだと思います。船橋ヘルスセンターは私にとっては今は亡き両親との夏の思い出となっています…(かっちゃん)