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現代に続く「男系天皇」の礎を築いた・志貴皇子とは「争わず勝利する」

草の実堂

画像:志貴皇子人形(永瀬卓氏作)アイキャッチ

草壁皇子以外に皇位継承を認めない盟約

画像: 飛鳥宮跡志貴皇子歌碑 (撮影:高野晃彰)

奈良県明日香村の「飛鳥宮跡」には、ひっそりと一基の歌碑が立っている。

石碑には、万葉仮名で

采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く

と刻まれている。

作者は、天智天皇の第七皇子・志貴皇子(しきのみこ)である。

この歌は、平城京の前の都・藤原京への遷都後に、志貴皇子が飛鳥の旧都を懐かしんで詠んだものとされる。

画像:天武天皇 public domain

679年(天武天皇8年)5月、壬申の乱に勝利して即位した天武天皇は、皇后の鸕野讚良(うののさらら)皇女と、以下六人の皇子を伴って吉野宮滝へ行幸し、「吉野の盟約」を結んだ。

・草壁皇子(天武第二皇子)
・大津皇子(天武第三皇子)
・高市皇子(天武第一皇子)
・河島皇子(天智第二皇子)
・忍壁皇子(天武第四皇子)
・志貴皇子(天智第七皇子)

この盟約により、六人の皇子は、後継者をめぐって皇位争いを起こさないことを誓約した。

そして2年後の681年(天武天皇10年)2月、天武天皇と鸕野皇后の間に生まれた草壁皇子が皇太子に立てられる。

※鸕野皇后が生んだ皇子は草壁のみであり、彼女にとってただ一人の男子であった。

画像: 吉野宮滝 (撮影:高野晃彰)

すなわち、「吉野の盟約」は、原則として草壁皇子以外に皇位継承を認めないという、天武天皇と鸕野皇后の強い決意の表れであった。

ところが、686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御すると、河島皇子の密告により大津皇子が謀反の罪で捕らえられ、磐余(いわれ)の訳語田(おさだ)の宮で自害に追い込まれることとなった。

大津皇子と河島皇子は普段から親しい間柄であったと伝わるが、その河島皇子の密告は、他の4人の皇子に大きな衝撃を与えたに違いない。

当時、朝廷の実権はすでに鸕野皇后の手中にあり、この処刑の背後にも彼女の政治的判断があったと考えられる。

この事件は、他の皇子たちに「一度でも鸕野皇后に目をつけられれば滅亡は免れない」という恐怖を刻みつけたであろう。

しかし、即位の準備を進めていた皇太子・草壁皇子は、その3年後、思いもよらぬ病により早世してしまった。

なお、大津皇子を死に追いやった密告者である河島皇子は、691年(持統天皇5年)9月に薨御している。

草壁皇子の血筋を文武天皇に繋げる

画像:持統天皇 public domain

草壁皇子が崩御した際、本来その皇統を継ぐべき皇子として珂瑠皇子(後の文武天皇)がいたが、まだあまりにも幼少であった。

そこで、祖母である鸕野皇后が持統天皇として即位することになる。

つまり、珂瑠皇子が立太子し、さらに皇位に就ける年齢に達するまでの間、持統天皇自らが“つなぎ”の役割を担ったのである。

これは何としても子息・草壁皇子の血統を皇位に就けようとする強い意思の表れであった。

その後、持統朝で太政大臣として国政を担っていた天武天皇の長子、草壁皇子の異母兄にあたる高市皇子が、696年(持統天皇10年)7月に薨御した。

持統天皇は、この時を待っていたかのように翌697年(持統天皇11年)2月に珂瑠皇子を立太子させ、同年8月には譲位した。

ここに第42代・文武天皇が即位する。

しかし、わずか15歳での即位は、古代においては前例のない若さであった。

終生政治の舞台に立たなかった志貴皇子

画像 : 忍壁皇子イメージ(日本服飾史)

文武天皇の即位時、「吉野の盟約」に加わった六人の皇子のうち、存命していたのは志貴皇子と忍壁皇子の二人だけであった。

志貴皇子は天智系皇子として、忍壁皇子は天武系皇子として、それぞれ最年長であったにもかかわらず、持統朝では両者とも冷遇されていたようである。

しかし、文武朝に入ると状況は変わる。

志貴皇子は四品に叙せられ、忍壁皇子も藤原不比等らとともに大宝律令の編纂を命じられ、701年(大宝元年)8月にこれを完成させた。

忍壁皇子はその功績により三品に叙せられ、翌年12月に持統上皇が崩御すると、703年(大宝3年)正月には知太政官事に就任し、太政官の統括者となった。

この人事は、若くしてしかも病弱であった文武天皇を補佐するために、天武天皇の最年長皇子である忍壁皇子の血統が求められたことを示している。

同時に、カリスマ的存在であった持統上皇の死によって、朝廷が不安定化していたことを物語るものでもあった。

文武朝に入ると、忍壁皇子が一躍政治の表舞台に躍り出たのに対し、志貴皇子は持統天皇の葬儀で造御竃長官(みかまどのかみ)を務めるなど、行政官としては目立った活躍をみせていない。

そして、707年(慶雲4年)6月、文武天皇が25歳の若さで崩御すると、志貴皇子は殯宮(もがりのみや)に供奉している。

画像:元明天皇(『御歴代百廿一天皇御尊影』)public domain

文武天皇の後継者には首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)がいたが、当時まだ7歳と幼かったため、文武天皇の母である阿陪皇女(あへのひめみこ)が、首皇子の成長を待つ形で元明天皇として即位した。

阿陪皇女は天智天皇の娘で、志貴皇子の実姉にあたる。

しかし元明朝においても、志貴皇子は三品から二品へと昇進したものの、終生、行政官として顕著な活躍を見せることはなく、716年(霊亀2年)8月に、50歳前後で薨去した。

子の白壁皇子が即位、現在の皇室の祖となる

画像:志貴皇子人形(永瀬卓氏作)

志貴皇子の生涯を思い浮かべると、そこには皇位とは無縁の道を、飄々と、淡々と歩んでいった姿が目に浮かぶ。

それは、すべて自ら望んだことではなかったかもしれない。

しかし、権力に関わることをあえて避け、政争に巻き込まれることなく、人生の大半を無位無官に甘んじながらも、歌人として生涯を全うした、その姿が蘇ってくるのである。

そして、そんな志貴皇子を天は見放さなかった。

薨御から50年以上が過ぎた770年(宝亀元年)、息子の白壁皇子が62歳で即位し、第49代・光仁天皇となったのである。

父である志貴皇子は、「春日宮御宇天皇(かすがのみやしろしめししすめらみこと)」の追尊を受けた。

天武天皇系の天皇が9代続いた後、不遇をかこっていた天智天皇系から、久しぶりの天皇誕生であった。
さらにこの皇統は桓武天皇に受け継がれ、千年以上の時を経て現在の皇室へとつながっていった。

まさに志貴皇子は、「争わずして勝利を収めた」と言えるだろう。

画像:赤目四十八滝(三重県名張市赤目町)

石走る 垂水の上の さわらびの
萌え出づる春に なりにけるかも

(訳:岩をほとばしって流れる滝のほとりのさわらびが、芽を出す春になったことだなぁ。)

万葉歌人として名高い、志貴皇子を代表する一首である。

植物が芽吹く春の喜びを詠んだ歌であるが、どこか志貴皇子の人生の象徴のようでもあり、感慨深く心に残る。

※参考文献
板野博行 『眠れないほどおもしろい万葉集』 三笠書房刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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