パンデミック 東京の危機:次々に押し寄せる重症患者をどう救うか?――試し読み【新プロジェクトX 挑戦者たち】
情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。『新プロジェクトX 挑戦者たち 5』より、第二章「パンデミック 東京の危機――第1波 医療従事者の闘い」の冒頭を特別公開。
パンデミック 東京の危機――第1波 医療従事者の闘い
闘いの始まり
東京都内で初の感染確認
それは、ダイヤモンド・プリンセスに日本中の注目が集まる前のことだった。
都内有数の大規模な救命救急センターを持つ聖路加国際病院には、夜間でも多くの患者が運び込まれる。2020年1月22日、診療放射線技師の宮本朋也は同僚の技師と夜勤に就いていた。
ピピピ。宮本のPHSが鳴った。
「もしもし、ER(救命救急センター)です」
それは、レントゲン撮影を求める電話だった。もしかしたら――。心がざわつくのを感じながら、宮本はポータブルのレントゲン撮影装置を準備して、救急部へと急いだ。そこには、普段着姿でリュックを背負った男性が1人、ポツンと立っていた。
「その時点で、自分は少し緊張しているんだなと感じました。少し呼吸が荒くなっていたのか、早くこの部屋から出なきゃいけないと思っているのか……」(宮本)
宮本が検査したその男性は、2日後、東京都内で初めて新型コロナウイルス陽性者と確認された。WHO(世界保健機関)が、中国の湖北省・武漢で「原因不明のウイルス性肺炎」の患者が相次いでいることを発表してからひと月経たずして、1400万人が暮らす世界有数の大都市・東京にも感染が広がった。
東京都内で初めてコロナ患者に対応した聖路加には、次々と患者の受け入れ要請が届いた。近隣の病院が「通常の診療を守るため」と受け入れに消極的な姿勢を見せるなか、救急部の医長を務めていた大谷典生は、すぐさまその要請に対応した。聖路加には、東京を守ってきた病院としての矜持があった。
1995年3月20日、東京が大混乱に陥った。霞ケ関駅を通る地下鉄3路線の車内でサリンが散布され、合わせて14人が死亡、およそ6300人が被害を受けた地下鉄サリン事件。聖路加は、この事件の発生直後から患者を受け入れ、都内で最も多くの患者を治療
した。当時の院長・日野原重明は、即座に通常診療を止めるよう指示し、病院を挙げてサリン中毒患者の治療に当たった。その魂は、聖路加に脈々と受け継がれていた。
「我々はやらきゃダメだよね、という思いは、院内で働いているスタッフが一様に抱いていました」(大谷)
「医科歯科」の挑戦
東京都内には33の感染症指定医療機関がある。東京の感染者は日を追うごとに増え、このままでは指定医療機関がパンクするのは目に見えていた。
そんななか、ある病院が患者の受け入れに手を挙げた。先進医療を得意とする大病院、東京医科歯科大学病院(現・東京科学大学病院、以下「医科歯科」)だ。同病院はかつて結核病棟を構えていたが、すでに廃止しており、2020年当時は感染症指定医療機関から外れていた。実情としては、感染症患者を受け入れる設備も経験も不足していた。
だが、大学のトップ田中雄二郎(現・東京科学大学学長)は迷うことなく受け入れを決めた。
「東京にある国立の医療系総合大学として、背を向けるという選択肢はなかった。やらないという考えはなかったですね」
医科歯科では、海外にいる卒業生の協力を得て、各国の治療に関する情報を集めて対応を検討しているところだった。
「まだ明確な治療法も決まっていませんでしたが、ヨーロッパやアメリカの話を聞くと、最後の救命方法は重症呼吸不全の管理だと言われていました。そうであれば、医科歯科には救命救急センターもあり、集中治療室もあるので、できるだろうと。それに、日頃から学生たちには『世のため人のために役に立つように』と教えています。社会的使命としてやらなくてはならない」(田中)
一丸となって新型コロナと闘おう。田中は、院内に檄を飛ばした。
3月下旬、医科歯科はコロナ患者の受け入れ専用病棟を設け、通常の入院診療を縮小して対応することを決定する。4月2日には、病院前で特設の検体採取テントが稼働し、最初の患者を受け入れた。
「これはもう危機管理の範疇だ」
4月7日、東京都を含む7都府県に、緊急事態宣言が発出された。あらゆる活動が止まり、街からは人影が消えた。そんな様子とは対照的に、医科歯科にはコロナ患者が次々と押し寄せる。院内は次第に混乱した。
