花巻の高校野球史・昭和のレジェンド 花巻北の甲子園
今年、菊池雄星がプロデュースした複合野球施設
令和6年は花巻東高野球部が夏の甲子園に出場し、東高出身の大谷翔平選手がメジャーリーグで3度目の最優秀選手賞を授賞し、菊池雄星選手は花巻に複合野球施設を設立するなど、花巻の野球の話題が注目されています。この15年間で花巻東高校野球部は春夏合わせて甲子園に12回出場する強豪校に躍進しました。花巻の高校野球史をたどると半世紀前の昭和40年前後に、花巻北高校が岩手県の高校野球を牽引し、甲子園に3回出場した黄金期がありました。先日、当時の花巻北高の主将や選手の方々が集結、座談会を開催。懐かしいお話を伺いました。
花巻の高校野球のあゆみ
花巻勢の甲子園での成績(春・夏合わせて)
花巻東(花巻商):通算19勝16敗(勝率54%)
花巻北 :通算3敗(勝率 0%)
花北青雲(花北商):通算1敗(勝率 0%)
1960〜70年代は盛岡一高、一関一、福岡、遠野、黒沢尻北などの古豪が県大会の上位にいた頃、花巻勢も躍進しました。花巻北高が3回、花北商(現・花北青雲)が1回甲子園出場をしています。昭和38年は花巻北、39年は花巻商業(現・花巻東)と花巻勢は2年連続甲子園出場をしています。
昭和30年〜40年代の強豪校 花巻北高校
花巻北高校旧校舎
座談会 花巻北の甲子園球児が当時を語る
全部員数が17人〜19人、ピッチャーが一人しかいないなど、練習が不自由な面がありました。上級生のスパルタ式の指導のため、入学時に15人前後入部しても卒業時には5、6名しか残らなかったです。当時は、練習中の水分補給禁止、うさぎ飛び、ノックバットでのお仕置き指導など、今の時代には見られない練習風景がありました。
練習時間は午後4時から7時、遅くなると8時に。石鳥谷や東和の自宅から国鉄で通う日々。夏の大会が近づくと監督宅に下宿する選手もいました。
(1)昭和38(1963)年夏出場(初)
甲子園出場の思い出話に花が咲きました
創部30年目で悲願の甲子園初出場を果たします。甲子園の初戦は強豪広陵高(広島)に善戦するも3対1で敗れました。
●小原千秋さん(79歳)
昭和38年夏の甲子園初出場、主将で4番打者、捕手
「岩手県勢の中で唯一、開会式で選手宣誓をしています。宣誓をする学校は運営側があらかじめ東日本と西日本から一校ずつ選び(東は花巻北、西は宮崎商業)2校の主将が くじ引きをして決まりました。宣誓文は既に用意されていました。前日の予行練習では大会役員から何度も指導を受けましたが、当日の本番では緊張の中、平常心で 臨むことができました。」
昭和41年、2回目の甲子園入場行進
(2)昭和41(1966)年夏出場(2回目)
3年生が3人だけの2年生が主力の守り主体のチームで岩手大会、北奥羽大会(岩手代表と青森代表による2次予選)を勝ち抜いて2度目の夏の甲子園出場を決めました。全国大会は、1回戦で古豪平安高校に0対9で敗れました。
●姉帯昇次さん(76歳)
昭和41年の甲子園に出場、主将で5番打者、二塁手
姉帯さんは高校卒業後、花丘圭二という芸名で歌手デビューしています。花巻出身の日本初のフリーアナウンサーの高橋圭三さんから芸名に圭をもらいました。「1年生のときは部員が8人しかいなくて、同級生を必死に勧誘して新人戦に出場。2年生のときは、夏の岩手県大会の一回戦で敗退し、”水一滴も飲むな”の猛練習の結果、3年生のときは2年生中心のチームで夏の県大会と北奥羽大会を勝ち抜きました。」
(3)昭和46(1971)年夏出場(3回目)
岩手として3年ぶり、花巻北としては5年ぶり出場。
甲子園の1回戦は敗退し、三たび初戦の壁を破ることができませんでした。
●立川目和義さん (70歳)
昭和46年夏の甲子園に出場、主将で2番打者、内野手
「県大会での盛岡一高戦。お互いの応援団のエキサイトや野次の応酬に、主審がベンチに来て「あの応援をやめさせないと没収試合にする」と注意されました。大会抽選会の日は、送迎車が道を間違えて時間に遅れてしまい皆さんを待たせてしまい大会会長から前代未聞と言われたそうです。」
●三井 信義 さん(71歳)
昭和46年出場、5番打者、投手・一塁手・外野手
現在、光林寺理事長。るんびにい美術館建設など障がい者に尽力し今年度、市勢功労者表彰されました。
「岩手県大会の3回戦、古豪同士の盛岡一高戦。延長10回でサヨナラタイムリーを打って勝利したことが最大の思い出。練習のとき、水分補給ができないことや冬期間にボールを握れなかったことがつらかったです。」
●伊藤新也さん(71歳)
3回目の甲子園出場、4番打者、捕手
「県大会3回戦の対盛岡一高と、北奥羽大会決勝の弘前高校に延長10回のサヨナラ勝ちが思い出に残る試合です。〝高校野球は人間教育の一環〝であり、“甲子園は人との出会いの場〝でした。」
甲子園出場したOB達が花北高「勝利の歌」を歌う
桜雲野球の精神
部員数が少なく練習環境も不自由な中、野球に没頭して忍耐力や自信、集中力や団結力が養われました。 最後の甲子園出場から半世紀以上も経たが、後輩には4度目の出場と初の1勝をあきらめず期待しているレジェンド達でした。
下幅(現・桜台小学校)から本館に移転(昭和55年・1977年)した花巻北高
花巻史談会「記憶を記録に残す活動」
昭和50年に設立し50周年を迎えました。花巻の郷土史の研究と普及を通じて、地域文化の保存と向上を目指しています。花巻のまちづくりを考える上でも、郷土の歴史や風土を学び知ることが大事です。中世や近代の学術的な歴史探求に加えて「花巻の高校野球史」のような昭和・平成の現代史の掘り起こしや、郷土の歴史を知る方の記憶や証言を記録に残すことにも活動を広げたいと思います。年配の方、若い世代の方の参加、入会を募っています。
花巻・岩手の高校野球史第2段や詳細詳は花巻史談会会報・史談会ホームページに掲載していきます。 花巻史談会HP
参考文献
・岩手日報
・「熱球」岩手県高等学校野球連盟30周年記念誌
・桜曇野球80年・花巻北高等学校野球部
※記事に使用している当時の写真については、上記参考文献から許可をいただき掲載しています
・県別高校野球史(森岡浩)
The post花巻の高校野球史・昭和のレジェンド 花巻北の甲子園first appeared onまきまき花巻.