隠岐 離島再生:島に新たな産業を生み、活気を取り戻す――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』
情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版の第二作『新プロジェクトX 挑戦者たち 2』より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。
<strong>隠岐 島に希望を取り戻せ――破綻寸前からの総力戦</strong>
1. 102億の借金と異色の町長
島に希望を取り戻せ
日本海に浮かぶ小さな島が静かな脚光を浴びている。島根県海士町。地元を挙げての綱引き大会はやんやの熱気。老いも若きも歓声を上げる。この活気は住民たちが戦い、勝ち取ったものである。
昭和以来、日本全国を苦しめてきた過疎という魔物は、交通が不便なこの島をも容赦なく襲い、住民を奪い去った。人口減少に加えて町の財政も破綻寸前。その時立ち上がったのが、元営業マンで苦労人の町長である。島を守るため自ら給料をカットし、逆転に打って出た。その思いに続いたのは町役場で働く3人の幼なじみだった。これは、故郷を守るため町役場と住民が力を合わせた総力戦の物語である。
公共事業に支えられた島
島根半島の沖合約60キロに浮かぶ隠岐諸島の一つ、中ノ島を町域とする海士町は、松江からフェリーで約4時間の距離にある。鎌倉時代、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇が流された場所として知られ、対馬暖流がもたらす海の恵みと、豊富な湧き水で育った田畑の恵みに支えられ、半農半漁の島として歴史を紡いできた。
1980年代初頭、そんな島を飛び出した一人の大学生が、大阪の街を浮かない顔で歩いていた。海士町の漁師の長男、吉元 操だ。
浮かない顔をしていたのは、大学を卒業したら地元に帰ることになったからだ。その頃の大阪は、再開発で大阪駅前に四つのビルが相次いでオープンし、中古レコードや古着を売る店が集まる西心斎橋地区は、流行に敏感な若者に「アメリカ村」と呼ばれるようになっていた。離島で生まれ育った吉元にとって、新しい文化と刺激に満ち、欲しいものは何でもそろう都会での生活は、楽しいことばかりだった。大学卒業後もしばらく大阪で働きたいと思っていたが、「長男は島に帰るものだ」と言われ、しぶしぶそれに従った。
子どもの頃、吉元は家業を手伝うのが当たり前の日々を送っていた。養殖したワカメを洗い、広げて天日に干す。朝から晩まで手伝いに明け暮れ、その姿を友達に見られるのが恥ずかしいと思っていた。
「漁師の家に生まれて、人は遊んどるのに、朝から晩まで働かされたり。ほかの子はおもちゃで遊んどったりするのに、なんで俺ばっかりこんなことせないけんだろうって、いつも恨んどったけどね」
大学進学は、そんな日々からようやく吉元を解放してくれた。しかし、それもわずか4年のこと。故郷行きの片道切符を手に、吉元は大阪を離れ、松江からフェリーに乗り込んだ。島の港から実家がある菱浦地区へ向かうバスに乗り込むと、目からぽろりと涙がこぼれた。
「一生ここに住むのか、と思ったら、ねえ。涙が出てきたね。そいつは忘れないね」
言われた通り島には戻ったが、漁師にはならなかった。安定した暮らしを求めて選んだ仕事は、町役場の職員。入庁すると財政課に配属され、税務の担当になった。税金を集めるという仕事柄、町民に喜ばれたり感謝されたりすることはあまりない。しぶしぶ帰ってきた島。決められた業務を淡々とこなす日々。やりがいも楽しさも感じられぬまま、時が過ぎていった。
2人の幼なじみ
