三陸鉄道復旧。震災のわずか5日後、1両の列車が動いた――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』
情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版の第一作『新プロジェクトX 挑戦者たち 1』より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。
<strong>約束の春――三陸鉄道 復旧への苦闘</strong>
1. 三陸を襲った未曽有の大地震
3年後の入学式までに復旧せよ
東北・岩手県の山あいをひた走る三陸鉄道。2013(平成25)年に放送された朝の連続テレビ小説『あまちゃん』にも登場する、全国初の第三セクター鉄道である。レトロで愛らしい列車が風光明媚な土地を駆け抜けていく姿は、多くの人の記憶に残っている。車両のシンボルカラーである青・赤・白のトリコロールは、それぞれ「三陸の海」「鉄道に対する情熱」「誠実」を表している。
2011(平成23)年3月11日午後2時46分、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が三陸地方を襲った。岩手県ではおよそ6000人が津波の犠牲となり、三陸鉄道の線路や駅舎も流された。地震の影響で、全路線の9割で列車が通れない状況となった。
赤字続きのローカル線だった。沿線の人口減少やマイカーの普及により、2010(平成22)年には、利用者数が開業時の7割減( 85 万1000人)まで落ち込んでいた。被災による被害は甚大で、誰もが、三陸鉄道の廃線を覚悟した。
だがそのとき、人生をかけて、それに抗った者たちがいた。陣頭指揮を執ったのは、定年間際に三陸鉄道の社長に就任した、岩手県庁出身の望月正彦。鉄道が消えれば、地域の希望が消える。そして、地域そのものが消えてしまう。そういった強い危機感から、住民の願いを背負い、三陸鉄道の復旧工事を独断で発注した。
「6年と見込まれた工事を、3年後の春、子どもたちの入学式に間に合わせてほしい」
住民と建設会社を巻き込んだ、悲願の復興プロジェクト。これは、故郷の日常を守るため、見知らぬ者同士が力を合わせた勇気の物語である。
地元住民の悲願
物語は1980年代、三陸鉄道の開業までさかのぼる。
切り立ったリアス海岸で名高い岩手県の三陸沿岸地方は、昭和の半ばまで交通網の整備が遅れた地域だった。市街地まで船で1日がかりという地域もあり、「陸の孤島」とも評された。
1896(明治29)年に起きた三陸地震では、巨大津波が三陸沿岸を襲った。海辺の集落が多かったため、壊滅的な被害を受けた。加えて、急峻な地形が支援物資の輸送を阻み、二次被害も発生した。
この経験を踏まえ、三陸地方にも鉄道の建設を望む声が高まった。戦前には大船渡線(気仙沼―盛間)、山田線(釜石―宮古間)、八戸線(久慈―八戸間)が開通し、戦後も盛線(盛―吉浜間)や宮古線(宮古―田老間)、久慈線(普代―久慈間)が相次いで開通した。しかし、1980(昭和55)年の国鉄再建法によって、盛線、宮古線、久慈線は第一次特定地方交通線に選定されてしまう。いわば「赤字路線」の烙印を押され、廃止の対象とされたのだ。
このままでは廃線の危機もあったが、岩手県と沿線自治体が協力して設立した第三セクターが継承する形で、三陸鉄道株式会社が設立された。第三セクターとは、国や地方自治体、民間が合同で出資・経営する企業のことで、地域の人たちのためになることを第一の目的とした。
このとき、鉄道が敷設されていなかった吉浜―釜石間(15.0キロ)、田老―普代間(32.2キロ)も新設され、三陸沿岸地方が鉄道で縦貫された。開業時は盛─釜石間の「南リアス線」、宮古―久慈間の「北リアス線」に分かれていたが、2019(平成31)年にJR山田線の一部(釜石―宮古間)が三陸鉄道に移管され、現在の盛から久慈を結ぶ全長163キロの「三陸鉄道リアス線」となった。
「地域に愛される仕事」を求めて
1984(昭和59)年4月1日、三陸に暮らす人たちにとっての悲願でもあった「三陸鉄道」が開業した。当日は大勢の人が列車に乗車し、沿線では地域住民が走りゆく列車に手を振った。三陸鉄道は「三鉄」の愛称で親しまれ、高校生や病院に通うお年寄りなどの「足」となった。
1期生の北海道札幌市出身の金野淳一は、「地域に愛される仕事」に惹ひかれ、大手企業の誘いを断って三鉄に入社した。