医科歯科では、各部門が対応マニュアルや手順書をつくり、できる限りの準備を整えていた。だが、いざ受け入れを始めると、あちこちで問題が起きる。たとえば、救命救急センターで受け入れた患者に感染の疑いがあり、CT検査を受けるために放射線科に移動するケース。患者は分厚いビニールのシートで覆われた車椅子やストレッチャーに乗り、付き添う医療従事者は感染防護具を身に着ける決まりにした。だが、一般患者がその様子を見て、感染が広がるのではと不安になった。そうした混乱が、病院内のあちこちで起こっていた。また、部門ごとのマニュアルはあっても、部門間のルールの齟齬
によるトラブルも生じていた。
多発するトラブルの相談は、当初、感染症の治療を専門とする感染制御部に集中した。その結果、感染制御部のスタッフは、本来専門家として治療に専念するはずのリソースを、部門間の調整やトラブル解決に割かざるを得ない状況に陥った。士気の高かったスタッフたちの間にも、「このペースで患者が増え続けたらどうなるのか」という不安が広がりつつあった。
混沌とした状況を収めるため、院内に「新型コロナウイルス対策室」が設置された。4月13日のことである。対策室は、患者の受け入れ準備、医療物資の確保といった雑務を一手に引き受けた。リーダーを任されたのは、救急医の植木穣。院内の混乱ぶりに不安を抱えながらも、懸命に診療に当たっていた医師の1人だった。
植木は、リーダーの打診を一度辞退している。感染症の対策室である以上、感染症の専門医が指揮を執るべきだと思ったからだ。しかし2度目の打診で、こう説得された。
「今の混乱した状況は、もはや感染症対策の範疇を超えている。これはもう危機管理の範疇だ。だからこそ、植木先生にやってほしい」
その言葉を聞いて、はっとさせられた。救急のみならず災害医療も専門とする植木は、災害派遣医療チーム(DMAT)の一員でもあった。なるほど、そういうことなら自分の力を生かすことができる。この役職を引き受けるということは相当な負担になるし、感染リスクが高い仕事をする可能性もあるだろう。それでも、自分が持つ災害対応のノウハウをうまく応用して、新型コロナウイルスとの闘いを乗り切ろう――そんな思いになり、大役を引き受けた。
室長となった植木は、8人のメンバーを集めた。いずれも、災害現場で一緒に仕事をしてきた災害テロ対策室(現・災害危機管理部)の看護師や救急救命士だった。
対策室が発足すると、植木はまず院内の状況把握に注力した。「困っていること、疑問に思っていることがあれば、どんなことでもコロナ対策室に連絡してほしい」と院内に周知したところ、病床はいくつ確保できるのか、防護服や人工呼吸器の数は足りているのか、他部門とのルールの食い違いをどうすればいいのか――コロナに関するあらゆる疑問と情報が、対策室に集約されるようになった。手が足りない現場があると聞けば、対策室のメンバーが出向き、「何でも屋」のように細々した仕事をサポートした。
医療人を襲った不安と苛立ち
コロナ対策室の活動が院内に浸透し、調整役として機能し始めると、院内の状況が次第に変わっていった。混乱に巻き込まれていた感染制御部は、感染対策のルール作りなど本来の仕事に注力できるようになり、感染制御部がルールの根拠をしっかり示すことで、部門間のルールの齟齬がなくなっていった。院内の混乱は徐々に収束した。
その一方で、対策室は多忙を極めた。職員などからの問い合わせや相談を受けるため、5台の電話を設置していたが、電話が鳴り止むことはない。開設してすぐに回線がパンクした。かかってくる電話は、感染対策ルールの問い合わせが多かったが、コロナに対する不安を訴えるものも少なからずあったと植木は言う。
「医療従事者は、強い責任感と使命感を持って、毅然としてコロナに立ち向かっていました。ただ、家族が喉の痛みを訴えたり、自分の熱が少し上がったりして、コロナが自分事になると、突然ものすごく不安に襲われるんです。普段とても冷静に仕事をしている人が、半分泣きながら『どうしたらいいんですか』と電話してきたこともありました」
新型コロナウイルス感染症は、重症化すれば命に関わる。重症患者を積極的に受け入れていた医科歯科の医療従事者たちは、日々その事実を目の当たりにしていた。実態を知っているからこそ、張り詰めていた糸が切れるように、不安や苛立ちに襲われる瞬間があった。
胸の内を明かしてくる職員たちの声に、対策室のメンバーは耳を傾けた。医科歯科に適切な態勢が整っていることを伝えるとともに、不安を和らげようと心を砕いた。さまざまなトラブルの相談も、「何とかできるよう努力します」と引き受けた。
