建築的思考で未来をデザインする。ナカシマファーム3代目が描く新たな風景
築169年の建物から生まれる酪農の新機軸「乳(NEW)カルチャー」
佐賀県嬉野市塩田町の中心部、古い町並みが残る長崎町道・塩田津に、築169年の蔵をリノベーションしたカフェ『MILK BREWCOFFEE 塩田津本店』がある。江戸時代、宿場町としても栄えたこの地区に、新たな風景を生み出しているのは、嬉野市唯一の酪農家「ナカシマファーム」3代目の中島大貴(ひろたか)さんだ。
彼が日本で初めて製品化したブラウンチーズは、チーズ製造で廃棄されていた乳清(ホエイ)を活用したもの。サステナブルな酪農を体現するこの商品で、彼は2018年の「Japan Cheese Award」で金賞・部門最優秀賞を、翌年の「World Cheese Awards 2019」では銅賞を獲得し、国内外で高く評価された。
2021年に販売を開始した「MILK BREWCOFFEE」は、コーヒー粉を搾りたてのミルクに一晩漬け込んで抽出する、独自の製法によるドリンク。ミルクの可能性を拡張する、新しいコーヒー体験を生み出している。
〈▲ 『MILK BREW COFFEE 塩田津本店』〉
〈▲ 趣きある壁に鮮やかなポスターが際立っている〉
店内に足を踏み入れると、酪農業からは想像もつかない洗練された空間が広がる。浅煎りの珈琲豆から立ち上るフルーティーな香りが漂い、高く抜けた天井にはどっしりとした梁がかかる。歴史を感じさせる木造建築と人工大理石やステンレスといったモダンな素材の調和に目を奪われる。
奥のガラス扉の向こうでは、牛乳やチーズを使ったお菓子作りが行われていた。車で5分ほどの牧場で搾られたフレッシュな牛乳が使われている。
棚には水色、オレンジ、ピンクの3色でデザインされたパッケージのアイテムが並ぶ。長閑な田舎町で出会ったモダンなデザインに、思わず「ここが佐賀県の小さな町なのか」と驚かされる。
家業の酪農を継ぐ気など毛頭なかったという中島さん。地元の高校を卒業後、関東の大学で建築を学び、建築家を目指していた彼が、なぜ故郷で酪農家となり、町に新たな景色を生み出しているのか—―。その答えを求めて、彼の歩みをたどる。
PROFILE
中島大貴
なかしま・ひろたか/ナカシマファーム代表。1986年、佐賀県嬉野市生まれ。祖父の代から続く水田酪農を継ぐ酪農家の3代目。大学で建築学を学び、2009年に実家へ戻り就農。2012年にチーズ工房「ナカシマファーム」を立ち上げ、チーズの製造・販売を開始。2018年には、福岡の「ROASTERY MANLY COFFEE」と共同で新しい抽出法「MILK BREW」を開発。2021年塩田津にカフェ「MILK BREW COFFEE」、2022年には嬉野温泉駅前にセレクトショップ「UPLIFT SHIMOJYUKU」をオープンするなど、乳を起点に佐賀・嬉野から新たな文化=「NEW CULTURE/ニュウ(乳) カルチャー」を発信している。
到達点から逆算する思考
「実家のすぐ裏に牛舎があり、他の家庭の親が会社に通うように、父母が牛舎へ仕事に向かう姿が日常風景だった」と中島さんは幼少期を振り返る。時折、牛舎の作業を手伝わされることはあったが、家族と共に働くイメージは持てず、家業を継ぐ意思もなかった。
小学生で始めたソフトテニスに熱中し、中学、高校と部活中心の生活を送った。高校選びは迷わず、ソフトテニス強豪校の工業高校へ。プラモデルやレゴなど、ものづくりが好きだった中島さんは建築学科に進んだ。
ソフトテニス部では学年の上下に全国優勝者がいるトップレベルの環境で、「到達点」から逆算する思考が培われていった。インターハイに出場するも校内では勝てず、レギュラーの座は遠かった。
「勝てないなかで自分なりの目標を作りました。狙った試合で結果を出せれば、それまでの過程で注目されなくても構わない。自分が勝つと決めた試合で勝てればいいと」
この経験から「勝ちたいより、負けたくない」という原動力が生まれ、高校卒業後の進路選択にも影響を与えた。
多くの同級生が就職するなか、中島さんは大学進学の道を選ぶ。
