江戸時代に本当にあった転生話 『勝五郎生まれ変わり物語』
「転生」とは、次の世で別の形に生まれ変わることを意味します。
転生に関する民話や伝承は世界各地に多数存在するのですが、江戸時代、農民の勝五郎が語った自身の転生物語は「前世の人物が特定された」という点で、他の生まれ変わり話とは一線を画していました。
そして、この勝五郎の物語をきっかけに、科学的なアプローチによる「生まれ変わり」研究を始めたのがヴァージニア大学の精神科医イアン・スティーヴンソン博士です。
博士は前世を語る子どもたちの事例研究を行った「生まれ変わり現象」の大家であり、その研究は後続の研究者によって50年以上に渡って行われています。
今回は、研究の契機となった『勝五郎生まれ変わり物語』をひも解いてみたいと思います。
『勝五郎生まれ変わり物語』の概要
文政5年(1822年)11月、武蔵国多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野)に住む8歳(今の7歳)の勝五郎が、「自分は程久保村(ほどくぼむら : 現在の東京都日野市程久保)に住んでいた藤蔵(とうぞう)で、6歳の時に疱瘡(天然痘)で死んだ」と語り始めました。
勝五郎によると、藤蔵の父親の名は久兵衛、母親はしづといい、5歳の時に父親が亡くなり、その後、半四郎という人が新しい父親になったそうです。
半四郎は本当の父親のように可愛がってくれましたが、藤蔵は6歳で疱瘡にかかり命を失いました。
お弔いが済んで裏山の墓地に葬られる時に、体から魂が抜け出し、魂だけ家に帰ったそうです。
藤蔵の魂は、泣いている母親に声をかけたのですが気づいてもらえず、そうこうしているうちに白いひげを生やして黒い着物をきたおじいさんに、あの世へ連れて行かれました。
あの世で3年が過ぎた頃、おじいさんに「3年経ったから生まれ変わるのだ」と言われ、藤蔵は中野村の柿の木のある家にやって来ます。
柿の木の下で佇んでいると、家の方から「おっとうの稼ぎが少ないから、おっかあが江戸に出稼ぎに行かなきゃならねえ」という話が聞こえてきて、「こんな家じゃイヤだ」と思い、3日間は庭で過ごしていたそうです。
3日経ち、母親の江戸行きの話が無くなったのを聞いて安心した藤蔵は、雨戸の節穴を通って家に入りました。
その後3日間、かまどの横で家の様子をうかがってから母親のお腹に入り、文化12年(1815年)10月10日に勝五郎として生まれたといいます。
程久保村を訪れた勝五郎
両親は、勝五郎の話をにわかには信じられませんでしたが、程久保村をよく知る人に話を聞いたところ、藤蔵の家は実在し、6歳の時に疱瘡で亡くなった子どもがいたことも分かりました。
年が明けると、勝五郎が藤蔵の両親にしきりに会いたがったため、文政6年1月20日、祖母のつやとともに一里半(約5.9キロメートル)離れた程久保村の家を訪れました。
程久保村に到着すると、勝五郎は「こっち、こっち」と藤蔵の家をつやに案内し、勝手知ったるといわんばかりに家の中へと入って行きます。
家の中のこともよく知っており、それ以外にも「向かいのたばこや(屋号)の木が以前はなかった、屋根もなかった」などと語りました。
勝五郎の話はすべて事実と符合していたため、人々は勝五郎が藤蔵の生まれ変わりだと確信しました。
藤蔵の母・しづと義父の半四郎は、勝五郎が藤蔵によく似ていると言って大変喜び、その後、両家は親類のようにお互いの家を行き来する関係になりました。
生まれ変わり話は大評判となり、勝五郎は「ほどくぼ小僧」というあだ名をつけられ、勝五郎をひと目見ようと見物人が来るほどだったそうです。
「生まれ変わり」研究のきっかけになった勝五郎
江戸時代の転生話が、なぜ現代の研究に影響を与えたのかというと、「勝五郎の生まれ変わり物語』が伝承とは異なり、記録として残されていたからです。
特に『勝五郎再生前生話』、『届書』、『勝五郎再生記聞』の3つは信頼性の高い記録とされています。
勝五郎が程久保村を訪れた翌月、江戸から池田冠山(定常)という大名が勝五郎の家を訪れました。冠山は鳥取藩支藩の藩主で、当時は隠居の身でしたが、「生まれ変わりの話を、ぜひ聞きたい」と中野村までやって来たのです。
