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【ハービー・ハンコック】ドラッグ中毒の渦中で披露した最高のパフォーマンス─ライブ盤で聴くモントルー Vol.59

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ライブ盤で聴くモントルーVol.59_TOP画像

「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。

2024年12月、84歳のハービー・ハンコックは、横浜で開催されたモントルー・ジャズ・フェスティバル・ジャパンに出演した。ドナルド・バードのバンド・メンバーとしてデビューしてから60年以上。常にジャズの第一線で活躍し続けてきたハービーは、今がキャリアの頂点にあるのではないかと思わせる素晴らしいパフォーマンスを見せてくれた。本場のモントルー・ジャズ・フェスティバルにハービーが出演したのは1997年のことである。ジャズ界のトップ・プレイヤーたちともにロックやR&Bの名曲をプレイして会場を大いに熱狂させたハービーだったが、その頃彼は重篤なドラッグ中毒に苦しんでいたのだった。

30代半ばでの音楽人生回顧企画

1960年代のマイルス・デイヴィスのクインテットの活動は、67年の『ネフェルティティ』とその後の欧州ツアーで臨界に達し、翌68年からマイルスは電気楽器を導入して新しい表現を模索し始めた。それはまたジャズという音楽ジャンルの臨界点でもあって、60年代末からジャズは急速に電化時代に入っていった。

マイルス・クインテットのピアニストであったハービー・ハンコックは、チック・コリアと入れ替わる格好でマイルスの元を離れて自身のグループを結成した。エムワンディシ・バンドと呼ばれるそのセクステットでハービーが志向したのは、マイルスの『ビッチズ・ブリュー』にフリー・ジャズやサイケデリックの要素を加えて攪拌したような一種の前衛音楽で、彼のキャリア中最もアバンギャルド色の強いバンドがこのセクステットだった。その活動の経験を踏まえ、より大衆的表現を求めたハービーが73年にスタートさせたのが、エレクトリック・ファンク・バンド、ヘッドハンターズである。このバンドによって、ハービーはジャズの枠を超えた黒人音楽の最前線に立ったのだった。

マイルスは電化時代に入ってから、ごくわずかな例外を除いて過去のスタイルに戻ることはなかったが、ハービーは早くも76年にアコースティックへの回帰プロジェクトに取り組んでいる。きっかけは、ニューポート・ジャズ・フェスティバルの創設者ジョージ・ウィーンからのヘッドハンターズへの出演依頼だった。

すでに大ヒットを飛ばしていたヘッドハンターズを安売りしたくなかったハービーの当時の担当プロデューサー、デイヴィッド・ルービンソンは、ジョージ・ウィーンに「ハービー・ハンコック回顧プログラム」をやらないかと提案をした。オファーを取り下げさせるための無理筋の提案だったが、意外にもジョージ・ウィーンがそれを受け入れたために、ハービーは30代半ばにして自己の音楽人生を回顧しなければならなくなった。

キャリア曲折のスタート地点

フェス側から提示されたプログラムは、60年代マイルス・クインテット、エムワンディシ・バンド、ヘッドハンターズの3つのバンドが順に登場するというもので、ハービーがその趣旨をマイルスに話して恐る恐る出演を打診したところ、これも意外なことに、マイルスはその申し出を受け入れたのだった。

もしこの企画がこのまま実現していたら、前年から引退生活に入っていたマイルスを引っ張り出すことになったわけだが、「やはり、かつてのサイドマンの企画に俺が乗るわけにはいかないな」という理由でマイルスが翻意したことによってクインテットのリユニオンは叶わず、結果フレディ・ハバードがマイルスの代役を務めることになった。それが「マイルスのいないマイルス・クインテット」V.S.O.P.である。Very Special One-time Performanceという名が示すとおり、これは一度切りの企画となるはずであったが、その演奏があまりに好評であったために、バンドは79年まで存続し、その後も何度か再集結することになった。二度の来日のステージは、いずれもライブ盤として残されている。

アコースティックとエレクトリックの間を絶えず往還するスタイルがハービーの音楽活動の常道となったのは、このV.S.O.P.以降である。キャリアの曲折は、戦略的なものでも商業的理由によるものでもなく、たんにそのときにやりたいことをやるという方針の結果にすぎないと本人は語っている。

過去のアルバムとはまったく違う作品を

83年にヒップ・ホップの手法を取り入れた『フューチャー・ショック』を発表してメガ・ヒットを記録したのち、10年余りはエレクトリック・スタイルを主体とした活動を続けたハービーだったが、95年になって王道のアコースティック・ジャズ・アルバム『ザ・ニュー・スタンダード』を発表して話題を集めた。前作のエレクトリック・ダンス作『ディス・イズ・ダ・ドラム』から一転し、マイケル・ブレッカー、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネット、ジョン・スコフィールド、ドン・アライアスと、当時のオール・スター・プレーヤーと言っていいメンバーを招集して制作した作品だった。

