18歳から両親の壮絶介護15年。元”日テレ”のアナウンサー町亞聖が語る「受容力」
「介護だけでなく自分の人生に欠かせないのは受援力です」。そう語るのは、日本テレビでアナウンサー・報道キャスターを経て、現在はフリーアナウンサーとして活躍されている町亞聖さん。その輝かしい実績の裏には、町さんが18歳の時に母親がくも膜下出血で倒れ、約15年以上の壮絶な介護生活がありました。
家事や家族の世話、介護を行う子どもや若者は「ヤングケアラー」と呼ばれ、昨今、社会的関心が集まっています。元祖ヤングケアラーだった町さんは、なぜ介護をしながら大学進学を経て、アナウンサーを目指し続けることができたのでしょうか。
町さんの著書『受援力 “介護が日常時代”のいますべてのケアラーに届けたい本当に必要なもの』(発行:株式会社法研)でも語られた、はたらく人にも届けたい「受援力」について伺いました。
18歳から突然の介護。妹や弟の面倒を見ながらもアナウンサーの道へ
──町さんは18歳からお母様の介護だけでなく、妹さんや弟さんの面倒も一人で担われていたと伺いました。どのような経緯があったのでしょうか。
高校3年生の3学期に、40歳だった母が突然くも膜下出血で倒れたんです。すぐに手術をして一命はとりとめたものの、右半身麻痺と言語障害という重い障害が残り、母の看病や介護をする生活が始まりました。
母は車椅子生活になり、外出もままならないし喋ることもできない。父からは「今日からお前が母親だ」と言われ、長女だった私が妹と弟のお世話や家事を担うことに……。当時は、お金のやりくりや毎日の献立を決めることで頭がいっぱいで、将来を考える余裕なんてなく、大学に進学することさえも無理だとあきらめていました。
ただ、父は「大学だけは行ってほしい」と。父は5歳で父親を亡くしていて、経済的な理由から大学進学できなかったので、私に夢を託したんですよね。そんな後押しもあり、介護の合間にがむしゃらに勉強し一年浪人をして、立教大学に合格しました。
──介護をしながらの受験。大変だったかと思います。そこからどうしてアナウンサーの道に進まれたのですか?
母の介護だけでなく、妹や弟の学校のこと、経済的な問題などもちろん苦労もありましたが、母が車椅子生活になったことで、障害を持つ人や車椅子で生活している人とたくさん出会うことができました。そこで、私が今までいかに無知だったかを思い知ったんです。
当時はエレベーターの設置や段差のない乗降口など、今よりもバリアフリー化が進んでいなかったので、車椅子で外出する際には、先に洋式トイレがあるかの確認などが欠かせませんでした。外出するだけでも、自分が想像していた以上に事前の準備が大変で。母の介護を通じて、街などに存在するするさまざまな問題が見えてきました。
介護や福祉はまだまだ認知度が低いこともあり、「この実体験を一人でも多くの人に伝えていきたい」という想いが強くなったことでアナウンサーを目指すようになり、ご縁があって日本テレビに入社しました。
その後、アナウンサー、報道キャスター・記者としてはたらく中で、生きづらさを抱えているのは、障害を持っている当事者だけではないことを仕事を通じて感じました。同時に、そういう人たちの声を届けることが私の役割だな、と。
声なき声がある限りは、私の仕事は終わらないと思っていて、さらに活動の幅を広げるためにも、2011年6月にフリーアナウンサーとして独立。今はヤングケアラーや介護、医療問題を生涯のテーマに取材や啓蒙活動をしています。
過酷な介護生活の中でも、自分の人生の舵を切る
──波瀾万丈な人生の中でも、大学進学やアナウンサーになる道を叶えるために意識していたことはありますか?
