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静岡茶のルーツは「失業した武士たち」だった 〜牧之原開墾に賭けた旧幕臣の再起

草の実堂

画像 : 中條景昭像公園 photoAC
画像 : 静岡=お茶というイメージはいつ定着したのだろう? wiki c

江戸幕府の崩壊は、多くの武士から仕事と収入を奪ってしまいました。

静岡へ移った旧幕臣たちは勝海舟の後押しを受け、刀を農具に持ち替えて牧之原の原野に挑みます。

このときの選択が、静岡を日本有数の茶どころへ押し上げる起点となったのです。

今回は、彼らが荒れ地をいかに茶畑へ変え、茶の産地として築き上げたのかをたどっていきたいと思います。

江戸幕府の終焉がもたらした幕臣たちの苦境

画像:邨田丹陵による「大政奉還図」(1935年、聖徳記念絵画館蔵)public domain

徳川の世が終わりを告げた時、それは多くの武士にとって生活基盤の喪失を意味しました。

江戸城の無血開城によって国内の内乱は回避されましたが、幕府に仕えてきた者(幕臣)たちの未来には暗い影を落とします。

1867年の大政奉還、そして翌年の戊辰戦争での敗北を経て、徳川家は江戸から駿府(静岡)への移封を命じられました。

徳川慶喜に付き従う形で、多くの旧幕臣とその家族が静岡へ移住することになり、その中には幕府の中枢を担っていた旗本や御家人も含まれていました。

しかし新政府の下では、もはやその身分も俸禄(給与)も保証されません。

昨日までの支配階級が、先の見えない失業者となってしまったのです。

急激な人口増加を受け入れられるほど、当時の静岡(駿府)は経済的余力を持っておらず、旧幕臣たちの生活は困窮を極めてしまいました。

勝海舟の先見性と渋沢栄一のサポート、反発を受けた救済策

こうした混乱の中で旧幕臣たちの未来を真剣に憂い、具体的な行動を起こした人物がいました。

江戸城無血開城の立役者である、勝海舟です。

画像:明治期の勝海舟 public domain

幕府が瓦解する以前から、勝は徳川家と幕臣たちが生き延びるための道を模索していました。

新政府との交渉を進める傍ら、彼は旧幕臣の救済こそが喫緊の課題であると見抜いていたのです。

徳川家が駿府で静岡藩を立てることになると、勝は新政府から受け取った資金の一部を元手に、士族を救済するための組織の設立を構想します。

この構想を実務に落とし込んだのが、フランスで銀行や会社の仕組みを学んで帰国した渋沢栄一です。

画像 : 渋沢栄一 明治33年(1900年)public domain

明治2年1月、藩と地元商人の共同出資により、静岡の紺屋町に「商法会所」が誕生します。

資金の貸借のみならず、米や肥料の売買も手掛ける半官半民の組織として、株式会社の概念を取り入れたスタイルは、当時の日本において先駆的な試みでした。

しかし、勝の進めた新しい方針は反発も招きます。

「武士が商いなど」という旧来の価値観に加えて、資金の使い道をめぐる疑念から、勝は非難の的となったのです。

それでも目の前にいる困窮者を救い、自立への道を切り拓くことが何より重要であると信じ、不退転の決意で計画を推進しました。

そして最も大きな挑戦の舞台となったのが、牧之原台地の開墾事業でした。

刀を捨て、農具を握った武士たち:牧之原に賭けた再起の物語

画像 : 中條景昭像公園 photoAC

商法会所は金融と流通の面から旧幕臣を支援しましたが、それだけでは数千人規模の失業者すべてを救うことはできませんでした。

静岡城下に移住した旧幕臣の多くは職にあぶれたままであり、仕事のない士族たちのエネルギーは、場合によっては社会の不安定要素になりかねません。

より根本的な解決策として浮上したのが、現在の島田市から牧之原市、菊川市にかけて広がる牧之原台地の開墾でした。

牧之原台地は、水はけと日当たりは良好ですが、水利に乏しく米作には不向きな荒れ地でした。しかし茶の栽培には適していたのです。

この構想を勝は支持し、旧幕臣たちの自立への道として後押しします。

そして、中條景昭(ちゅうじょうかげあき)を隊長とした約300人の士族が、牧之原台地での開墾に着手します。

刀を農具に持ち替え、泥にまみれて荒れ地を耕す日々。
武士としての誇りと現実の労働との間で葛藤し、開墾地を去る者も少なくありませんでした。

それでも中條たちのリーダーシップのもと、残った者たちは開墾を続けます。

明治2年(1869年)あたりから開墾が始まり、その4年後にようやく最初の茶摘みが行われました。

明治10年(1877年)に入ると、明治天皇から嘉賞を受けるほどに成長し、かつての荒れ地は着実に緑の茶畑へと姿を変えていったのです。

日本一の茶産地「静岡」の誕生と、現代への継承

画像:現在でも牧之原台地には茶畑に包まれている public domain

苦難の末に切り拓かれた牧之原の茶畑は、やがて大きな実を結びました。

明治政府が外貨獲得のために茶の輸出を奨励したことも追い風となり、日本茶は生糸と並ぶ重要な輸出品として、海外市場で高い評価を得るようになります。

開墾から約20年後の明治20年代になると、牧之原台地は日本最大級の茶園へと成長します。

勝海舟が後押しし、中條景昭らが進めた開墾事業は、失業士族に安定した暮らしをもたらすだけでなく、静岡を有力な茶産地へ押し上げる原動力となったのです。

近年、生産量においては鹿児島県に首位の座を譲りましたが、「静岡茶」というブランドの存在感は今も変わっていません。

全国に流通する茶の多くが静岡で加工され、その品質と伝統は国内外で高い評価を獲得し続けてきました。

伝統的な手揉み製法で仕上げた最高品質の新茶は「献上茶謹製事業」の一環として、皇室へ毎年献上されています。

役目を終えた勝海舟が選んだ「引き際」

勝海舟は、初代海軍卿や参議など新政府の重要な役職を歴任し、明治初期における日本のかじ取りに大きく貢献しています。

新政府の中枢に身を置き、大きな影響力を持っていたからこそ、彼は「旧敵」である幕臣たちの大規模な救済事業を、政治的に後押しすることができたのです。

そして牧之原の開墾が軌道に乗り、旧幕臣たちが自立への道を歩み始めたことを見届けると、その権力に執着することなく、静かに表舞台から身を引いていきました。

自分の役目が終わったと見るや、その地位を次世代に譲り、晩年は執筆活動に専念する。

その潔い晩年は、現代の私たちに深いメッセージを残しているのではないでしょうか。

参考文献:
半藤一利(2008)『それからの海舟』筑摩書房
農林水産省関東農政局『牧之原開拓の歴史』
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

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