おれは雪国で生きていけない
雪国の弱者
大雪のニュースを見た。大雪にみまわれたのは、雪国だ。おれが住む南関東に雪は降らなかった。寒いには寒いが、寒いだけの冬を送っていた。そんなおれが南関東から「車で出勤する前に2時間雪かきをしなきゃいけないんですよ」という雪国の人のインタビューを見て、どう思ったか。「おれは雪国で生きていけない」だ。
「こんな暮らしは大変そうだから、住みたくはない」、ではない、「生きていけない」。
おれの事情を話しておく必要がある。おれは手帳持ちの双極性障害者だ。躁うつ病とか、双極症とか、好きに呼んでくれてかまわない。ともかく、おれには「うつ」の時間がある。期間といってもいいだろう。そのときおれは、寝床から起き上がれない。起き上がっても、とてもとてもスローモーションでしか動かない。身体に力が入らない。息をするのも精一杯で、息ができなくて、呼吸のほとんどが溜息のようになることもある。
そんなおれが、雪国、豪雪地帯で暮らしていたらどうだろう。抑うつのときには雪かきができない。屋根から雪おろしもできない。雪かきができなければ、外に出ることもできないし、雪おろしをしなければ、屋根が潰れて死ぬかもしれない。外に出られなければ、医者にもいけないし、食料品を買うこともままならないかもしれない。訪問してくれる体制があったとしても、雪が塞いで医者も薬も食料品も届かない。
おれひとり死ぬならまだしも、雪かきをしないことによって、ご近所さんに多大なる迷惑をかける可能性もあるし、雪おろししないことによって、迷惑どころではない被害を与えてしまうこともあるだろう。
おれのような弱者には、豪雪地帯の田舎での生活は無理だ。好き嫌いではなく、成り立たない。おれはそう思った。無論、豪雪地帯で一人暮らしをしている、おれのような精神障害者の人もいるだろうが、おれにはその暮らしが想像できない。想像だけでいうが、やはり、想像できない。
そして、おれはさらに想像した。おれのような、起き上がれない、起きても動きが遅く、力が入らない、そんな人間はなにか。高齢者だ。世の中には元気な高齢者もいる。しかし、死ぬまで元気いっぱい、身体能力も青年同様、大雪でもなんでもござれ、みたいな人は、ほとんど存在しないだろう。身よりもなく、身体も弱ってしまった高齢者は豪雪地帯でどうやって生きているのだろう。やはり想像がつかない。
余談だが、車社会というところにも困ると思う。雪が降っていなくても、おれは「自動車の運転などはひかえてください」と注意書きされた抗精神病薬を処方されている。カーを買う金はないのもあるが、カーを運転しない。高齢者の運転も問題になっているだろう。まあ、この話は置いておく。
都道府県を維持できるか問題
おれが、豪雪地帯の障害者や高齢者(まとめてしまって、この記事ではとりあえず「弱者」とする)がどうとか考えていたら、ある政治家の発言が話題になっていた。
村上誠一郎総務相がこのように述べたという。
村上氏は、人口が5千万~6千万人になったとき「今の国、県、市町村というシステムが構成できるかどうか、非常に危惧している」と指摘。自治体を再編した300~400の市と国が直接やりとりする形が望ましいとした。
(2025年2月14日付け共同通信)
これについて、「それをどうにかするのが政治家の仕事ではないのか」とか、「地方切り捨てか」という声もあった。おれはこんなメモを残した。
人口減少は予測ではなく確定事項に近いので、都市機能の集約化などの議論が早すぎるということはない
人口の推移というものは、大まかなことではなく、かなり確度の高いことだ。なにせ、将来子供を作る世代の人数というのは、生まれたときに決まっているからだ。
もちろん、合計特殊出生率の話もあるだろうが、その前に、圧倒的に、子供を作る子供が減っている。だからもう、人口の大減少は不可避だろうし、今のままの行政の体制などが維持できるとは思えない。極少人数のためだけにインフラを整備する金もなくなっていくことだろう。やがて、日本人は今よりも狭い場所をコンパクトシティとして住処にしていくのだろう。
大臣の言うような体制が正解かどうかわからないが、今のままではいかないだろうし、たとえ50年後の話だろうと、今から話し合いを始めておいて早すぎることはない。おれは、そう思った。
と、ここで、「確定事項に近い」と書いたことについてひとつ。なぜ「近い」というかというと、「日本が超ものすごい移民受け入れ政策を打ち出して、世界からたくさん人がやってくる」という可能性がゼロではないからだ。人口構成に影響するほどの移民政策。ゼロではない。
……けど、ゼロには近いよな、と思う。日本人が受け入れたがらないというのもあるし、それ以前に「ウェルカム」といったところで、「いや、べつに日本に行きたくねえし」と思われる可能性もあるんじゃなかろうか。日の出の勢いで経済発展して、ウハウハの時代ならともかく、没落が見えているような国、なおかつ言語の障壁が高い国に、そんなに人が来てくれるのか? そんな疑問がある。
閑話休題。いずれにせよ、おれは「日本は人口減少」、「地方都市は消滅」、「コンパクトシティにして生き延びるしかない」と思っていた。思っていたが、さらにふと思った。その根拠ってなんですか? と。
2015年ころのブーム
根拠のないことを信じ込むのはあまりよくない。なにか本でも読んで、自分の思い込みの元をはっきりさせたい。そう思った。そう思って世の中の本を調べてみると、これが一つ震源になったんだろうな、というのがあった。
増田寛也編著『地方消滅』、これである。日本創成会議とかいうものが、若年女性人口などから消滅可能性のある自治体を名指しした。そのインパクトは大きかった。……ような気もする。正直、よく覚えていない。それがその日暮らしの底辺労働者の実感だ。とはいえ、そのあたりで出てきた言説から、おれのなかで、「人口減少→集約化不可避」みたいな考えが固まった可能性はある。
というわけで、おれはこの本を……手に取らなかった。なんとなくだ。なんとなく、まあオリジナルに当たらなくてもいいかと思った。では、これに対する反論本みたいなものがあるが、そちらにするか? いや、それも元の本を読んでいないのに意味はないだろう。なんか、もっと、手っ取り早く簡単なのはないか……?