「開業日はホームというホーム、駅という駅、どこもかしこも人だらけで、宮古駅にも線路の中にもお客様がたくさんいました。私は前の晩から宮古駅に詰めて、イベントの車掌を務めましたが、もう駅前も人で埋め尽くされていました。各駅で花束贈呈があったり、お客様が拍手してくださったり、おばあちゃんが泣いていたりとか、本当に皆さんが鉄道の開業を喜んでいたことを実感したのを覚えています」
その後、金野は運転士になってワンマン列車の運転業務などを行ったが、そこでも地元の人たちとの繫つながりを感じたという。
「列車に乗っていると、手を振ってくれたり、差し入れをいただいたりして、地域との繫がりを感じました。運賃を握りしめていらっしゃるので、渡されるときにほかほかしていましたね。ご高齢の方から、『三鉄のおかげで病院にも通えるし、買い物にも行ける。とてもありがたい』と声をかけていただいたこともあります」
過疎化による利用者の減少
三陸鉄道は、開業から10年は黒字経営だった。しかし、利用者が減少し、1994(平成6)年以降は赤字経営が続いた。通学する高校生の利用減も、三鉄の経営に大きく響いた。入社以来、三鉄の現場で働き続けた金野も、それを実感していた。
「昔は朝の列車に300人も400人も乗せて、列車が宮古駅や久慈駅に着くと、たくさんの高校生が乗り降りしていました。それこそ都会の電車みたいな混み具合で、乗っていても動けないぐらい、車内が混んでいました。でも今から30年ぐらい前から、徐々に減っているなと感じるようになりました」
知恵を絞って対策を考えた。車内を畳敷きの掘りごたつ風に改造した「こたつ列車」を導入するなど、さまざまな企画列車を運行して、多くの観光客を誘致した。それでも、赤字は避けられなかった。2010(平成22)年には、乗客数が開業時の約3分の1まで落ち込んだ。
沿線の過疎化が進むなか、岩手県庁職員の望月正彦が三陸鉄道の社長に就任した。2010年6月のことである。
「出張で宮古や釜石に行ったり、久慈に出向していた時期はありましたが、職場はほとんどが県庁所在地の盛岡でした。だから、すごく期待されて社長になったかというと、そうではなかったと思います。三陸が赤字続きだということは当然知っていたので、最初は正直厳しいなと感じていました。だけど、岩手県が好きで、岩手のためになるようなことをしたいと思って入庁したわけですから、できることをやってみようと思い、社長の職に就きました」
1952(昭和27)年生まれの望月は、残り2年で定年を迎える。県庁一筋で経営の経験はなかったが、これが最後の奉公と思い、妻を盛岡に残して社長に就任した。勤続26年の金野は、「自分でどんどん動くし、社員がやりたいことをやらせてくれる」と感じたという。
朝夕、学生の元気な挨拶が響く鉄道を穏やかに見守るうち、望月も地域の人々に愛される三鉄への愛着が強くなった。趣味の山菜採りも充実し、社長就任から9か月後の2011(平成23)年3月11日、その地震は起きた。
地震発生時の三鉄
午後2時46分、三陸鉄道が誇る美しい景観は一変する。観測史上最大マグニチュード9.0の地震が、東北地方をはじめとする東日本一帯を襲ったのだ。三鉄が走る沿岸部200キロに渡り、巨大な津波が押し寄せて家々を押し流した。
地震が起きたとき、望月は宮古駅の2階にある三鉄本社の事務室にいた。本社に導入していた災害優先電話が一斉に警告音を発し、その数秒後、ものすごい揺れが襲った。望月は動き出しそうな金庫を押さえながら、指示を出した。揺れが収まった後に大津波警報が発令されたことを確認すると、一般職員と乗客を宮古小学校に避難させるとともに、望月ら本社幹部は近くの陸橋に避難した。
地震発生時、列車は運行中だった。北リアス線では、久慈発宮古行の列車が15人の乗客を乗せていた。白井海岸駅を発車したばかりの列車は、運行部からの指令で緊急停止。しばらく停車していたが、夜までに救助が完了した。
南リアス線では、盛発釜石行の列車が2名の乗客を乗せ、大船渡市と釜石市の間にある鍬台トンネル内を走っていたところで緊急停止した。このトンネルと熊木トンネルの間に架かる荒川橋梁は、津波で崩落している。仮に列車を走らせてトンネルの外に出していたら、津波に飲まれていたかもしれない。
運転士は、停止後2時間が経過してからトンネル外に出て状況を確認した。外の世界は一変していた。車両に戻った運転士は2名の乗客を誘導し、約1.5キロを歩いてトンネルを脱出、乗客を大船渡市内の避難所まで送り届けた。車両はそのまま鍬台トンネル内に放置された。
