釜石艦砲80年― 「翳った太陽」を歌う会 合唱で伝える戦禍の記憶 釜中生 平和への願い心に刻む
「忘れもしない 昭和20年7月14日のこと…」。太平洋戦争末期の1945(昭20)年、釜石市が米艦隊から受けた艦砲射撃の惨禍をつづった女声合唱組曲「翳(かげ)った太陽」。この曲を歌い継ぐ市内のコーラスグループ「翳った太陽」を歌う会(菊地直美会長、会員11人)は、被災から80年となった14日、釜石中(佐々木一成校長、生徒284人)の全校生徒に対し、同曲を歌い聞かせた。「命を奪う戦争は決してあってはならない―」。生徒たちは郷土の悲しい歴史を脳裏に刻み、平和な世界の実現を心から願った。
会員8人によるコンサートは同校の体育館で行われた。作曲者で歌の指導にあたる最知節子さん(82)が指揮し、全6曲を歌い上げた。「翳った太陽」は、艦砲戦災経験者の故石橋巌さん(2006年逝去)が残した絵手紙などを基に作られた。当時、小学校教員だった石橋さんは砲撃で教え子を失った。焼け野原となったまちで遺体を運ぶ過酷な作業にも従事。絵手紙にはそのつらい記憶が記されていて、これが歌詞の原形になった。
歌唱後、最知さんは組曲の1曲「さいかちの実」の作詞者で、釜石艦砲の証言記録集の刊行、反戦・平和運動に力を注いだ故千田ハルさん(2021年逝去)から託された言葉を紹介。「戦争はどんなことがあってもしてはいけない。どんな理由があってもです」。重ねて最知さんは「今日、私たちは皆さんの心に『平和』という種をまきました。一生懸命育てて、美しい平和の花を咲かせてください」と呼び掛けた。
小学校の頃から語り部の話を聞くなど戦争について学んできたという川端俐湖さん(2年)は「歌によって、戦争の悲惨さがより重く伝わってきた。合唱という伝え方は幅広い年代の方々に知ってもらえる方法だと思うので、これからも続けていってほしい」と話し、聞かせてくれた同会に感謝。生徒会長の白野真心さん(3年)は「戦争は恐ろしく、命が簡単に失われてしまう。戦後80年。艦砲射撃を受けた方々は亡くなってきて、戦争の記憶が失われつつある。少しでも世界の人々の命が救われるよう、今日聞いたことをしっかりと後世に伝えていきたい」と誓った。
同会は戦後60年の2005年に活動を開始。市内小中学校でのコンサート、米英両艦隊による2回目の砲撃を受けた8月9日に行われる市戦没者追悼式などで歌い続けてきた。東日本大震災や新型コロナ禍で活動休止を余儀なくされた時期もあったが、継承への強い思いは変わらない。戦争体験者からじかに話を聞く勉強会も開いていて、さらなる理解を深めている。現合唱メンバーは14~83歳の女性。
後継者育成を願う同会の意向をくみ、釜石中では2017年、特設合唱部が同曲を歌う活動を開始。会員らと追悼式の献唱に参加してきた。21年には、同会制作のCD収録にも協力。現在、校内での合唱団活動は行われていないが、3年の髙橋杏奈さんが会のメンバーとして活動している。髙橋さんはピアノを習っていた最知さんに誘われ、小学2年生から合唱に参加。「中学生になり戦争について学んだことで、歌詞の意味をより深く理解し歌うことができている」と話す。この日は初めてソロパートにも挑戦。「緊張したが、練習の成果を悔いなく出せた」と表情を緩めた。ロシアとウクライナの戦争など海外の悲しい現実を見聞きするたび、「本当につらい。世界が早く平和になってくれることを祈るばかり」と思いを明かした。
同会の学校訪問コンサートは今回で11回目。これまで市内8校で実施し、釜石中では統合前の釜石一中での開催を含め4回目となった。菊地直美会長(62)は「ここまで歌い継いできた先輩方には頭が下がる思い。次世代を生きる人たちには、平和を願う気持ちをずっと持ち続けてほしい。1人でも多くの方に合唱に参加してもらいたい」と、一緒に歌う仲間を募集する。