そうした役割を担っていると、対策室のメンバー自身の心にも、次第に大きな負担がかかるようになった。それを感じ取った植木は、ある日のミーティングで次のように語りかけた。
「我々は偉くなったわけではない」
コロナ対策室は、あくまでも問題を解決するための調整役であって、意思決定機関ではない。だから、すべての問題を解決しようとしなくてもいい。そう伝えて、対策室メンバーの心を落ち着かせようと努力した。
植木は、自分にしかできない役割を模索し続けていた。
自分にしかできない仕事
救急医でもある植木は、コロナ対策室が発足するその日の朝まで、救命救急センターで当直勤務に就き、自らの手で患者の命を救っていた。一方、対策室は基本的に治療そのものに携わることはない。求められるのは、完全なる裏方の役割。それでも、嫌な顔1つせず仕事を進めた。
「一度きりの人生、たくさんの人を助けられる仕事がしたい」
サラリーマン家庭に生まれた植木は、そんな夢を持って医師を志し、浪人を重ねて国立大学の医学部に進学した。学生時代、見学で訪れた病院の救急科で、助けを求めている人を救う医師の姿を見て衝撃を受け、救急医になろうと決めた。救急科には「たくさんの人を助けたい」という目標を具現化した医療があると思った。
念願の医師となった植木は、災害医療の世界に出会う。災害医療は、有事の際に、1000人・1万人単位の人命を救う。植木はDMATの資格を取得し、東日本大震災などの現場に志願して参加した。
災害医療の現場には、全国からさまざまな組織が集まってくる。DMAT、自衛隊、救助隊、ボランティア……異なる指揮系統、異なる背景を持つ人とコミュニケーションをとりながら、被災者に適切な医療を届けるためにはどうすればいいか。植木は後方支援を率先して引き受けつつ、あらゆる立場の人と会話し、状況を整理し、協働してミッションを遂行してきた。
その経験が、植木に自信をもたらしていた。だからこそ植木は、コロナ対策室のリーダーという役目は「自分にしかできない」と思った。
「医科歯科には優秀なスタッフがたくさんいます。私が目の前の1人を治療するより、マネジメントに回って院内の混乱を収拾し、優秀なスタッフが最善を尽くせる環境をつくることのほうが、結果的によりたくさんの人を救うことにつながる。これは自分にしかできない仕事だ、自分は裏方でいい。リーダーを引き受けたとき、覚悟を決めました」
医師として、治療の現場を離れることに複雑な気持ちがないわけではない。それでも、裏方に徹することが最善だ。植木は、確信をもって院内調整に汗をかいた。
パパはアンパンマン
緊急事態宣言が発出されて以降、東京から「当たり前の日常」が消えていた。通勤ラッシュや満員電車も、幻のように消え去った。
静まりかえった暗い駅のホームで終電を待つのは、いつも植木だけだった。
「1人しか乗らないんじゃ、鉄道会社は赤字だろうな」
いつしか植木は、駅員や電車の運転士に奇妙な仲間意識を持つようになった。ごくまれにほかに乗客がいると無言で会釈を交わした。お疲れ様です、お互い大変ですね。言葉を交わさずとも、そんな思いだった。
植木には2人の子どもがいる。だが、コロナ対策室のリーダーを引き受けてからというもの、子どもが起きている時間に帰宅することはほとんどなかった。長男の晴雅はまだ生まれたばかりだったが、寝顔しか見ることができず、悔しい気持ちもあった。
ある日、長女の心菜が言った。
「どうしてうちのパパはいつもいないの?」
緊急事態宣言によって、多くの企業が在宅勤務制度を導入していた。友達のパパやママは一日中一緒にいてくれる。なのに、うちだけパパがいない。そう言って寂しがる娘に、植木の妻・晴菜はこう言って聞かせた。
「パパは今、アンパンマンになってばいきんまんと戦っているんだよ」
かつて医療従事者だった晴菜は、結婚前、植木になぜ災害医療に取り組むのかと聞いたことがある。「自分の力で、たくさんの人を救える方法を考えたいから」。それが植木の答えだった。
「その思いを知っていたので、コロナ対策室の仕事をすると聞いたときは、夫がやりたかったことを叶えるチャンスをいただけたんじゃないかと思いました。怖さもありましたが、応援したいと思いました」
晴菜は、子どもたちが元気に過ごしている動画を撮影し、たびたび植木の携帯電話に送った。日常のたわいない子どもの姿を見て、家の温かさを感じてほしいという願いを込めた。植木も、送られてきた動画を見ては勇気づけられ、救われるような思いだった。
裏方業務に追われる毎日に出口は見えない。植木がひとり暗い廊下を歩く日は続いていた。