「行きたい大学があるわけでも、やりたいことがあるわけでもなかったんです。でも、みんなが選ぶ就職というルートからは外れたくて。一度始めたことは最後までやり切る性分だからこそ、就職はしないと決めました。その会社でどんな成果を出せても、そこが自分の“到達点”になるのは違うな、と思ったんです」
〈▲店内には「MILK BREW COFFEE」のロゴが施されたアイテムが並ぶ〉
建築の視点で酪農を再構築する
大学で建築を学んだ中島さんが、今も鮮明に覚えている教授の言葉がある。
「人に表現するときに、世の中に対して批評性があるものじゃないと面白くない」
この何気ない一言を中島さんは、「世の中でおかしいと感じる課題に対して、解決策を内包して提案すること」と解釈。この視点が、その後の創造活動の軸となっていく。
「公共の場と私有地の混ざり合い」を卒業研究テーマにしたフィールドワークでは、印象的な光景から多くの気づきを得た。埼玉県の住宅地で見つけたのは、公共のフェンスに住民が布団を干したり、植木鉢をかけたり、さらにはフェンスを壁にして犬小屋を作る光景だった。
「公共の場と個人が曖昧になっているのが良くて。ひとりがやり始めるとみんなもやっちゃう。その習性と生態系が好きなんです」と建築への思いを語る。
横浜大桟橋の風景も印象に残った。
「公園がそのまま海に伸びていく感じで、建築と町が影響し合っている。それでいて、人気のデートスポット。夕暮れになるとカップルたちがキスをしている。この人たち絶対建築に興味ないだろうけど、そういう使われ方をしているのがいいじゃないですか。建築の意図が直接伝わらなくても、人の行動が自然と導かれている。そのあり方が面白い」
「どこを歩いていても楽しめるタイプ」と自身を語る中島さんは、無造作に置かれた植木鉢や古びたアパートなど、日常の何気ない風景にも独自の価値を見出し、建築の面白さにはまった。
卒業後は「建築家になって面白いことをしたい」と漠然と考えていた中島さん。同級生と同じように就職活動を進め、ハウスメーカーや設計事務所の面接を受けていたある日、ふと気付く。
「ただ建築家として面白いことをやるのであれば、自分じゃなくても良いのでは?」
「そういえば家は酪農家だ。単に建築家になるよりも酪農家として建築的なアプローチを行う方が、より面白い到達点が見えるかもしれない」
家を出て建築を学んだことで、畜産業の新たな可能性に気付いた。それは多様な分野と関わる『システム』としての酪農だった。
建築学科の同級生たちと「誰が有名になって一番に取材されるか」を話した時、中島さんは確信していた。
「絶対、僕が一番だと思ったんです。まず“分母”が違う。酪農をしながら建築の視点を持っている人間なんて、日本で他にいないかもしれない。だからこそ、僕自身の価値や存在の見せ方も戦略的に考えるようになりました。言うなれば、セルフブランディングですよね」と当時を振り返る。
2009年、故郷・嬉野に戻った中島さんは、酪農家としての道を歩み始めた。
〈▲『MILK BREW COFFEE 塩田津本店』がある塩田津の通り〉
花壇から始める風景のデザイン
「2009年に帰ってきてから2012年にチーズ工房をオープンするまでの3年間は、ほとんど記憶がありません。朝5時半から夕方まで、1日10時間働く日々があっという間に過ぎていきました。家族経営なので予定があれば休めますが、休みたいとも思わなかったですね」
嬉野に戻った当初、「牛のことでは役に立てない」と感じた中島さんは、自分の強みである建築の視点を活かすことを決意する。最初に手がけたのは、隣地と面した牛舎の花壇づくりだった。花壇のふちを分厚くし、ひとが座れるようデザイン。家族に説明することはせず、体験して気付いてもらうことを意識した。
「地域において畜産がポジティブに捉えられない場合も少なくありません。それは解決すべき課題。そのために花を植えるところから始めたんです」
建築が生み出すひとの反応や、風景の変化を想像しながら場を整えていく——。
「隣で畑仕事をしていた方が、牛舎の花壇に座ってくれたときは本当に嬉しかったですね。そういう精神性や発想を持って牧場をつくっていかないと、大きな意味では地域に受け入れてもらえないと思っています」
