『ヴェルサイユの闇に消えた19才少女』ルイ14世を魅了したフォンタンジュ嬢変死の謎
フランス絶対王政の象徴とされる「太陽王」ルイ14世。
その宮廷は、華麗な芸術と壮麗なヴェルサイユ宮殿で知られる一方で、野心や陰謀、愛憎が複雑に絡み合う舞台でもありました。
ルイ14世には多くの愛妾がいましたが、その中でもひときわ異彩を放った女性がいます。
彼女の名はマリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュ。
若くして宮廷に現れ、瞬く間に王の寵愛を受ける存在となりました。
しかし、その栄光は長くは続きませんでした。
彼女は、わずか数年後に謎の死を遂げてしまうのです。
しかも当時から「変死」と囁かれ、宮廷内外ではさまざまな噂や陰謀説が飛び交いました。
今回は、若くしてヴェルサイユの華となり、儚く散っていったフォンタンジュ嬢の生涯と、謎めいた最期についてご紹介いたします。
何不自由のない地方貴族の娘
後のフォンタンジュ公爵夫人こと、マリー・アンジェリク・ド・スコライユ・ド・ルシーユは、1661年にフランス南部オーヴェルニュ地方の古い貴族の家に生まれました。
父はこの地で国王の副官を務め、母もまた名門の出身であり、彼女は典型的な地方貴族の令嬢として、何不自由なく育てられました。
ベネチアンブロンドと呼ばれる華やかな茶色の髪に、ミルクのようになめらかで美しい肌、生き生きとしたブルーグレーの瞳の持ち主で、立ち振る舞いも洗練されており、当時からその魅力は評判だったといいます。
家柄も良く、若く容姿に優れ、明るく快活な性格であったため、彼女はやがて父の従妹セザール・ド・グロレの紹介で宮廷に迎えられ、そこで人生を大きく変えていくのでした。
夢のような宮廷生活
運命の出会いが訪れたのは、1679年のことでした。
当時のフォンタンジュ嬢は、ルイ14世の弟であるオルレアン公フィリップの妃、すなわち王の義妹にあたるエリザベート・シャルロット(通称パラティーヌ姫)に仕える女官のひとりとして、宮廷に出入りしていました。
ある晩に開かれた夜会の席で、ルイ14世は、その場にいた若く美しいフォンタンジュ嬢に心を奪われます。
そして出会いから半年も経たないうちに、彼女は王の深い寵愛を受けるようになったのです。
王は彼女のために八頭立ての豪奢な馬車を用意し、護衛をつけて身の安全を確保したうえで、莫大な金品を贈りました。
さらに爵位として「フォンタンジュ公爵夫人(Duchesse de Fontanges)」を授け、衣装や住まいに至るまで贅を尽くした待遇を与えたのです。
地方から出てきた一貴族の娘にとって、それはまさに一夜にして夢のような宮廷生活が訪れたのです。
突如暗転する人生
しかし、この華やかな日々は長くは続きませんでした。
1680年、フォンタンジュ嬢はルイ14世の子を身ごもっていましたが、出産が早まり、男児が死産となってしまったのです。そして更なる不幸が彼女を襲います。
早産に伴う出血が収まらず、瑞々しく美しかった彼女の身体は異様に膨らんでしまったのです。
かつてはルイの寵愛を受けた愛らしい顔も腫れあがり、もはやフォンタンジュ嬢は自らを恥じて人前に出ることができない姿となってしまいました。
その後も病状は改善せず、無情にもルイ14世が病弱な女性を嫌ったこともあり、フォンタンジュ嬢は絶望のうちに宮廷を去らなければなりませんでした。
人目を避け、修道院へと姿を隠した彼女でしたが、原因不明の病状は回復せず、苦痛は日々身体を蝕み続けました。
そしてその翌年の1681年6月28日。フォンタンジュ嬢はついに帰らぬ人となりました。
享年わずか19。あまりにも早すぎる死でした。
黒幕は?
若きフォンタンジュ嬢の突然の怪死について、宮廷はその黒幕の話題でもちきりとなりました。
ちょうどその頃、パリでは「ラ・ヴォワザン事件」と呼ばれる大スキャンダルが発覚していました。
ラ・ヴォワザンなる怪しげな女黒魔術師の元へ、1677年から1682年にかけて貴族や貴婦人たちが密かに通い、毒薬や呪術、さらには黒ミサまでもが行われていたのです。
関係者は400人以上に及び、とくに黒ミサに参加した者や、暗殺目的で毒薬を依頼した者が多数逮捕され、数十人が処刑されました。
この事件は王政の根幹を揺るがしかねない規模に発展し、ルイ14世自身も調査の徹底を命じます。
その過程で浮かび上がったのが、王のかつての愛妾モンテスパン夫人の関与でした。
ラ・ヴォワザンの娘であるマルグリットは、尋問のなかで「母の協力者たちがフォンタンジュを毒殺した」と証言し、さらにモンテスパン夫人がその背後にいた可能性にも言及したのです。
ラ・ヴォワザンは拷問の末に処刑され、モンテスパン夫人は処罰こそ免れたものの、王の寵愛を完全に失いました。
こうして事件は、誰にとっても後味の悪い結末となったのです。
フォンタンジュ嬢の死は、今なお謎に包まれたままとなっています。
近年の仮説
近年、歴史家ジャン=クリスティアン・プチフィスは、その著書『ルイ十四世宮廷毒殺事件』(1985年)において、一つの興味深い仮説を提示しています。
彼によれば、フォンタンジュ嬢がルイ14世の寵姫となった当初、モンテスパン夫人はその関係に気づいておらず、彼女をさほど重要な存在とは見ていなかったといいます。
その根拠として、当時の手紙の中に、フォンタンジュ嬢について楽観的に語られている記述が残されていることを挙げています。
さらにプチフィスは、フォンタンジュ嬢の死に関わった可能性のある人物として、モンテスパン夫人の侍女であったデゾワイエ嬢に注目しています。
この侍女は、王とのあいだに私生児をもうけながら、公式な立場を得られず、その境遇への不満が王やフォンタンジュ嬢への憎悪に変わった可能性があるというのです。
また、デゾワイエ嬢が当時フランスと対立関係にあったイギリスの貴族と関係を持っていたとされる点にも触れ、個人的な恨みにとどまらず、国家間の陰謀にまで発展していた可能性も示唆しています。
真偽のほどは定かではありませんが、フォンタンジュ嬢はまさに「宮廷の花」と呼ぶにふさわしい存在でした。
しかしその花は、咲いたそばから数多の思惑に絡め取られ、悲劇的な運命へと導かれていったのです。
熾烈な生存競争が繰り広げられていたヴェルサイユの華やかな舞台では、彼女のように若く、純粋で、無垢な女性ほど、かえって早く命を散らす運命にあったのかもしれません。
参考文献:
『ルイ十四世宮廷毒殺事件』
『やんごとなき姫君たちの不倫』/桐生 操(著)
文 / 草の実堂編集部