日英国際共同制作 KAAT × Vanishing Point『品川猿の告白』Confessions of a Shinagawa Monkey 連続インタビュー<第三弾>原案・構成・演出 マシュー・レントン
KAAT神奈川芸術劇場の芸術監督長塚圭史が就任時の2021年度から取り組んでいる「カイハツ」プロジェクト。劇場内に自由かつ実験的なクリエーションの場を設けることを目指したこのプロジェクトの一環として、プロジェクト開始直後から継続してきた日英国際共同制作による舞台『品川猿の告白(Confessions of a Shinagawa Monkey)』が2024年11月28日に幕を開ける。
村上春樹の短編2編「品川猿」「品川猿の告白」をもとに、スコットランド、グラスゴーを拠点に実験的な演劇手法で今大注目の劇団ヴァニシング・ポイント芸術監督マシュー・レントンの原案に、クリエイティブ・アソシエイトのサンディ・グライアソンが翻案で関わり、執筆された新作舞台の創作に日本人俳優4人と英国人俳優4人、そして英国人の人形遣い1人が集結した。
長塚が英国留学時に観劇してすっかり魅了されたと語る劇団ヴァニシング・ポイントと世界でも多くのファンを持つ村上小説、そして日本人俳優との掛け合わせでどんな舞台をみせてくれるのか。
インタビューの最後に「今日はこう言っているけれど開幕までに実験を繰り返して、また変わるかもしれないから、出来上がった舞台を楽しみにしていて」と楽しそうに笑うレントン。今作では演出も手掛け、言葉を超えたその先の表現を目指しこれまでにない新しい舞台をと意気込む彼に村上春樹作品の魅力、小説を舞台に立ち上げるには何が必要か、そして今回の日英国際共同制作の現場について聞いた。
―― 村上春樹の小説の愛読者であったということですが、どのようなところに惹かれたのでしょうか。
村上春樹独特の世界、奇妙で夢のような世界に連れて行ってくれるところに惹かれました。私ははっきりと他とは違う、独特なものを持った芸術、そしてあいまいさを有した多義的な芸術が好きなんです。なぜならその不明瞭なところに自分の思いを挟み込む自由があるからです。
作品が特定の人に向けられた道徳的な内容であれば、その方が理知的ではあると言えるかもしれません。例えば私が腐敗した政治状況、政治家に関する芝居を見に行ったとしたら、教訓として学べたなと思いながら劇場をあとにするでしょう。でも、政治について直接語らずとも、もっと多義的な芝居を見たら、観劇後もそこにある言葉は私の中に残り続け、多くを感じ、考えを巡らすことになるでしょう。
そんな多義的なものが村上の作品にはありますし、私は全ての芸術においてそのようなものが好きなのです。他にも、サミュエル・ベケットとか。ウジェーヌ・イヨネスコは若い日の私に多大な影響を与えました。
―― 村上作品に関して、日本の小説ということでオリエンタルなものを感じましたか?
いいえ。それよりも面白かったのは翻訳についてです。と言うのも、私が読んだ村上春樹の小説の英訳はアメリカ英語で英国英語ではありませんでした。ですので、言い回しや単語の違いから英国人にはちょっとした違和感のある英語だったのです。日本の物語でありながらそこにはアメリカ色もあり、不思議な物語がますます不思議なものに感じられました。他の日本人作家、例えば三島由紀夫や安部公房の翻訳、それらは英国人による翻訳本だったのでそのような感触はありませんでした。そんな面白さもあるので、私は英国内に限った芸術よりも世界の文学、世界の芸術に興味があるのです。
それには私自身がアウトサイダーだということも関係していると思います。私はイギリス生まれでありながらこの30年間はスコットランドに住み、そこで仕事をしています。今ではスコットランド人であるとさえ感じています。そのアウトサイダーであるという感覚が、私が村上の作品に惹かれる一つの原因であるかもしれません。その意味では多くの人がアウトサイダーであると言う私と同じ理由で彼の小説にのめり込むのだと思います。
―― これまで多くの、主にヨーロッパの劇団やフェスティバルとコラボレーションをしてきた劇団ヴァニシング・ポイント(以下VP)ですが、今回の日本、KAATからの申し出をどう受け止めましたか。
今回のKAATとのプロジェクトは2019年にKAATの事業部長が我々の「interiors」上海公演を観に来てくれて話したのがきっかけとなりました。その時にはその「interiors」を日本で上演したいという話だったのですが、私から「それも面白いけれど、何か新しいものを創らないか」と提案したのです。なぜならいつでも最もエキサイティングなことは冒険をすることだからです。私にとっての芸術的な冒険というのは何処かに旅をして、いつもと違う人と違った文化や言語で冒険をするということです。そして、その違った人や環境でのコラボレーションにより新しいものを創り出すということです。
そこには文化や言語の違いによる壁が確実にあります。それらの壁を芸術として乗り越えるには、従来の言語というものに固執するのではない全く新しいやり方が必要になってくるわけです。今、リハーサルで俳優と一緒に行っていることはどんな演劇的な言語を見つけられるだろうという挑戦です。一緒にシーンを成り立たせる言葉を見つけようということです。それが私にとって、とても面白い冒険なのです。
そういったコラボレーションがあらゆるレベル、例えば芸術面で、そして制作サイドでも起こっていることが素晴らしいと思います。日英双方が納得するマテリアル、テーマ、演劇的な仕掛けが検討されています。KAATで上演されるので、KAATのさまざまな部門、宣伝、チラシのデザインに至るまで、全てが両国の協働であるというのが本当にエキサイティングです。
―― 創作の進め方に関して、創作は何らかのあるアイディアから始まる。そのきっかけは例えば写真や絵であったり、夢であったり、文章であったり、とVPのHPで語っていますが、今回の「品川猿の告白」のきっかけとなったアイディアとはどんなものですか?