町役場では、吉元の二人の幼なじみも働いていた。奥田和司と大江和彦。奥田は一つ年上、大江は同い年で、二人とも吉元と同じく「長男だから」と島に戻っていた。
奥田と大江がいたのは、島のインフラ整備を担当する土木課だった。当時、土木課は役場の中でも花形部署と言われていた。なぜなら、大江の言葉を借りれば「当時、公共事業のおかげでこの島は飯を食えていた」からだ。
大江が役場で働き始めた1985(昭和60)年頃、海士町は公共事業の最盛期だったと言う。町の予算の大半が公共事業に費やされ、工事の発注元である土木課には、インフラ整備を求める地域住民の要望がひっきりなしに届いていた。集落同士を結ぶ道路や橋、農道、船を安全に係留できる岸壁、島を訪れる人を迎えるフェリー埠頭――。住民たちは、島を便利にするさまざまな公共事業を望み、期待を寄せていた。町の財源だけでできる事業には限りがあるため、国や県からの補助金で予算を確保し、住民の要望を形にしていく。それがこの時代の土木課の仕事だった。
「当時はまだまだ島のインフラが成熟していなかったので、住民のみなさんの『早く良くしてくれ』という気持ちが強かった。みなさんが熱い思いを語るので、こちらも『よしわかった、なんとかしよう』と思っていた」(大江)
大きな工事を次々と手掛け、威勢の良い土木課の二人とは対照的に、吉元は相変わらず仕事に楽しみを見出せずにいた。仕事の後は、奥田に誘われて入った青年団の人形劇に駆り出されていたが、それも「田舎くさい。なんでそんなことをしないといけないのか」とあまり好きにはなれなかった。
膨れ上がった借金 底をつきかけた基金
公共事業が盛んに行われていたその陰で、島の暮らしは変わり始めていた。昔から島を支えてきた漁業は、価格競争にさらされる中、輸送に時間がかかって鮮度が落ちてしまうため、さらに買い叩かれ、衰退の一途をたどっていた。本土までの輸送にコストはかかるのに、単価が安く、儲けが少ない。
農業も状況は似たようなもので、輸送費で稼ぎが目減りし、長く続いていたミカン農家はどんどん減っていた。「離島のハンデ」は漁業や農業に重くのしかかり、廃業を選ぶ人も少なくなかった。そして、安定していて、収入もいいと公共事業を請け負う建設会社へ、そうした人が働きに流れていくようになっていった。
国や県の補助金という「本土外貨」で公共事業を絶え間なく行い、建設業で働く島民の収入を支える。この仕組みもまた、昭和から平成に時代が変わる1990年代初めには陰りが見え始めた。バブル経済が崩壊し、景気が一気に冷え込むと、公共事業に対する国からの補助金は次第にカットされていった。この頃になると、島のインフラも整い、住民からの要望も昔ほど多くはなくなっていた。しかし、工事の発注を止めることはできなかった。止めれば、建設会社で働く地元住民の雇用が守れない。海士町は、地方債の発行という「借金」によって公共工事を続けた。
さらに町は深刻な問題を抱えていた。人口の減少だ。1950(昭和25)年におよそ7000人いた町の人口が、1995(平成7)年の国勢調査で3000人を割った。このままのペースで減り続ければ、島で生活を維持できなくなる。危機は、ひたひたと島に迫っていた。
そして1999(平成11)年、人事異動で財政課に戻った吉元は、衝撃的な現実に直面することになる。積もりに積もった借金で、町の財政が破綻しかけていた。
当時、町の収入35億円(借入金を除く)に対し、支出は52億円に上り、支出のうち約10億円が借金の返済に充てられていた。借金の額は、およそ102億円。4年後の2003(平成15)年には借金返済のピークを迎えるが、町にはそれに耐えうるだけの蓄えもなかった。1994(平成6)年に15億円あった基金は、これまでの返済ですでに取り崩され、底をつきかけていた。
合併の先に島の未来はあるか?