三陸鉄道の本社は停電となり、余震も続いた。パソコンも電話も使えない。社長の望月は、宮古駅のホームに1台だけ停まっていた列車に対策本部を設置した。軽油を燃料に走るディーゼル車両のため、エンジンをかければ電気を使うことができた。
車内にはトイレもあり、駅の売店用にストックした菓子パンやカップラーメンを当座の食事とした。すでに日も暮れ、寒さも厳しくなったが、ディーゼルの暖房が社員たちの体を温めた。宮古駅前には家に帰れず、途方に暮れていた人もいたので、その人たちも車両に誘い入れた。
社員はホワイトボードやノート、災害優先携帯電話などを車内に持ち込み、情報収集や安否確認に追われた。北リアス線と南リアス線の列車の安全を確認すると、社員は新聞紙をかけ、列車の座席で眠りについた。この状況は、停電が解消する16日の夕方まで続くことになる。
津波によって全てが流された島越駅
3月13日、津波警報が注意報に変わった。望月は旅客サービス部長の冨手 淳と一緒に、宮古から普代村まで、様子を確認することにした。海沿いの国道は瓦礫に覆われていたので、林道などを使って1駅ずつ確かめた。
2人が現場で見たものは、想像を絶する光景だった。
宮古市田老地区は1896(明治29)年、1933(昭和8)年と立て続けに大津波による壊滅的被害を受けている。そのため、「万里の長城」とも形容される長大な防潮堤が築かれた。しかし、今回の津波はその上を軽々と越えて、家々を押し流してしまった。田老駅は線路の流失は免れたが、駅とその周辺には瓦礫が散乱していた。
北リアス線の島越駅は、頑丈なコンクリート製の高架橋が通っており、被害は大きくないと想定していた。しかし、実際に現地を見てみると駅舎ごと流されていた。島越駅は目の前に海が広がる瀟洒な南欧風の駅舎が特徴で、近隣住民からも愛される駅だった。ホームは高さ10メートルの場所にあったが、高さ25メートルの巨大津波は無惨にもこれを打ち砕くと、駅周辺にあった121軒の家々も押し流していた。残っていたのは、岩手が誇る詩人・宮沢賢治の詩碑のみであった。
記録写真を撮っていた冨手は、涙も出なかった。
「これは……という感じはありましたね。復旧にも相当な金額がかかるだろうというのがわかって、他の場所でもこういうことが起きているのだろうと感じました。復旧するにしても相当な時間を要するし、そもそも復旧できるのかという思いもありました」
あまりに凄惨な光景を前に、冨手はシャッターを押すのを躊躇した。しかし、災害の歴史を後世に伝えるため、ひたすら写真を撮り続けた。
望月もまた、変わり果てた沿線の光景に愕然としていた。そんな最中に、行方不明者を捜す消防団から思わぬことを尋ねられた。
「三鉄は、いつから走るんですか?」
それを聞いた望月は、思わず「えっ?」と返したという。
「だってこの状況を見ればね、高架橋が流され、駅が流されて、とんでもない状況じゃないですか。だから、『何でそんなことを聞くんですか?』と言ったんです。そうしたら、その方は『ウチの子が宮古の高校に通わなきゃいけないんだ』とおっしゃったんです」
望月が足元をふと見ると、線路の雪に足跡がたくさん残っていた。国道が寸断し、ガソリンも不足していたので、線路を歩いて避難所に向かう人も少なくなかったのだ。岩手県では5万人が体育館などに避難したが、物資は届かず、電話も繫がらず、家族の安否すら確認できない人々が大勢いた。線路の上には黒板が置かれ、伝言板代わりに使われていた。
「今、自分がここにいる意味は何か?」
「自分は、社長として何をすべきなのか?」
望月は、動かせるところから三鉄を動かす決心をした。
2. 震災から5日、奇跡の運行再開
三鉄の使命
宮古に戻った望月は、社員たちに運行再開の旨を告げた。しかし、運行の責任者である金野は、安全管理者の立場から「危険すぎる」と猛反対した。金野は仙台出張中に被災し、寸断された道路を避けながら宮古に戻ってきていた。
「どこの線路が壊れているのか、地震による影響がどのくらいなのかというのがわからない状況で、『動かせるところから動かす』と言われても、運行責任者としては『はい』とは言えないじゃないですか。だから、まずは調査をして、いろいろと検査を行い、悪いところがあれば修復させるのが大事だと思い、反対しました」