しかし、大名の来訪に気後れした勝五郎はうまく話せず、代わりに祖母が語りました。
冠山がまとめた『勝五郎再生前生話』は、松浦静山などの文人の目に留まり、勝五郎の生まれ変わりの噂は江戸中に広まりました。
一方、中野村では勝五郎の転生騒ぎが大きくなり、知行所での騒動を見るに見かねた中野村の領主で旗本の多門傳八郎(おかど でんぱちろう)が、勝五郎と父親の源蔵を江戸へ召喚します。
多門は、4月19日に勝五郎たちから話を聞き、調書を上司の御書院番頭佐藤美濃守に『届書』として提出しました。
この『届書』の写しは、またたく間に多くの文人たちの手に渡り、その中でも深い関心を寄せたのが、国学者・平田篤胤(ひらた あつたね)でした。
当時、篤胤は死後の世界に傾倒しており、江戸を訪れていた勝五郎たちから3日にわたって話を聞いています。
篤胤は、勝五郎の話と自身の考察を『勝五郎再生記聞』にまとめ、7月に上洛した際には、光格上皇と皇太后に御覧に供しています。『勝五郎再生記聞』は、御所の女房たちに大変好評だったそうです。
時代は下って明治30年(1897年)、勝五郎の物語は、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの短編集『仏陀の国の落穂』で紹介され、英訳された勝五郎の転生話は世界中に広まりました。
そして、この転生話に惹きつけられたのが、イアン・スティーヴンソン博士であり、勝五郎の話は、博士が子どもを対象とした「生まれ変わり」研究に専心するきっかけの一端となりました。
博士が開設したヴァージニア大学医学部知覚研究室は、約50年にわたり「生まれ変わり」現象の研究を行っています。
調査は世界40カ国以上にのぼり、前世の記憶を持つ子どもの事例を精査したデータは2600を越えているということです。
薄れていく過去生の記憶
勝五郎の記録の特徴として、転生話を始めてから5か月以内という短期間に、すべての記録の聞き取りが行われていることが挙げられます。
ヴァージニア大学医学部知覚研究所に蓄積された「過去生(かこしょう、前世)を語る子どもの事例」データベースの分析によると、子どもたちが過去生を語り始めるのはだいたい3歳くらい。話さなくなるのは7歳くらいで、幼い頃に過去生の話をし出すものの、成長に従って記憶は薄れていき、やがて忘れてしまうそうです。
勝五郎も7歳で語り始めた時、「3歳くらいまでは全て覚えていたけれど、その後はどんどん忘れてしまった」と言っているので、ギリギリ間に合ったケースだと思われます。
ちなみに、子どもたちが語る過去生の人物が特定される割合は、7割強だそうです。
おわりに
江戸に召喚された勝五郎は平田篤胤の門人となり、1年ほど学舎・気吹舎(いぶきのや)にいた後、中野村へ帰りました。
その後は、農業の傍ら目籠(めかご)の仲介にいそしみ、裕福な生活を送ったそうです。転生話で一躍時の人となった勝五郎は、明治2年(1869年)12月4日、55歳で亡くなりました。
『勝五郎の生まれ変わり物語』を後世に残る貴重な記録にした最大の立役者は、池田冠山でしょう。
冠山には51歳のときに授かった露姫という娘がいました。年を取ってからの子どもは可愛いと言いますし、末娘の露姫は冠山にとって目に入れても痛くない存在だったのでしょう。
しかし、露姫は文政5年11月に疱瘡のため、数え年6歳で亡くなってしまいます。悲嘆に暮れる冠山が、同じ歳で同じ病で亡くなった藤蔵の再生話に心惹かれたのは想像に難くありません。
最愛の娘の生まれ変わりを信じ、はやる心を抑えながら、片田舎の農民の家へと自ら足を運んだ冠山。
子を思う親の強い愛情が巡りめぐって、現代の「生まれ変わり」研究の一助となったのかもしれません。
参考文献 :
勝五郎生まれ変わり物語探求調査団『ほどくぼ小僧 勝五郎生まれ変わり物語調査報告書』日野市郷土資料館
大門正幸『「生まれ変わり」を科学する』桜の花出版
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