時を同じくして、町の存続に関わるもう一つの大きな問題が動き始めていた。いわゆる平成の大合併だ。
行財政の効率化や地方分権の推進を目的とする市町村合併は、1999(平成11)年頃から政府主導で議論が本格化した。過疎化や財政難で先行きに不安を抱える市町村にとって、合併特例債をはじめとする国の財政支援策は、大きなメリットに思えた。加えて、政府主導で進められていたという背景から、合併しない自治体は、今後国からの財政支援で不利になるのではないかともささやかれていた。
合併の議論が始まった当初、吉元は、大きな借金を抱えた自分たちには合併が救いになると思っていた。しかし、海士町が合併するメリットとデメリットを詳しく分析していくにつれ、考えは180度変わった。
海士町(中ノ島)と、隣接する西ノ島町(西ノ島)、知夫村(知夫里島)の3島3町村は「島前」と呼ばれ、島前3町村による合併が検討されていた。距離が近いとはいえ、時化で船が欠航することも珍しくなかった。行政サービスの効率化を目的に、ほかの島に病院や学校が集約されてしまえば、高齢者や子どもがいる世帯は海士町を離れ、その島へ移ることも考えるだろう。その先に待つ島の姿を想像して、吉元は思った。
「合併したらこの島は無人島になるかもしれない。それでいいのか?」
その瞬間に湧いてきた感情は、自分でも思いもよらないものだった。
「急に郷土愛というものがむちゃくちゃ湧いてきて。なんとかせないけん、この危機を回避せないけん、と。一時的にお金がないということで、何千年もこの島でやっとったものを、僕らの世代でなくすわけにはいかんと思った」
大阪からしぶしぶ戻り、ここで一生暮らすのかと涙をこぼしながら見た故郷の風景。しかしそれは、決してなくなっても構わないものではなかった。あの日、バスの窓から見た風景を、誰もいない風景にしてはいけない。何とか自分たちでこの島を守らなければならない。町の将来について「本気モードになったのはこの時」と後に吉元は語っている。単独町制の道しかないので、そう覚悟を決めた。
吉元が危機感を抱く数年前から、公共事業と補助金頼みの財政では将来が危ういのではないかという感覚は、土木課の奥田や大江にもあった。
町が102億の借金を抱え、危機的状況にあることを吉元から伝えられた奥田と大江は、周りの職員にもそれを話し、危機感を共有しようとした。奥田と大江もまた島を守るため何か行動しなければと思っていた。ところが、同僚から返ってきたのは「気にしすぎじゃないか」という冷めた声だった。
「一般の職員は、僕らは『のぼせている』という風に感じていたんじゃないかな」
大江がそう振り返るように、この時はまだ、財政を立て直そうという一体感が役場内に生まれることはなかった。
立ち上がった半分よそ者の元営業マン
そんな中、2002(平成14)年に行われた町長選で、新たな町長が誕生した。山内道雄。高校卒業後、一度島を離れ、民間企業で営業を担当していたが、52歳の時、母親の介護のため島に戻っていた。町議会議員や議長を務め、初めて立候補した町長選で当選を果たした。
それまで町職員出身の町長が続いていた海士町では、山内の元営業マンという経歴は、異色のものだった。山内が異色だったのはそれだけではない。両親が鳥取出身で、元々島には地縁血縁がない「半分よそ者」であることも、歴代の町長とは違っていた。
そんな山内が町長になったのは、ふるさとに恩返しをしたいと考えたからだった。お菓子屋を営んでいた山内の父親は目が見えず、小さい頃から家計には余裕がなかった。苦労していた山内は、まわりの大人や友達に助けられて成長した。幼い山内がサザエを上手に捕れなかった時は、年上の仲間が一緒に食べようと分けてくれた。支え合う人情がこの島の宝。今度は自分が島の人を支える番だという思いが、山内の背中を押した。
町長として初登庁した日、山内は集まった役場の職員を前に、「役場は株式会社だ」と自分の考えを語った。町長は社長、課長は取締役、職員は社員、町民は株主であり顧客、行政とは企業経営だ、と。それを聞いた時のことを、大江は鮮明に覚えている。
「ハッとしました。我々職員が変革を求められるんじゃないかという不安が少しと、でも、俺たちがやりたいことができるかもしれないというワクワク感がありましたね。山内さんはよく『心配すんな、俺が全部責任取る。俺が責任取るから、お前たちの好きなようにやれ』と。責任は取る。それだけです。あれをやれ、これをやれ、なんて全然言わなかった」