常に「自分自身が納得できるか」を考えに考えてから選択していました。自分で納得した道を選ばないと、後で何かあったときに親のせいにしたり、社会のせいにしたりしてしまうんですよね。他の人の責任にしても、人生は何も変わりませんし、親や過去も変えることは出来ません。
18歳の時にヤングケアラーになった私は本当は誰かに助けてほしかったけれど、簡単にSOSを出すことは出来ませんでした。同世代の友達と同じように過ごすこともできない状況でしたが、それでも自分の人生の舵は自分で取りたかったんです。父からの過剰な期待や後押しはありましたが、私の人生は父のものとは全く別で、私自身が自分の人生をあきらめるのは嫌だと強く思ったんです。
フリーアナウンサーになる決断もそうです。37歳の時に、まだまだ私には伝えたいことがあるのに、会社の人事で報道局から別の部署に異動することになり、伝える仕事ができない時期がありました。「3年後には報道に戻れるよ」と周囲に言われていましたが、「このまま待つだけで本当に後悔しないのか」と自問自答し続けました。
ちょうど母が病気で倒れた40歳が目前に迫っていて、アナウンサーとしてもブランクが12年もあり、何の後ろ盾もありませんでしたが、自分で納得する道を選ぼうと、フリーアナウンサーになることを決意しました。
高校生に向けてヤングケアラーの授業を行っていますが、「町さんが優秀で強いからできた」とよく言われるんですよ。でも、私は特別何かを持っていたわけでもないし、強くならざるを得なかっただけで、たくさん泣きましたし、本当に悔しい思いもしてきました。
──町さんの強い意志を感じます。夢を諦めなかった背景には、お母さんの介護から学ばれたことがあるのでしょうか。
ありますね。「出来ないことではなく出来ることを数える」これは母との暮らしの中で心掛けてきた発想の転換です。自分のことよりも家族を優先し進学を諦めるヤングケアラーがいます。私の弟もそうでした。そんなヤングケアラーだけでなく全ての若者、そして大人にも「納得して選択する」ことが大切だとこれからも伝えていきたいと思っています。
次世代にバトンをつないでいくために、今日からできる「受援力」とは
──これまでのご経験から、町さんは2024年10月20日に書籍『受援力』を発売され、その大切さを啓蒙されています。改めて、「受援力」について教えてください。
受援力とは、不安や困りごとがあった時に誰かに助けを求める力のことです。一人で抱え込むのではなく、「助けて」と声を上げることが受援力の第一歩だと私は考えています。
その声に耳を傾け理解してくれる人や手を差し伸べてくれる人は必ずいます。一人で抱えて潰れてしまう前に周囲に助けを求めることから支援は始まります。たとえば、介護であればスタートしてから25年目になる介護保険制度があり多様なサービスが受けられます。プロの力を借りることで、選択肢と可能性が広がりますし、介護と仕事を両立させることも出来ます。
もし、身近な人に頼りにくいときには、同じような悩みを抱えている人たちに積極的に会いに行くこともひとつの手段です。当事者の存在や言葉は励みになりますし、私も母の介護をしていた時に、母と同じ病気を持つご家族の方の存在に救われた経験があります。
──大事だと頭では分かっていても、「助けて」と声を上げられない方は多いと感じます。そんな方に、町さんはどのようなアドバイスをしますか?
「自分のため」だけでなく、声を上げることが「誰かのためになる」と伝えたいですね。「助けて」と言葉にすることが、自分と同じ環境の人たちや次の世代のためになると考えてもらえたらと思います。
私自身も当時は周りの人に助けを求められませんでしたし、実は今も弱音を吐くのが苦手です。学生のころは精神的に支えてくれるパートナーはいましたが、介護保険制度はありませんでしたので第三者のサポートは受けられず家族が介護をやるのが当たり前でしたので「長女の私がやらなきゃ」「私がやればいいんだ」と日常でがんばっちゃっていましたね。
でも、苦しみや大変さを抱えた状況で“私だけ”が耐えればいいと思ってしまうと、個人の問題になってしまいます。介護や仕事など、あなたが今抱えている悩みは、実は個人の問題ではなく社会の問題かもしれない。一人ひとりが声を上げることは、その事実に社会が気付くきっかけもなります。
「困っています」と本人がアクションを起こすと、それを解決するためにどうしたらいいのかを周囲の人が考えるソーシャルアクションが生まれます。これまでも様々な生き辛さを抱えている人達を取材してきましたが、当事者の声が世の中を動かしていく大切な出発点になるんです。
——個人の問題として捉えるのではなく、同じ状況にいる「みんな」のためにも声を上げることが大切なのですね。
そうですね。そして、誰かに助けてもらったら「申し訳ない」ではなく、ぜひ「ありがとう」と伝えてみてください。困ったときはお互いさまです。介護と仕事の両立で悩んでいる方も少なくありませんが、介護は誰が直面してもおかしくない問題です。
つらい時は誰かを頼っても良いんです。助けてもらった恩返しは、社会のためになんて大袈裟に考える必要はなく、身近な友達や同僚などが困っていたら、その時は「今度は私が支える側になる」と考えてもらえたら。
これまでの経験を経て、絶望は永遠には続かないと断言できます。そして「受援力」の中ではこれまで出逢った絶望を“希望”に変えてきた人達の声も紹介しています。また介護で困ったときは「地域包括支援センター」が、ヤングケアラーなど子供や家庭に関する悩み事には「こども家庭センター」が、さらに会社に相談先がない場合には、「暮らしの保健室(https://kuraho.jp)」と呼ばれる無料で健康や介護や暮らしの中でのさまざまな困り事の相談ができる場所など、相談先を載せていますので参考にして下さい。
地域の中に頼りになる人や専門家はたくさんいるので、安心して声を上げてください。その声を私の取材や啓蒙活動を通してより多くの人に届けることが母から与えられた私の使命だと思っていますし、これからも皆さんが声を上げるきっかけを作っていきます。
(文・写真:朝海弘子 編集:いしかわゆき)