「世のなかの課題に対して、解決策を内包して提案する」
——この建築的思考は、牛舎の風景さえも変えていく。
〈▲ 牛舎近くに広がる大麦畑。牛の飼料として栽培されている〉
塩田の本店から車で5分。田園地帯に佇む牛舎の前には、青々とした大麦畑が広がっていた。「この大麦は牛の飼料です」と中島さん。2016年頃から飼料用の稲や麦の栽培にも取り組んでいる。
約100頭の牛が暮らすこの牛舎で驚くのは、特有のきつい匂いがほとんど感じられないこと。これも中島さんの問題解決思考が生んだ成果だ。
「秘密は堆肥にあります。多様な微生物がバランスよくいられる環境を作り出し、匂いの原因となる特定の微生物が増えすぎないようにしているんです。人間の腸内環境のような『微生物フローラ』を牛舎に作っています」
チーズ製造でも用いられる発酵プロセスを応用した匂いのない堆肥が牛の寝床に敷かれ、糞尿もそのまま堆肥になる循環システムを構築。フカフカと柔らかなバイオベッドに、気持ちよさそうに横たわる牛の姿が印象的だ。
〈▲ 12時頃牛舎を訪れると、多くの牛たちは堆肥のベットに寝転んでいた〉
「リサイクルセンター」としての畜産
中島さんは「畜産」を循環の起点となる「リサイクルセンター」として捉えている。
「畜産は人間が利用できない資源を、利用できる形に変えてくれるんです」
牛が硬い草を食べて、人間はその肉を食べる。製材所の木屑は堆肥に、醤油を作る際に出る醤油カスも飼料や堆肥になる。ある醤油メーカーが月10万円以上かけて廃棄していた醤油カスを、中島さんは廃棄コストの10分の1で買い取る。食品製造で生まれる「廃棄物」も、堆肥や飼料になれば「副産物」として価値を生み出す。
カフェでは生分解性カップを導入し、客がカップを堆肥に捨てる体験も提供。店や家庭の生ゴミも堆肥にリサイクルしている。
「生ゴミの8割ほどが水分です。僕たちはお金をかけて水を燃やしているんです。もうちょっとどうにかできそうじゃないですか」
そう話す中島さんの動機は、とてもシンプルだ。
「『地球のため』とか『サステナブルのため』という大げさな理由ではなく、単に『この気持ち悪さを解消したい』という感覚なんです。もっと楽しく、もっと自然になれそうな気がして」
とはいえ、生分解性カップの導入などリサイクルシステム構築には、コストがかかる。その点について尋ねると、静かに言葉を紡いだ。
「問題の根源を突き止め、そこにかけているお金を別のところにかける。それだけのシンプルな発想です」
畜産業の可能性についても中島さんは、こう続けた。
「商品作りにおいて廃棄物や副産物について多くは語られませんが、最初からそこに目を向けて商品開発を行うことで価値もコスパも向上する可能性があります。いい循環をつないでいけば、どこをマネタイズしても構わない。お米が高ければ牧草地を水田に戻し、化学肥料が高ければ牛の糞を堆肥として活用する。畜産にはそういう柔軟性があるんです」
〈▲ 牛舎横のスペースで堆肥を作っている。この堆肥に生ゴミや生分解性プラスチックを捨てると分解されていく〉
デザイン思考でチーズ作りに挑戦
酪農家となって3年後の2012年、中島さんはチーズ作りに着手する。
チーズを作った理由を尋ねると、「よく聞かれるんですけど実は覚えていなくて」と中島さん。
「『チーズ作りたいよね〜』って家族で話して、翌日から作り始めるくらいの感じでしたね。うちの家族はものづくりへのハードルが低いので。ただ、取材で聞かれるので、後付けで理由を作りました。成功したひとって、実は事前に深く考えていないですよね。経営者は後付け能力が高いと思うんです(笑)」
取材用に作った“後付けの理由”についても教えてくれた。
「おばあちゃんはお味噌や発酵食品をつくっていて、母は牛乳を使った食品を作っていた。そしたら酪農家にとっての漬物って発酵食品のチーズだから、チーズを作りました」
冗談めいてこう話す中島さんだが、さらに深く聞くと、彼の育った日常の中に、味覚を育む要素が豊富にあったと漏らす。