町を変えたいと思いながらも、まわりから大江、吉元と共に「のぼせている」と言われていた奥田もまた、山内の就任によって町が変わると思った。
「これでいろんなことを本気で進められるという確信を持ちました。(山内町長は)とにかく熱量を持って人を動かせる人ですから」
元営業マンの異色の町長と、町役場の幼なじみ3人組。故郷を次の世代につなぐ、待ったなしの戦いが幕を開けた。
2. 守りと攻めの大改革
戦いの始まり
2003(平成15)年、町内各地区での住民集会を経て、海士町は合併をしない自立の道を選んだ。町民も海士町を残したいという思いだった。ほかの2町村と協議の末、この年の12月25日、海士町が参加していた隠岐島前任意合併協議会も解散した。それは、財政破綻寸前の海士町が、生き残りをかけて挑む、本当の戦いの始まりでもあった。
合併協議会が解散した翌日から、吉元は部下と役場の小さな部屋にこもり、財政再建の戦略を練り始めた。単独町制を選んだ今、財政危機という荒波から、何としてもこの島を守る。もう国や県からの補助金支援はあてにできない。吉元には、合併反対を進言した自分にこそ、その責任があるという誰よりも強い思いがあった。
そこに、追い打ちをかけるニュースが飛びこんできた。2004年(平成16)度、国からの地方交付税交付金が大幅に引き下げられることになった。いわゆる「地財ショック」だ。海士町の削減額は、海士町の町税収入に匹敵する1億3000万円。
10年後に町の財政はどうなってしまうのか。吉元は自ら長期的な財政シミュレーションを行い、言葉を失った。
「このままでは財政再建団体に転落する」
それが、計算ではじき出された海士町の未来だった。
ひとたび財政再建団体になれば、公共施設の廃止や使用料の引き上げ、職員の大幅解雇などによる町の再建が、国の指導のもとで行われることになる。地域住民の足である町営バスの路線が廃止され、診療所も縮小を余儀なくされるだろう。住民サービスは最小限に抑えられる一方、住民税や固定資産税の税率、保育料などの公共料金は引き上げられることになる。島の暮らしへの影響は計り知れなかった。
町長と幼なじみたちの決意
悠長に構えている時間の余裕はない。時間が経てば経つほど102億の借金の利息も膨らむ。このままいくと2008(平成20)年に財政再建団体へ転じる。この切羽詰まった状況から、短期間で財政を立て直す策はただ一つ。「管理職の給与を当面の間カットする」。決して得策とは言えないが、短期的に成果を上げ、町民への影響を最小限に抑えるには、それしかない。
吉元は腹を決めた。
「住民に迷惑をかけることはなるべく避けたい。自分たちがちょっと我慢すればいいことだから、とは考えたね。まず自分たちからやるのが一番楽な選択というか、人にしてもらうより、自分でやった方が楽じゃないですか」
吉元に「給与カットしかない」と伝えられた奥田と大江も、同じ思いだった。
「借金は、長く時間をかけて少しずつ減らせばいいと思っていましたが、突然交付税が減らされて、財政状況の厳しさが急に現実になった。別にそれ(給与カット)がいいと思っているわけじゃないんですけど、支出を抑えられるのは人件費以外にない」(奥田)
「吉元は、給与カットをしないと島が沈没する、絶対に先に進まんぞ、と。その言葉から、町が国の管理下にならないためには、この改革を進めざるをえない、町を元気にしていくためには、我々自身が大きな改革をやっていかなければならないという気持ちになった」(大江)
吉元は、町長の山内に管理職の給与カットを進言した。すると山内は言った。
「まず俺の給料を半分にしてくれ」
すごいな。その時、吉元は素直に思った。
「俺は(給料を)カットすっけい、って。50(%)やるって。お金にあんまり欲がないなあ、すごいなと」
問題は、吉元たち以外の管理職からも給与カットへの理解が得られるかどうかだった。
吉元たちが当初想定していた管理職のカット率は30%。一人あたり月に約10万円も減額されることになる。
たとえ職員本人がよくても、果たして家族が月に10万円もの収入減を納得するのか。きれいごとでは済まされない、本人と家族の人生設計を左右する問題だった。
