野瀬泰申の「青森しあわせ紀行 その8①」
2025年2月4日(火) ①マッチ箱とこぎん刺し
その朝、青森市役所に近い喫茶店「ばんかむ さとう珈琲店」に入った。以前書いたように青森県内を巡っていると昭和レトロな喫茶店が目につく。全国チェーンのカフェばかりになった東京に住んでいる身からすると、懐かしくて羨ましい光景だ。今回は何軒かの喫茶店を訪ねてみようと思っている。まず、ばんかむから始めよう。
昭和37(1962)年に20代後半だった先代の佐藤正男さんが「さとう珈琲店」を開いた。カウンターだけの小さな店だった。繁盛したのだろう、47年前にテーブル7席とカウンター10席のいまの店に建て替えた。
現在の店主、佐藤周一さんは言う。
「ばんかむはアラビア語です。ばんは豆、かむは液体。父が友人たちと考えたと聞いています。息子の私は高校を卒業して2年間、弘前のコーヒー豆卸の会社に勤めたあと、店を継ぎました」
店の壁のあちこちに絵が飾られている。見るとどれもリトグラフ(石版画)のようだ。
「版画が好きだった父が買い求めたものです」
白熱灯の淡い明りが、額縁の中の絵を優しく浮かび上がらせている。静かな店内でコーヒーの香りを嗅ぐ。こんなひと時はチェーンのカフェでは得られない。
店のどこかで柱時計が「カチカチ」と時を刻んでいる。この音を最後に聞いたのはいつのころだったろうか。音が私の記憶を手繰り寄せ、また手繰り寄せて、幼いころの夜に布団の中で聞いた「ボーン」という時を知らせる柱時計を思い出させた。
注文していたモーニングが出て来た。こんがりと焼けたバタートーストにポテトサラダ。ネルドリップで淹れたコーヒー。モーニングの王道だ。この店は隣でコーヒー豆を売っているだけあって、コーヒーが実に美味い。
佐藤さんが思い出したように1枚の紙を見せてくれた。
「これが昔のメニューです」
「COFFEE・SHOP さとう」のメニューでは、コーヒー、紅茶、ココア、ミルクコーヒーがすべて40円だ。食べ物もハムサンドが80円で、ハムトースト60円、チーズトースト40円、バタートースト30円。ただの勘だが、このメニューは開店から間もないころのものではないだろうか。
そんなことを考えていたら、佐藤さんが小さな箱を手にしてやってきた。
「マッチじゃないですか」
「これも昔のね」
店は禁煙なので、マッチを客に渡す機会はないだろう。でも昭和の時代、マッチといえば喫茶店だった。各店が意匠を凝らしたマッチを用意していたから、喫茶店のマッチ蒐集家も少なからずいた。ばんかむのマッチはカウンター奥の壁に飾られた絵を用いている。マッチを使い切っても捨てるのが惜しくなるような出来栄えだ。
懐かしい空間で朝食を済ませて、降りしきる雪の中を弘前市に向かった。目指すは「弘前こぎん研究所」だ。廃れていた津軽の伝統工芸「こぎん刺し」を復活させ、店頭やネット通販で販売するとともに、技術の伝承にあたっている。
藩制時代の津軽では農民が麻以外の着物を着ることが許されていなかった。麻では冬の寒さが堪えがたい。激しく動けばほつれ破れる。そこで生地を補強し、少しでも温かく過ごせるように木綿糸を刺す工夫が生まれた。
同じ津軽でも場所によって少しの違いがある。岩木川の東側にあたる弘前市東部、黒石市、平川市辺りで産するのを「東こぎん」、川の西側の弘前市西部、西目屋村で産するものを「西こぎん」と呼ぶ。さらにいまの五所川原市、つがる市のものは「三縞こぎん」という。
弘前こぎん研究所の中では生地となる麻布を機織りしている。これに職人の手わざが加わって昔ながらのこぎん刺しが出来上がる。ポーチやバッグ、名刺入れ、コースターなど、いまの生活を彩る様々な製品に仕立てられている。700円の楊枝入れから38万円の仕立て名古屋帯まで千差万別だ。
おっと、スケジュールがタイトだ。後ろ髪を引かれる思いで、次の目的地である市内の喫茶店「煉瓦亭」に向かった。喫茶店と書いたが、メニューを眺めればレストランに近いようだ。ちょうど昼時で店主が厨房に入ったままだったため店の来歴などは聞けなかったが、家具調度からは濃厚な昭和の香りが漂っている。
さて、何を食べようか。ばんかむでトーストの朝食を摂って3時間ほどしか経っていないから、空腹を感じない。と、そこにいい香りが流れてきて鼻腔を撫でた。カレーだ。思わずカレーライスを注文した。私は喫茶店に入るとオムライスを頼むことが多いが、カレーはその次くらいに惹かれるメニューだ。
やがて運ばれてきたカレーライスはサラダとスープ付きだった。皿の真ん中でライスとルーの境界線が描かれ、茹で卵がアクセントになっている。スプーンですくって一口食べてみるとスパイスの香りが口の中で炸裂した。炸裂といっても激しくはなく、鼻に抜ける程度。辛さも程よく、気が付くとほぼ完食。サラダもスープもなくなった。これは名店のカレーだ。
食後、店の中を覗くと、透明なシートの向こうに何かが見える。許しを得て足を踏み入れたら、そこはバーカウンターを備えたライブハウス風の空間だった。道路側の喫茶店が昼の部なら、そこは夜の部の部屋だ。いまでもライブが開かれているのだろうか。
青森の喫茶店は奥が深い。
野瀬泰申(のせ・やすのぶ)
<略歴>
1951年、福岡県生まれ。食文化研究家。元日本経済新聞特任編集委員。著書に「天ぷらにソースをかけますか?」(ちくま文庫)、「食品サンプルの誕生」(同)、「文学ご馳走帖」(幻冬舎新書)など。
◇店舗情報◇
店舗名 ばんかむ 住所 青森県青森市中央1丁目26-1 電話 017-722-3809 営業時間 7:00〜17:30(日曜定休日) 店舗名 (有)弘前こぎん研究所 住所 青森県弘前市在府町61 電話 0172-32-0595 営業時間 9:00〜16:30(土曜、日曜定休日) 店舗名 煉瓦亭 住所 青森県弘前市土手町24 2階 電話 0172-35-9890 営業時間 11:00〜17:00
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