江戸の闇金「座頭貸し」の極悪非道な手口とは? ~年利60%、吉原で豪遊【べらぼう】
大河ドラマ『べらぼう』に登場した鳥山検校(けんぎょう)。
「検校」とは、男性盲人の自治組織「当道座(とうどうざ)」における最高官位で、彼らは多くの特権を持っていました。
ドラマでは、禿や新造に陰口をたたかれながらも、優美な振舞いと粋な計らいで場を盛り上げた鳥山検校。
剃髪の姿は僧にも医師にも見えますが、彼の生業は「座頭貸し」の名で知られる悪名高い高利貸しです。
吉原で豪遊できるほどの莫大な財を築いたその裏には、腐れ外道・忘八も真っ青な極悪非道な闇金の手口がありました。
鳥山検校の「座頭貸し」の手口とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?
幕府に保護された「当道座」
「当道」とは、芸能者が自らの芸能を称する言葉であり、鎌倉時代に『平家物語』を語る盲目の琵琶法師たちが作った「座」(職能集団)が「当道座」の始まりといわれています。
室町時代になると「当道座」は、当道に従事する全国の男性盲人たちを束ねる組織となり、公家の久我家(こがけ)が支配しました。久我家は京都に「職屋敷」を置き、座を統括する「職検校(総検校)」と十人の検校に座の管理を任せました。
慶長8年(1603)、征夷大将軍となった徳川家康を職検校の伊豆円一が訪れ、当道座の存続を嘆願すると、家康は盲人の自治組織として公認し、次のような特権を与えました。
・座法による犯罪人の処罰
・売官の承認
・官金と運上金の配当
・金貸し業の承認と債権の保証
・盲人の租税の免除
さらに、5代将軍綱吉の時代に幕府の医官となった杉山和一が「関東総検校」となり、江戸に「総録屋敷」を与えられると、当道座に加入した全国の盲人たちを京都の職屋敷と江戸の総録屋敷がそれぞれ分担して支配するようになりました。
その後、本来は琵琶・三弦・箏 ・鍼灸などの芸能や技術者の組織であった当道座は、芸道よりも経済的な自助組織としての側面を強くしていったのでした。
当道座の官位システムと特権
当道座の官位は、上から「検校」、「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」、「座頭」の4官であり、さらに16階73刻(きざみ)に細分化されていました。
盲目の子どもは、当道の師匠につくと同時に剃髪し法師体になります。
師匠の下で研鑽を積んだ後、京都の職屋敷や江戸の総録屋敷に赴き、4両を納めると最初の官位「半打掛」が授与されます。それと同時に名前に「一」の字をつけることが許されました。
官位は久我家が手数料を差し引いて授与する座独自のものでしたが、「座頭」の官位を得て座入りが認められると、芸能や鍼灸の営業権の保証と配当金の取得という特権を得ることができました。
配当金には「官金配当」と「運上配当」の2種類があります。
「官金配当」は、官位を得るために座に納められた上納金(=官金)の中から座の運営費などを差し引き、残りを検校、別当、勾当に分配するものです。
官金配当は座の下層階級には分配されず、位が高ければ高いほど多くの配当を受けることができたので、上層階級の主な資金源となりました。
一方「運上配当」とは、中流以上の家で出産や元服、婚礼、葬式、法事などの慶弔があった際、盲人がその家を訪れると金銭をもらえるシステムで、幕府によって与えられた特権でした。
官位ごとに金額が決まっており、上級ほど多くの金銭を得られるのですが、盲人全員に配られたため下級の者には大きな収入源となっていました。
こうした特権により、官位が上がれば上がるほど利権も多く、最高責任者である職検校(総検校)ともなると、十万石の大名に匹敵したそうです。
本来、官位は音曲や鍼灸などの才能や技術が伴わないと得られないものであり、管鍼法を創案した杉山検校や、近代筝曲の開祖と言われる八橋検校、学者として大成した塙保己一などの優れた検校が生まれています。
しかし、売官が認められていたため、とにかく金ができれば官位を買うという者が多くなっていきました。
とは言っても、座入りが認められる最下位の「座頭」から最高位の「検校」までは73段階。官位一つひとつに必要な金額が決められており、「検校」になるまでには719両もの大金が必要でした。
「座頭金」を活用した高利貸し「座頭貸し」の盛行