ハービーの行ったり来たりの道行きは70年代から馴染みのものだったので、その変わり身の速さには誰も驚かなかったが、実はこの作品はこれまでと違って、キャリアの大きな転換点に位置するアルバムだったと彼は語っている。

一九九〇年代半ば、私はある結論に達した──これから私が作るレコードは、それまで作ったものとはまったく違う内容でなくてはならないし、私以外の誰が作ったものとも違う内容でなくてはならない。(『ハービー・ハンコック自伝』)

一九九五年、私は『ザ・ニュー・スタンダード』というアルバムを作った。すべてのレコードを違った内容のものにすると決めてから初めて取り組んだレコーディングだった。(同上)

ポップ・チューンを素材にしたジャズ・アルバムというのが『ザ・ニュー・スタンダード』のコンセプトで、そのアイデアは当時のハービーの所属レーベルであるヴァーヴの担当者からもたらされたものだったが、売れ線を狙っていると思われるのは本意ではないと、ハービーは当初その提案を拒否した。しかし、ジャズとはもとよりポップスを素材としてきた音楽なのであって、結果多くの優れたスタンダード・ソングが現在も聴き継がれているという事実にあらためて思い至り、彼はこのプロジェクトに着手することを決めたのだった。

結果論としてのスタンダード

しかし、それは先に紹介した発言とは大いに矛盾した選択であった。ポップスをジャズ化することには、過去あらゆるジャズ・ミュージシャンが取り組んできた。ということは、このアルバムは「私以外の誰が作ったものとも違う内容」にも、「それまで作ったものとはまったく違う内容」にもならないだろう。

ハービーの言い分は、方法論は古くても、これまでジャズの世界で取り上げられてこなかったロックやR&Bの曲を取り上げる点に新しさがあるというもので、数多くの候補曲が検討された結果、アルバムにはドン・ヘンリー、ピーター・ガブリエル、ビートルズ、ベビーフェイス、スティーヴィ・ワンダー、シャーデー、サイモン&ガーファンクル、プリンス、ニルヴァーナ、スティーリー・ダンの曲が選ばれた。

とはいえ、その曲群を「スタンダード」と称するのはやはり無理があったと言うべきである。ビジネスの世界では、公的な制度や法律の力なしに標準として定着した商品やサービスをデファクト・スタンダードと呼ぶ。デファクト・スタンダードとは、さまざまな変数の複雑な作用によって結果的に標準となったものであり、それはあくまで結果論であるから、はじめから「これはスタンダードになる」という確信をもって商品やサービスを開発する人はいない。

ジャズやR&Bやロックにおけるスタンダード曲も事情は同じで、多くの人がプレイし、レコーディングした曲が結果的にスタンダードになる。マイルスはマイケル・ジャクソンの「ヒューマン・ネイチャー」とシンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」を84年にレコーディングした。この2曲はほどなくジャズの世界でスタンダードとなったが、マイルスはこれらの曲をスタンダードにしてやろうという意気込みをもって取り上げたわけではあるまい。曲のよさ、マイルスのようなビッグ・ネームが録音したこと、その他さまざまな要因で多くのミュージシャンが演奏するようになり、いつしかスタンダードになったのだった。マイルスが取り上げたからといってすべての曲がスタンダードになるわけではないことは、86年に彼が録音したスクリッティ・ポリッティの「パーフェクト・ウェイ」がそうならなかったことからわかる。

90年代アコースティック・ジャズの最高峰

いずれにしても、『ザ・ニュー・スタンダード』に収録された曲がその後スタンダードとなった形跡はない。しかし、あれほどの名手を揃えて内容が悪くなるはずはなく、アルバムのクオリティ自体は極めて高かった。

そのレコーディング・メンバーともにハービーがモントルー・ジャズ・フェスティバルに乗り込んだのは、レコーディングから2年が経った97年である。ステージでは『ザ・ニュー・スタンダード』から5曲、ドン・ヘンリーの「ニューヨーク・ミニット」、ピーター・ガブリエルの「マーシー・ストリート」、プリンスの「シーヴス・イン・ザ・テンプル」、スティーヴィ・ワンダーの「バッド・ガール」、そしてシャーデーの「ストロンガー・ザン・プライド」が演奏された。そのすべてを現在は2枚組CDで聴くことができる。