社員も被災している。列車を動かせる状況ではなかった。しかし、望月はそれを重々承知の上で、はねつけた。
「地域の人たちが一番困っているときに動かすのが、第三セクターとしての使命じゃないのか?」
ここで動かさなかったら、もう三陸鉄道は終わりだと、望月は考えていた。普段は穏やかな2人が、声を荒げて怒鳴り合った。1時間近く互いに思いをぶつけ合ったが、最後は金野が望月の熱意に押される形で折れ、ほとんど被災していない北リアス線の久慈―陸中野田間から復旧させることにした。望月が振り返る。
「正直、私が金野と何を話していたかはよく覚えていません。だけど、お互いに三鉄のこと、地域の人たちのことを思って意見をぶつけ合ったのは確かだと思います。最後は金野に納得してもらい、久慈に行ってもらいました」
車で約2時間かけて久慈に向かった金野は、現場の社員たちに列車を再開させる旨を伝えた。
「できるだけ早く動かすことを説明して、何か質問、意見、疑問、不満があるなら、今言ってほしいと言いました。この時間、この場を逃したら、もうそれぞれの部門ごとに線路や車両の点検、運転士の準備などをしなければならなくなる。そして、時間も限られている。全員の気持ちを1つにするため、『言いたいことは言ってほしい』と伝えました」
社員から挙がってきたのは、「なぜそんなに急ぐのか?」という疑問だった。それは、数時間前に金野が望月にぶつけた疑問と同じだった。まだ地震が発生してから3日目で、社員たちも混乱の極みの中にいた。自宅や車が流され、家族や友人、親戚と連絡がつかない者もいた。
社員たちの疑問に対し、金野はこう答えた。
「三鉄が今、やらなければならないことは何か。今、できることをやらなければ、三鉄の存在もどうなるかわからない」
社員たちにも思うところはあったが、復旧に向けての点検作業が14日から始まった。そして、久慈―陸中野田間の運行再開に支障がないことを確認してから、岩手県の達増拓也知事の了解を求めた。望月は1日5往復を望んでいたが、1日3往復という条件で許可が降りた(5月9日には1日8往復に増便)。
地震発生5日後の運行再開
3月16日午前8時、久慈―陸中野田間で運行が再開された。地震発生からわずか5日後のことだった。余震が続いていたので、時速25キロの徐行運転だった(4月11日からは時速45キロ)。「災害復興支援列車」として3月中の運賃は無料とし、4月以降も1年間は9〜33%の割引運賃とした。
運行再開に際し、望月は「警笛を鳴らしっぱなしで行け」という指示を出していた。
「目的は2つあります。1つは道路が津波で流された状況で線路を歩いている人がたくさんいたので、危険を知らせるため。もう1つは、鉄道が動いていることを、地域の皆さんに知ってもらうためです。列車を走らせていると、沿線の方たちが手を振ってくださって、そこで『運行を再開してよかった』と実感できましたね」
安全管理を担当する金野も、汽笛に対する思い入れは深い。
「汽笛はいろんな人たちの思いに響いていることを、あのとき本当に感じました。今も汽笛が鳴ると、この地域を三鉄が走っている証のように感じています。汽笛が鳴り、それを聞くたびに、私はワクワクしますね」
地震発生からわずか5日後の運転再開は、地元の人たちに希望の光をもたらした。久慈市に住む中戸鎖沙織は、野田村で被災した義父母にタオルと歯ブラシを届けるため、娘とともに一番列車に乗車した。
「夫から列車が走るという連絡があって、乗ることにしました。車も通れないし、電話もできなかったので、こんなにありがたいと思ったことはなかったですね。義父母は娘を見て、『よかった、よかった』と言って、とにかく安心していました。小さな列車ですけど、私の中ではすごく大きく感じています」
一番列車に乗車した金野も、沿道で手を振る人たちの姿を見て、ひとまず安堵した。
「被災した家の片付けや行方がわからない方の捜索などに当たっていた皆様は、長靴やカッパ姿で泥にまみれていました。『こんなに汚れているけど、乗せてもらえるだろうか?』と聞かれましたが、私は『どうぞ乗ってください。汚れたって洗えば大丈夫ですから』と言い、どんどん乗っていただきました。知り合いの顔を見て、『生きてたかぁ。よかった』という会話も聞こえてきました」
列車から降りるとき、乗客が駅員に「ありがとう」と言ってくれた。それを聞いて、社員たちも「動かしてよかった」「地域のために役立った」と思えた。この経験が、全線運行再開という高い壁に立ち向かうモチベーションとなった。