と、思ったところで、2冊の本を手に取った。
まずは『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』(以下、『年表』)という本である。2017年の本だ。この本のなにがいいかというと、人口の推移を前提に、2026年にはこうなる、2035年にはこうなる……と、いった具合に、まあ年表っぽくなっているのだ。さきほど述べたように、人口の推移はほぼ確定的なので、それをもとに書かれた予測がばっちりかどうかはともかく、その時点での人口構成はわかりやすい。
そして、もう一冊。
『縮小ニッポンの衝撃』、これである(以下、『縮小』)。これは2016年のNHKスペシャルを再構成した本だ。『年表』の方が数字をもとにした予測だとすれば、こちらは2016年時点でのリアルな取材を元にしている。もう見えていた『縮小』の現実だ。
この2冊をもとに、おれの想像する日本の将来がどうなのか見てみようじゃないか。あ、もちろん、これらの本は『地方消滅』への反応として書かれた本だろう。10年近く前の本でもある。2025年のいま、どう読むべきだろうか。それはもう、近年の数値などを生成AIに聞きながら、だ。むろん、ソースを要求しつつ、だ。
やっぱり縮小、消滅は避けられないよな
で、『年表』を読み、『縮小』を読んだ。読んでみて、「この部分は同じことを言っている」というところも何箇所かあった。まあ、当然の帰結、だろうか。もう、これらの本が出てからときも経っているし、「衝撃を受けた」ということはなかった。なかったが、「言われてみればそうか」みたいなことは多かった。そのあたりは、ただ生成AIと話していては出てこなかったことではある。
たとえば、「少子高齢化」と一括りにしてしまう感じが自分にもあったが、「少子化」と「高齢化」は別の事象だ。『年表』で指摘されていた。
戦後一貫して少子化傾向にありながら人口がむしろ増え続けていたのは、平均寿命の延びが少子化を覆い隠してきたためだ。
そうだったのか。考えてみれば、多死多生社会というのもある。いろいろな組み合わせはある。たまたま日本は少子高齢化になっているともいえる。もちろん、子供が減っていき、上の世代の人数が増えると人口のピラミッドはいびつになるのだが。
あるいは、「東京圏に一極集中していくのでは?」のその後の話だ。おれは、高齢者などの弱者が都市に集中して、地方が過疎化するだけだと思っていた。それはうまくいかない。これは『年表』でも『縮小』でも指摘されていた。
こうした高齢者の集中は、近い将来、東京に様々なひずみをもたらす可能性がある。介護施設に入ることが出来ない「待機老人」の劇的な増加、介護を受けたくても受けられない「介護難民」の出現、それに伴う「介護離職」の増加、医療機関の受け入れが困難になる「医療難民」……。
『縮小』
絶対数、の話だ。かつて地方から出てきた若者が老人になる。かつて地方から出てきた若者が、地方の親を呼び寄せる。地方には少ない職を求めて東京にやってくる若者、中年も途絶えない。それらが一時的に都会の繁栄に見えようとも、みな、老いる。その数はすごいことになる。地方に比べたら東京圏の方が医療のリソースなどがあるように見えるが、そんなものはぶち抜くくらいに高齢者が増える。なおかつ、貧しくして東京に出てくる人、東京に出ても貧しい人が増えている。そういう人が福祉を受けると、たいへんなことになる。なおかつ、国が進めてきた家族での助け合い前提の介護というものも、単身世帯の増加で成り立たなくなる。おれはそのあたりの、絶対数の多さというものを甘く見ていた。東京圏で高齢者は爆増するが、かえって地方では高齢者は増えない。増えるだけの若者がすでにいないから。
絶対数で言えば、『年表』では2027年に輸血用血液が不足する、と予測している。この本によれば、一般的にイメージされる事故などに用いられる輸血用血液は、3.5%にすぎないという。大多数が、病気の手術に使われる。輸血用血液が不足すれば、いくら医師がいようと、設備が整っていようと、十分な医療が提供されないという。若い人が減るということは、そういうところにも影響が出る。完全な人工血液ができたという話は聞こえてこない。
そして、『年表』が指摘するには、2042年が問題だという。高齢者が約4000万人というピークに達するという。しかも、そのピークをもたらすのが就職氷河期世代だという。要するに、金のない老人がやまほど増えるのだ。おれもそのときにはお荷物の老人になっているだろう。生きていればの話だが。
少子高齢化社会の敵