任官される者が増えれば座が潤い、座員たちは多くの配当を得ることができます。
幕府は盲人の生活を保護する手段として、当道座が保有している金を官金扱いし、それを元手に金貸しをして利殖することを認めていました。
幕府の庇護のもと、職屋敷と総録屋敷は、利殖の資金として座の保有する積立金の一部を座中の盲人たちに貸出し、自己資金のない者でも金貸しができるようにしました。
元禄の頃から盛んになった座頭の金貸しは「座頭貸し」とよばれ、「座頭金(ざとうがね)」は盲人が高利で貸していた金を意味します。
「座頭金」は幕府が認めた官金であり、「座頭貸し」は債権が保証されたため貸し倒れがほとんどありません。そのため寺社や商人が資金提供し、座頭貸しが元手に困ることはなかったようです。
座頭貸しの盛行によって、元禄以前に10人程度だった検校はその後大幅に数を増やし、享保の頃には200人を超えていました。
江戸中期頃には莫大な財をもつ検校が現われ、人目もはばからず毎日のように吉原を訪れては豪遊し、夜桜や月見などの吉原のイベントに訪れる客のほとんどが検校か勾当だったそうです。
文化13年(1816)に武陽隠士(ぶよういんし)が書いた『世事見聞録』には、二分(50銭)を元手に金貸しを始め、十年の間に千両積んで検校になり、十五年目には一人当たり五百両かかる勾当を二人弟子にもち、さらに五千両の貸付金ができたという検校の話が記されています。
ちなみに、鳥山検校が35歳で処分を受けた時に没収された財産は、家財の他、有り金10万両、貸付金1万5千両、町屋敷一か所でした。
鳥山検校の非道な金貸しの手口とは
国家の保護のもとに金貸しができる。これほどおいしい利殖法はありません。
検校たちが莫大な財産を築けたのは、幕府の保護政策を笠に着て、座頭貸しを悪用する者が増えたためでした。
鳥山検校もその一人で、彼の手口はというと、まず貸し付けの前に利息分を前引きし、さらに礼金を取ります。
結果、借り手に渡されるのは6~8割程度です。
利息は、高利貸しの代名詞といわれる「五両一」で貸し付けていました。
当時の一般的な利息の水準は「25両1分」。25両の借金に対して月に一分の利息がつくのですが、一分は1両の4分の1ですので、年利は12%になります。
一方、鳥山検校が取っていた「五両一」とは5両につき1分の利息で、年利にしてなんと60%。
いかに暴利だったかが分かります。
さらに期日までに返済できない場合、「月踊り」を適用しました。
「月踊り」とは、返済期日を25日とし、それまでに支払いがない場合、25日までで一度1ヶ月分の利息を取っておき、26日から月末までで、さらに1ヶ月分の利息を取るという二重取りの方法です。
また、返金が滞ると証文を3ヶ月、4ヶ月単位で書き換え、新たな借金として再度礼金を取っていきます。
これだけでも鬼のような金貸しなのですが、取り立ても苛烈を極めました。
武家屋敷の玄関先に小旗や札を立てて何日も座り込んだり、近所中に聞こえるような大声を張り上げて催促したり、といった強硬手段を使うので、借りている武士の面目は丸つぶれです。
こうした悪質な座頭貸しに幕府も頭を抱えていましたが、家康以来続く盲人保護の立場から、なかなか対処に踏み切ることができませんでした。
しかし、安永7年(1778)、旗本の森忠右衛門とその子虎太郎が、借金の返済ができずに夜逃げするという事件が起きたのです。
旗本といえば、一朝ことあれば鎧兜を身にまとい将軍の元に馳せ参じるのがお役目。その旗本が行方不明とあっては、幕府としても放っておけません。
日頃から高利貸したちの悪行に業を煮やしていた為政者は、これを契機に一斉摘発に乗り出し、鳥山検校をはじめとする20人ほどの悪質高利貸しが検挙されたのでした。
さて、大河ドラマ『べらぼう』では鳥山検校はどのように描かれるのでしょうか?今後の展開に注目したいと思います。
参考文献
・中山太郎『日本盲人史』,昭和書房, 昭和9.国立国会図書館デジタルコレクション
・武陽隠士ほか『世事見聞録』,青蛙房,1966. 国立国会図書館デジタルコレクション
・河越恭平『杉山検校伝』,杉山検校遺徳顕彰会. 国立国会図書館デジタルコレクション
・『大東文化大学紀要』(14),大東文化大学,1976-03. 国立国会図書館デジタルコレクション
文 / 草の実堂編集部