「ニューヨーク・ミニット」のようにオリジナルが完全に解体されてほとんど別物になった曲もあるが、それ以外は原曲の旋律や構成をいかしながらジャズ化するという伝統的なスタンダード演奏のマナーにおおむね沿っている。プリンスの「シーヴス・イン・ザ・テンプル」は、『グラフィティ・ブリッジ』という彼の代表作とは言えないアルバムからセレクトされた渋い選曲だが、メロディは美しく、プリンス自身はこれをとても気に入っていると話していたと思う。この曲のパフォーマンスをライブ中のベストとしたい。

CDにはおそらく編集なしですべてのパフォーマンスが収録されていて、長尺のパーカッション・ソロなどかなり冗長な部分もある。しかしそれを除けば十分に楽しめるライブ盤であり、『ザ・ニュー・スタンダード』とこのアルバムを合わせて聴くことで、90年代のアコースティック・ジャズの最高峰の演奏を体験することができる。

ドラッグとの孤独な戦い

モントルー・フェスに出演した97年当時、ハービーはおそらくそれまでの人生で最も困難な人生の局面にあった。ドラッグ中毒である。

アメリカでは、80年代から90年代にかけて、コカインを加工して固体状にしたクラックと呼ばれるドラッグが貧困層を中心に大流行し、大きな社会問題となっていた。価格が通常のコカインの3分の1から5分の1から程度で、吸煙によって手軽に服用できる一方、一回の吸引による効用がわずか5分から15分程度しか続かないために、常用者はクラックを入手することで頭がいっぱいになり、その生活は経済、仕事、家族、人間関係のすべての面で破綻する。

2021年に製作された『クラック: コカインをめぐる腐敗と陰謀』というドキュメンタリーをNetflixで見ることができるが、当時の都市の黒人貧困層におけるクラック禍は凄まじく、クラックを手に入れるために売春するばかりか実子まで売ってしまった女性のエピソードには言葉を失う。

ハービーは友人のパーティで初めてクラックを吸い、その後数年間にわたってクラックの囚われ人として生きた。クラックはそれを常用する者の人格を完全に変えてしまう。ジャズ界の大スターも例外ではなかった。喘息で苦しむ妻を自宅にひとり置き去りにし、娘の誕生日パーティを無断で欠席し、人知れずクラックを楽しめる場所に身を隠して行方不明となる。家族と友人たちの前で大泣きして更生を誓ったのは99年の年末近くのことで、リハビリセンターでの3週間の治療を経て、彼はクラックと同時にアルコールとも縁を切り、クリーンな身での再出発を果たしたのだった。

クラック中毒の渦中にあっても、中毒者であることを恥じていたハービーは周囲の誰にもその事実を悟られないようにしていたというから、バンド・メンバーたちも彼の苦しみを知ることはなかっただろう。孤独で凄惨な戦いの中で残された音源であったことを思えば、モントルーのライブ盤の聴き方が多少変わるかもしれない。

「老い」という言葉が似合わない男

2024年12月、ハービー・ハンコックは5年ぶりに開催されたモントルー・ジャズ・フェスティバル・ジャパンのステージに立った。テレンス・ブランチャードやリオーネル・ルエケらを擁したクインテットは、これはエレクトリックかアコースティックかと問う必要のない、たんに優れたジャズ・バンドであった。

60年代マイルス・クインテットの中で今も健在なメンバーは2人、ロン・カーターとハービーのみである。ロンは今年88歳、ハービーは85歳を迎える。年齢に相応した落ち着きを表現するロンに対し、ハービーは現在もなお老成とは無縁である。120年を超える長いジャズの歴史にあって、彼ほど「老い」という言葉が似合わないプレイヤーはいない。新たにポップス集をつくるなら、ボブ・ディランの「フォーエヴァー・ヤング」は外せまい。ショルダー・キーボードを弾きながらステージで飛び跳ねるハービーを見て、そんなことを思った。

文/二階堂 尚

〈参考文献〉『ハービー・ハンコック自伝 新しいジャズの可能性を追う旅』ハービー・ハンコック、リサ・ディッキー著/川嶋文丸訳(DU BOOKS)

『Live at Montreux Jazz Festival 1997』
ハービー・ハンコック

■〈Disk1〉1.New York Minute 2.Percussion & Drum Solo 3.Mercy Street 4.Thieves in the Temple 〈Disk2〉1. Percussion Solo~You’ve Got It Bad Girl 2.Love Is Stronger Than Pride
■ハービー・ハンコック(p)、マイケル・ブレッカー(sax)、デイヴ・ホランド(b)、ジャック・ディジョネット(ds,perc)、ジョン・スコフィールド(g)、ドン・アライアス(perc)
■第31回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1997年7月14日

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