【キリストの聖杯はどこに?】 突然大富豪になった司祭が見つけた謎の財宝
「聖杯」という言葉を、どこかで耳にしたことがある方は多いでしょう。
聖杯とは、イエス・キリストが弟子たちと共に「最後の晩餐」を行った際に使われた杯であり、イエスが十字架に架けられた際には、脇腹から流れ出た血を受けたものとされています。
聖杯は、多くの伝説や物語の中で語り継がれてきました。
その中のひとつに、聖杯はイエスの死後、彼に従っていたマグダラのマリアによってフランスに持ち込まれたという伝説があります。
この伝説は長年にわたり多くの人々の興味を引き、特にナチス・ドイツの一部高官たちの関心を集めました。彼らが聖遺物やオカルトに関心を抱き、様々な発掘調査を行ったことは知られています。
しかしながら、聖杯そのものの発見には至りませんでした。
今回は、そんな聖杯伝説にまつわる、とある司祭の不思議な逸話について紹介いたします。
祭壇に隠されていた羊皮紙
聖杯にまつわる伝説をたどっていくと、ある名画に隠された暗号と、一人の司祭が関わる不可解な出来事が浮かび上がってきます。
ことの発端は1885年6月、フランス南部の小村レンヌ・ル・シャトーに若い一人の司祭、ベランジェ・ソニエールが赴任してきたことに始まります。
赴任から数年後、司祭ソニエールは傷んだ祭壇の修繕を思い立ちました。
そこでまず重い祭壇石を持ち上げてみると、何やら石の下に埋まっている古い二本の円柱が出てきたのです。その円柱をよく見てみると、一つは中が空洞になっており、木製の筒が収められていました。
ソニエールが筒を開けると、謎の文字がびっしりと書き込まれた二枚の羊皮紙が出てきました。
得体の知れない文字を見たソニエールは、「ひょっとしてこれはアナグラム(文字や単語を並べ替えて別の意味を見つける手法)ではないか?」と考えたのです。
暗号解読の手がかり
ソニエールは、その羊皮紙を自室に持ち帰り、頭をひねり続けました。
すると羊皮紙に書かれた文字の中に、ごくわずかに上へと飛び出した文字があることに気づいたのです。
その浮き出た文字を繋ぎ合わせると、
「この財宝は、王ダゴベルト2世とシオンのものである。彼らはここに死ぬ」
という文が現れました。
ダゴベルト2世は、7世紀のメロヴィング朝の王として知られる人物ですが、「シオン」とは何を意味しているのでしょうか。
興味を掻き立てられたソニエールは、次にパリへ向かい、暗号の専門家に相談しました。
そこで彼は、詩人マラルメや劇作家メーテルリンク、作曲家ドビュッシーら、著名な芸術家たちと知り合うことになり、彼らと情報を共有することになったのです。
名画は知っていた?
彼らとソニエールの間に、どのような情報が交換されたのかは明らかにされていません。
しかし何を思い立ったのか、次にソニエールはルーヴル美術館を訪れて、16世紀フランスの風景画家二コラ・プッサンが描いた『アルカディアの羊飼い』という作品の複製画を購入しました。
この絵の中では、四人の羊飼い達が一様に中央の「墓」を見つめています。
そこには “Et in Arcadia Ego”(私はアルカディアにもいる)という碑文が刻まれています。
これはアルカディアと呼ばれる理想郷にも「私」、つまり「墓」と結び付く「死」は存在しているという事を意味していました。
ソニエールは、この絵に示された謎に興味を持ち、財宝探しを本格的に始めます。彼は教会の庭に岩屋を造り始めたり、他の誰かと頻繁に手紙をやり取りするなど、傍目には不可解な行動をとるようになったのです。
そしてある日、彼は教会の墓地にある「マリー・ド・ブランシュフォール侯爵夫人」の墓に注目します。
この墓には、あのプッサンの絵にあったのと同じ “Et in Arcadia Ego”という碑文が刻まれていたのです。
突然大富豪になったソニエール
ここで得られた手がかりが、どのように羊皮紙の内容と結び付けられたのかは不明です。
しかし確かなことは、ソニエールがその後、出所不明の莫大な富を手にしたことです。
突如としてソニエールはパリの最高の顧客として銀行に扱われ、それまで慎ましやかだった村の教会は豪奢に改修されました。村内には貯水塔が建てられ、村の各家には水道まで引かれました。
さらに、ソニール自身のための別荘が建てられ、そこには蔵書を収めるための「塔」が作られました。
ところが1917年、64歳になったソニエールは脳卒中で倒れました。
彼の枕元には急いで隣の区の司教が呼ばれ、司教はソニエールの口からある告解を聞きました。しかし、それを聞いた司教は真っ青な顔で震えながら部屋を後にし、その後、二度と笑うことはなかったといいます。
ソニエールの死後、莫大な全財産は彼の手伝いをしていたマリー・ドナルノーという女性に遺されました。
ところが第二次世界大戦後、フランス国内の通貨が旧フランから新フランに切り替わり、これに伴い旧貨幣の出所を当局に詳しく説明しなければならなくなったのです。
しかしなぜか、マリーは説明を拒み、旧フランを積み上げて燃やしてしまいました。
そしてソニエールの別荘を売却した対価で余生を送り、彼が発見したであろう財宝については、死ぬまで一言も漏らそうとはしませんでした。
財宝と聖杯
こうして雲散霧消したと思われたソニエールの財宝でしたが、後にこの問題に魅了されたイギリスの歴史研究家で作家のヘンリー・リンカーン(1930年~2022年)が、驚くべき仮説に辿りつきます。
彼によると、暗号専門家による分析の結果、例の敷地内の墓石には羊皮紙にも書かれていた「シオン」修道会の名が読めるというのです。
シオン修道会とは、中世ピレネー山中に存在した血盟騎士団で、その活動目的は「メロヴィング王朝の血脈を、フランス王座として復活させる事」だったとされています。
彼は更に調査を進め、「財宝は、シオン修道会の流れを汲む、十二世紀から十三世紀にかけて巨万の富を築いたテンプル騎士団の秘宝だったのではないか?」という推測に行き着きました。
ヘンリーは1970年代に、このテーマに関するドキュメンタリーを制作し、好評を博します。
ところがそれから間もなく、ヘンリーはとあるイギリス国教会派の関係者から、奇妙な書簡を受け取りました。
その書簡によれば、ソニエールが発見したレンヌ・ル・シャトーの財宝、つまりテンプル騎士団の財宝は、黄金や宝石ではなく「キリストの聖杯」だったというのです。
無論、聖杯の実在が確認できない以上、一つの仮説に過ぎません。
しかし前述したように、一介の司祭でしかなかったソニエールが、突如として巨万の富を築いた事は事実です。
さらに、ソニエールが建てた書物所蔵のための塔は、聖杯をフランスにもたらしたとされる「マグダラのマリア」から名を取り、「マグダラの塔」と名付けられているのです。
もちろんこの仮説には否定的な意見も多いですが、レンヌ・ル・シャトーを巡るこのミステリーは様々な憶測を呼び、現在でもその地を訪れる人々は後を絶ちません。
プッサンの作品を有するルーヴル美術館や、今なお現存するマグダラの塔を訪れて、歴史と神秘の謎解きにふけるのもまた一興かもしれません。
参考文献:『世界史・驚きの真相: 謎とロマンに溢れる迷宮を行く』桐生操 著
文 / 草の実堂編集部
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