例えば、祖母は漬物や味噌、あんこなどを自作し、しまいには加工所を立ち上げて商品販売も行っていた。凝り性の母は「これ食べてみて」と、試作したプリンを毎回勧めてきた。祖母や母の姿を見つつ料理のイロハを覚える一方で、市販のお菓子を食べては使われている材料を当てたり、帰宅時に夕飯のメニューを予測するゲームをひとりで楽しむという、謎の食オタク的な行動を取るようになっていた。
〈▲ 今でも家に帰ると玄関に漂う料理の匂いで、「今日のごはんはあれかな?」と考えるという中島さん〉
「そもそも、ものづくりへのハードルが低い」という中島さん家族は、チーズ工房も自分たちで建てた。図面を引いてわずか3カ月ほどで完成させると、酪農業務の合間に週一回、中島さんと母のふたりで少量からチーズ作りを始めた。独学で学びつつも、なかなか自分たちの理想とするチーズは出来上がらない。そう悩みながら訪ねた先輩チーズ職人の言葉が、彼らの背中を押した。
“どうせ納得できるものなんてできないから、早く商売を始めてお客さんに育ててもらわないと美味しくならない”
2012年5月、近隣の道の駅への商品納入からスタート。「これでよしとは納得いかないながらも、食の安全性を保ちながらチーズの販売を始めました」と当時を振り返る。
2025年現在では350軒ほどまでに増えた国産チーズの製造事業者も、当時は国内で100軒ほど。「日本でチーズ作れるんだ?」と珍しがられることもあり、評判は広がり売上も伸びていった。
〈▲ 水田で育てる稲や麦が牛たちの飼料となる〉
一方で、酪農業界は衰退の一途をたどっていた。当時、中島さんは何を見据えていたのか。
「嬉野に戻った2009年当時、佐賀県内に約120軒あった酪農家は、今では25軒ほどに。嬉野市に数軒あった酪農家も、今ではうち1軒だけです」と中島さんは振り返る。
「この流れを自分ひとりで変えることはできない。だからこそ、自分にできることに集中しようと考えました」
中島さんが見据えたのは、品質への一点集中だった。
「実は、チーズ作りを始めた時点で、10年以内にコンテストでトップを取れると確信していました。コンテストでの受賞は、売上や事業を拡大することとは違い努力次第で狙えるものですから。その確信の裏側には、明確なロジックがある。
「自分の能力を過信しているわけではありません。酪農をしながらチーズを作り、味の判断ができれば、品質は必ず向上していきます。今日できたものと次回のものを比較して、どちらが美味しいかを正確に見極める。『前のほうが良かった』と感じたら戻せばいい。そうやって積み重ねていけば、トップに到達できると信じていました。当時25歳でしたが、35歳までには結果を出そうと決めていたんです」
当初は家族の何気ない会話から始まったチーズ作りだが、振り返るうちに中島さんならではの視点があったことも見えてきた。
「多様な世代が重なるシーンをチーズで作りたいですね。チーズは、子どもからお年寄りまで、朝から夜まで、お酒の席でも楽しめる。どんなシーンにも溶け込める食材なんです」
チーズ作りにおいても、建築家の視点から「シーンをデザインする」ことを考えていた中島さんだが、事業が拡大していくに連れて、新たな課題に直面する。
〈▲『MILK BREW COFFEE 塩田津本店』で提供されているホエイと地小麦の「シナモンロール」「MILK BREW COFFEE」「ソフトクリーム」〉
〈▲農家さんから仕入れたいちごで仕込んだシロップを使った「いちごみるく」と「MILK BREW COFFEE」。いちごみるくをいただくと、甘ったるくないみずみずしいいちごとフレッシュなミルクが爽やかな飲みごこち〉
問題解決から生まれたブラウンチーズ
「チーズ作りでは、牛乳の約9割がホエイ(乳清)として分離され、実際にチーズとして残るのはわずか1割程度。チーズの製造量が増えるほど、廃棄するホエイも増えていく。乳搾りからチーズ作りまでを一気通貫で行う酪農家だからこそ、スタッフの労力を思うとやりきれなさを感じるんです」
この問題を解決するために取り組んだのが、ホエイを活用したブラウンチーズの開発だった。ここから中島さんは、商品開発の際に副産物まで考慮する「デザイン経営」へと舵を切っていく。