というように、どうもやはり日本の人口は減っていくし、老人ばかりになっていくのは確定的で、じゃあその社会をどうしていこう、国家をどうしていこうという話になる。世の中には「人口減少社会こそチャンス」みたいな言論もあるみたいだが(読んでいないのでなんともいえない)、やはり「撤退戦」というのが正しいところではないだろうか。
『年表』では「10の処方箋」として対策が挙げられているが、どうにも理想論というか、「こうなったらいいな」の域を出ていないように思われる。『縮小』の方では、その時点での窮状を紹介するにとどめて、対策は考えていかなきゃいけないですね、みたいな感じだ。もう、それはしょうがない。せいぜい、やや具体的に挙げられるのが集約化だろう。
と、おれは横浜市中区という東京圏のなかでも都会よりの場所でこんなことを言っているが、集約される側にとってはとんでもない話ではある。「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転、職業選択の自由を有する」と憲法にある。居住の自由がある。集約化にともなう移住は、憲法に触れる問題でもある。
とはいえ、居住や移転の自由があるからといって、いまおれが「おれはみなとみらいのタワマンに住む」といったところで、住む自由はない。それは自由にならない。そういう意味で、今後、都会の高級住宅地が高級住宅地であるように、人里離れた僻地の集落に住むのが高級な住宅地に住むことだ、ということになる可能性はある。
そのインフラを維持するために一人当たりの高額な費用がかかるとしたら、それはもう高級住宅地ということになるだろう。応分の負担を支払う必要が出てくる。受益者負担。「先祖代々暮らしてきた、田舎のこの土地がそんなことになるなんて」という声も出てくるだろうし、あるいは裁判になるだろう。最高裁まで争われるかもしれない。それでも、この流れは止められないだろう。
それにしても、人口が減り、高齢者ばかりの将来日本にどんな道があるのだろうか。もちろん、2025年の日本よりも人口が少なく、国土も狭い国で、豊かで平和にそれなりによろしくやっている国もある。そういう国になるのが理想だろう。とはいえ、国を構成する要素はそればかりではない。隣国との地理的関係や、得られる資源も違う。そのなかで、日本はいったい……。
……どうなろうと、知ったこっちゃねえな。あ、いかん本音が出てしまった。そうだ、おれには子供がいない。親戚に子供がいないわけでもないが、まあ縁はほとんどない。というか、顔も見たことがない。そんなおれに、将来日本を本気で心配する気持ちが芽生えるだろうか。残念ながら、おれはそこまでの憂国者ではない。愛国者でないといってもいいだろう。
正直なところ、おれという弱者、底辺の独身中年の精神障害者ひとり、死ぬまで生きられればそれでいい。すすんで死ぬ勇気もないが、長生きもしたくない。とはいえ、生きている間は、できれば屋根の下で暮らしたいし、お腹を空かせたくもない。シャワーも浴びたいし、ネット環境も手放せない。
「おまえが犠牲になれば、将来生まれる子供が一人救われるのだ」と言われたところで、おれはそれに従わない。おれは見苦しく、底辺の「人間らしい」生活に拘泥するだろうし、なんなら福祉を頼りにすることもいとわない。
これだ、このような人間が、人口減少していく日本、縮小していく日本の敵だ。どちらの本でも指摘されていたように、就職氷河期世代は人口のボリュームがそれなりにあるわりに、子供は作らないわ、稼ぎは少ないわで、無年金だとか、低年金だとかで社会保障のお荷物になることが決定している。
しかも、そういう人間は往々にして子供も居ないし、次世代への責任なんてものを感じていない。自分が苦しく、社会ののけ者、邪魔者にされつづけ、ただ虚しく死んでいく。そんな人間に、将来の日本も、まだ生まれていない子供も、いったいなんの価値があるというのか。
これだ。これが将来日本の敵である。敵であるならば殺せばいいのか。ああ、そうだろう、たぶんおれ一人殺すことによって社会の負担は減るし、幸福の総量は増すに違いない。子供や孫がいる日本人は、今すぐ人殺しの顔をしろ。ただし、おれもただでは殺されない。殺し合いの時代が、待っている。覚悟はできているか?
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【著者プロフィール】
黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by :Levi Meir Clancy