しかも、管理職は、子どもが高校や大学に進学したり、親が仕事を引退したり、出費がかさむ世代でもある。実際、課長級の職員には、島外の子どもに仕送りをしている者、両親の生活を支えている者が少なくなかった。実はほかならぬ奥田自身も、ちょうどこの年の4月には、3人の子どもへの仕送りが始まることになっていた。給与カットの話が持ち上がっていることなど、妻にはとても言い出せなかった。
奥田の妻・美奈子が給与カットのことを聞いたのは、カットが正式に決定した後のことだった。それも夫の口からではなかった。
「地区の町政座談会に出たんです。『管理職は30%カットする』って。えっ、と思って。座談会が終わった後、役場の職員に『美奈子さん、聞いてた?』って聞かれたけど『聞いてない、聞いてない』って。その職員もたまげてましたね」
美奈子は島出身で、東京の大学を卒業後、海士町に戻り、青年団で出会った奥田と結婚して以降、土木一筋「町民のために」働く奥田の姿をずっと見てきた。黙っていた奥田を責める気にはならなかった。
「奥田は、下手したら最初に賛同したタイプだと思っています。それはわかりますから。給与カットになって、家計の収支を計算してみたら、1年目から大赤字ですよ、大赤字! でも、お金はなくても手間暇かける時間はあるから、まあなんとかやってみるか、って」。当時のことを思い返し、美奈子はおおらかに笑う。
家族に相談できなかったのは、吉元と大江も同じだった。吉元は、給与カットが始まってから妻に「こんなことなら結婚するんじゃなかった。失敗したわ」と冗談交じりで言われたという。何も言い返せず、「まあその通りだなと思ったね」と苦笑する。
給与カットを決断した管理職たち
2004(平成16)年1月。夕暮れの会議室に、吉元、奥田、大江を含めた13人の管理職全員が顔をそろえた。皆、無言だった。
重苦しい空気の中、大江が沈黙を破ってこう言った。
「俺は、給与のカットを申し出たい」
土木課で働いてきた大江は、借金をしてでも公共事業を進めてきたことに責任を感じていた。
「結局、この財政難に陥ったのは誰の責任かっていうことですよね。公共事業をもっとやろうだとか、いろんなことを提案して、課長や町長に認めてもらって、議会での議決を経て自分たちがやってきた。そう考えると、今日の財政悪化の責任の一端は、政策提言した私たちにもあるんじゃないか。自分たちもある程度の給与カットに応じてもいいんじゃないか」
実は大江は、もう一つの意図を持って、会議で口火を切る役を買って出ている。
吉元に給与カットしかないと聞いた時、大江は、確かにそれしかないと思いながら、「話の進め方次第では上手くいかないかもしれない」とも感じていた。管理職会議の場で、財政の担当者である吉元が、ストレートにこの話を切り出せば、財政課の主導でカットを押しつけられたという印象を持たれてしまうかもしれない。カットそのものの是非以前に、そこに拒否反応を示す人も出るだろう、と。
そこで大江は、事前に「会議で口火を切るのは自分がやる。お前は黙っとけ。一言もしゃべるな」と吉元に言い含めた。カットを自分たち職員の意思で決めた、というプロセスが重要だということは吉元もわかっていた。大江に何も言うなと言われ、確かに大江なら上手くやってくれるかもしれないと思った。大江には場の雰囲気を明るくする天性の才があることも、幼なじみの吉元はよく知っていたからだった。
「重い話題でも、大江が言うとあまり重くなくなるんだよね。明るい感じになる。僕が真面目に論理的に給与カットやろうやと言うより、なんとなく、ね」(吉元)
「多分、みんな口火を切りづらかったと思うわ。自分から『皆さん下げましょう』って言えないでしょうから。ここは自分が、と思って、大きく給与カットしようじゃないか、未来のためにしようや、というようなことを言ったような気がします」(大江)
会議は計3回開かれた。最後の会議が開かれる日、出張中だった奥田は、役場の吉元に一通のファクスを送った。
「これからいろんな補助金も切りますという時に、俺は管理職として今のままでやっていくことなんでできんわい、と。給与カットやらんとだめだぞ、という話を自分の意見として会議で出してほしい、と送りました」
2か月間の話し合いの結果、全管理職が給与カットに応じた。ただし、そこには一つ、条件が付いていた。
「若手職員の希望が消えないよう、一般職員の給与は削らない」
翌日、管理職を代表して総務課長が山内に結論を伝えると、山内は感激の涙を流したという。