ヒントとなったのは、牛乳を煮詰めて作る日本最古の乳製品『蘇(そ)』と、ノルウェーの国民的チーズ『イエトオスト』。業界内でもブラウンチーズの存在は知られていたが、煮詰める工程に時間と労力がかかるため、商業的に採算が取りにくく、製品化されていなかった。
「家庭用の鍋で作れたとしても製品化は難しいので、最初から自動で調理できる機材を探し、佐賀県の農業大学校の加工室にある窯を使わせていただいて試作を始めました」
完成したブラウンチーズの販売価格は、当時の一般的なチーズ相場の倍以上にあたる100gあたり1400円に設定。
「日本で最初に販売する者として、ブラウンチーズはホエイを使った商品として新しい文化になり得ると考えていました。だからこそ今後、商品化していくひとたちのことを考えて値付けを行うことが重要だと思ったんです。後は、経営視点で手土産として成立する“ちょうどいい価格”という点を考慮しました」
この価格設定が先例となり、のちに他の生産者も同様の価格帯でブラウンチーズを商品化していくことになる。
ブラウンチーズはただ食べるだけではなく、“素材”としての可能性もあると中島さんは語る。
「バターは牛乳から脂肪分を取り出したもの。一方ブラウンチーズは牛乳から糖分を取り出したものです。乳糖は砂糖より穏やかな甘みで依存度も低い。料理に使える新しい“糖”のひとつとして、もっと広まっていってほしいですね」
新しい挑戦に対する周囲のネガティブな声にも、中島さんは動じることはなかった。その強さの源には、日々向き合っている“命の現場”としての酪農のリアルがある。
〈▲ 牛舎の近くの水田で育てられた稲や麦を食べる牛の糞尿は堆肥となり、牛のベッドや水田の肥料にもなる〉
命の現場に向き合う日々
「これまで牛のことはあまり話してこなかったんですが」と中島さんは静かに語り始めた。
「牛を飼っているということは、命の現場にいるということです。そこでは命が生まれ、家畜である以上、基本的には人間の都合で命を終わらせます。そういう立場で愚痴を言うのは違うと思っていました。言葉にしたら、牛に申し訳ない気がして」
場合によっては、自らの手で死体を運ぶこともある。それは、一般には見えづらい酪農の現実だ。
「そこには、圧倒的なリアルがあるんです」
帰郷して1年ほどが経った頃、中島さんにも辛い時期が訪れた。原因不明のまま、子牛が次々に死んでいった。保健所で解剖を行ったが、結局原因はわからなかった。
「当たり前といえば当たり前なんですが、そういう出来事が起きていても、社会は何事もなく回っている。夜になれば普通に飲み会があって、友人や仲間から誘われて酒を飲む。二次会でカラオケも歌います。牛が死んでしまったことへの悲しみや悔しさはあっても、周りに悟られないようにして、自分のなかだけに留めておくんです。人に話して楽になりたくない。それが僕なりの牛への約束なんです」
日常的に命の最前線にいる中島さんは、こう考えている。
「それを誰かに分かってほしいとは思わないし、『今日こんなことがあって…』なんて話すこともない。日常との落差を埋めるのは、自分でしかできないんです。だから、ひとが何を言っているかなんて気にしない。気にする必要のないことばかりです」
その厳しい現実と向き合いながら、中島さんが何よりも大切にしているのは、“日々の平穏”だ。
「設備が順調に回っていて、トラブルがない。それ以上は望んでいません。ふとしたときに、『最近、牛の事故や怪我がないな』と気づける。そんな瞬間が、一番の幸せですね」と穏やかに語る。
〈▲ 牛舎の横に堆肥舎がある〉
地方から描く未来の風景
建築で学んだデザイン思考を武器に、酪農に新しい価値を見出してきた中島さん。嬉野市内の小学生以下の子どもたちに年一回、キッズミルクもしくはキッズソフトをプレゼントする「MOO MOO PICNIC」もその取り組みのひとつだ。
グラフィックデザインを手がけるのは、資生堂でクリエイティブを担当していた小林一毅さん。インスタグラムでつながったことがきっかけだった。
「デザインで大切にしているのは『生まれる気持ちよさ』です。MILK BREWのテーマカラーである水色、オレンジ、ピンクの3色は『この町にない色』を選びました。このデザインを持って町を歩くと、町自体が素敵に見える。真っ白い牛乳や白いソフトクリームも、見慣れた風景に新しい彩りを与える。シーンそのものをデザインしているんです」
「メッセージとして何かを語るつもりはありません」と中島さんは言う。
「僕たちは酪農家だけど、こういうデザインの店を持っている。その現実を見てもらうことが、何よりのメッセージになると思っています。言葉ではなく、実際の風景を見せることで『自分もやってみよう』と思う人が増えていくと嬉しいです。
酪農という365日休みのない仕事をしながら、店をつくり、展開する。そうやって実現できたら、『忙しくてチャレンジできない』という言い訳は通用しなくなるでしょう」
さらに中島さんは、挑戦の意義をこう例える。
「陸上の桐生選手が100メートルで日本人初の9秒台を出したことで、今の若い選手たちは『日本人でも出せる』という前提で挑戦できますよね。僕も、地方の酪農家でも新しい可能性を切り拓けると証明したい。後に続く世代の“当たり前”をつくりたいんです」
〈▲ 東京や全国各地へ「MILK BREW COFFEE」のポップアップを積極的に展開している〉
中島さんの循環型農業と6次産業化の取り組みは、2024年に農林水産大臣賞を受賞。チーズ製造からカフェ運営までを一貫して行う酪農のモデルケースとして全国から注目され、多くの農家が視察に訪れている。
2025年4月時点のナカシマファームの売上構成は、牛乳卸、チーズ事業、カフェ事業がそれぞれ1:1:1の割合を占めている。しかし、使用する牛乳の量を見ると、チーズは全体の10%、カフェ事業に至ってはわずか1%。残りは牛乳卸に回されている。つまり、牛乳全体の1%しか使っていないカフェ事業が、売上の3分の1を生み出しているのだ。ここにも、6次産業化の収益性の高さが表れている。
〈▲嬉野温泉駅前の「UPLIFT SHIMOJYUKU」。期間限定で牧場でよく見かける白い物体、「牧場のアレ」が置かれていた〉
〈▲嬉野温泉駅前の「UPLIFT SHIMOJYUKU」。広い空間にゆったりとした時間が流れている〉
「僕たち」と語る中島さんのもとには、事業の拡大に伴い、2024年11月時点で21名の仲間が集い、家族経営からチーム経営への移行も進んでいる。日々の挑戦が形になりつつある今、38歳になった中島さんが見据える次のゴールとは何か。
「『牛乳』『酪農』『牛』と聞いたときに、幸せや愛情を自然と感じられる世界を作りたいんです。たとえばスターバックスの『コーヒー』といえば、おしゃれとか癒しといったイメージがすぐに思い浮かぶ。でも『牛乳』には、まだそこまでの感情的な価値が宿っていない。だからこそ、僕たちは牛乳に“感情価値”を宿すトップランナーになりたい」
さらに、「水田酪農3.0」と呼ぶ構想についてもこう語る。
「1.0は米を取ったあとの稲藁を牛に食べさせる、2.0は今うちがやっているように、水田の資源を牛に与える。3.0では、牛が実際に水田にいる風景をつくりたい。通勤途中に田んぼで牛が草を食んでいる姿を見れば、それだけでストレスが和らぐ——そんな景色を描いています」
最終的には、まちづくりを構想するディベロッパーが「この地域に“装置”としてカフェを置きたい」と考えたとき、スターバックスやブルーボトルと並んで『MILK BREW』の名が挙がることが目標だという。
「そのために一番大事なのは、水田で稲や麦を育て、それを牛に食べさせ、出てきた糞や尿を堆肥として田んぼに返すという循環の仕組みです。この循環があれば、最終成果物は何でもいい。僕は『ブランディング』という言葉を使わなくても、自然とブランディングされていくと考えています」
そう語る中島さんが最近、カフェで目にした光景がある。
「この堆肥、どうしたらいい?」
スタッフ同士の何気ない会話。その目線の先には生ゴミがあった。いつの間にか彼らは、「生ゴミ」を「堆肥」と呼んでいたのだ。
「デジタルネイティブという言葉があるように、『サステナブルネイティブ』の世代が生まれていくのかもしれません」
より面白く、より広がりのある豊かな風景を求めて——。この町で生まれ育った中島さんが描く未来の風景は、やがて誰かの“当たり前”になっていく。