上海でKAATの担当者と会ったすぐ後に2020年発表の「品川猿の告白」を読みました。それ以前に村上の猿の小説をもう一つ読んだはず、と思ったのですが当時は定かではありませんでした。なんと言っても、ステージで人間と猿が会話をする劇というのが面白いと思ったのが始まりです。
「品川猿の告白」を読んで思ったのが罪、罰、そして償いについての話だということです。これらの点において、私はこの小説にとても興味を持ちました。罪を犯すこと、罪を赦すという行為、赦すことはできるのかどうか、について思いを巡らせました。私のとても好きな小説にドストエフスキーの「罪と罰」があるのですが、この猿に関する小説はもっと小規模な「罪と罰」みたいなもので、もっと微妙なレベルの軽い罪についての話です。とは言え、猿が名前を盗んだことでの被害者は確実にいるわけで、それを罪ではないとは言えませんし、猿もそのことを犯罪行為だとわかっているのです。一方で、猿がそうなってしまった原因を作ったのが人間だということがとても面白い。人間が猿に言葉を教え、文化を理解するように教えこんだからです。とは言え、猿が人間になれるということは決してありません。そこで、ある意味、猿がそのことによる孤独を癒すため、犯罪に手を染めるのです。猿にも人間にもなれない彼は頑なに自身の平穏を模索します。
「品川猿の告白」を読んだ後に、東京奇譚集の中の「品川猿」を見つけ、やった、と興奮しました。そこでようやくこの二つの話をどのように繋げようかと考え始め、両方ともに犯罪とその犠牲者がいるという共通点を見つけてワクワクしました。小説から舞台を立ち上げるには、その小説という核の回りに舞台固有の創造物を作り上げる必要があります。つまり私の手中には村上の世界とVPの世界の二つがあって、村上の小説をどのように劇世界に捩じ込むのかという作業をすることになったのです。つまり、小説の捕われ人となることでむしろ自由を、新しい発想を得るチャンスを得たのです。
―― 確かに、今回の芝居のテキストは村上の小説からインスパイアされているのは確かですが、あなたとサンディのオリジナルストーリーの色が濃いですよね。
そうですね。ある何かの形式から別の形式に翻訳、解読する場合にはその変換が必須となります。
あくまでの私の解読になりますが、小説「品川猿」の最後に“母親は娘を愛していなかった”という種明かしがされますが、それはとてもインパクトの強い驚きのエンディングです。それが小説であればそれまでのギャップを頭の中で埋めることができるでしょう。ですが、それをそのまま芝居でやってしまうとなんとも突然であっけない結末になってしまうのです。
そこで、今回は母親が認知症だという設定を加えています。さらに小説では登場しない母親を舞台に登場させることにしました。それらは重要なポイントとなってきます。例えば、認知症の母を目の前にしている娘、みずきが名前を思い出せないということに大きな恐怖を感じる理由がそこにあります。そして、最後のシーンで母親から遠く離れ暮らしている姉ではなく、すぐそばで母親の介護をしているみずきの方が愛されていなかったということへの伏線をはることで、エンディングがもっと現実的な身近にある出来事として伝わるのです。
さらに言えば、劇ではその事実を知った後も母親の介護を献身的に続けるみずきの姿が提示されます。愛を知ることなく生きてきたみずきが最後に愛してくれなかった母親に愛を与える。私にとって、それこそが“愛”なのです。
様々な村上春樹小説のテーマが私には楽譜となって見えているのです。罪と罰に関しての部分はC調、アイデンティティに関する部分はA調、父権性や男性優位性に関する部分はEマイナー調といった具合に。そんな様々な側面のどれかが観客にさされば良いなと思っています。単に“この芝居は父権制に関して批判した芝居だな”、とかまとめてほしくはありません。それぞれの音符は劇の構成部分にすぎませんので、劇場で観劇して直に感じたことを持ち帰ってほしいのです。そして観劇後に、これはC調(罪と罰)だ、いやEマイナー調(父権性)だよ、とか愛に関する話だよと話し合ってもらいたいのです。
もちろん政治腐敗や贈収賄に関することを描いた素晴らしい芝居はたくさんありますが、私はそのようなことを描くことに興味はありません。それよりも、“私は本当に母を愛していたのだろうか、子供たちのことは?”といった人の感情面を扱った話がやりたいのです。
おそらく、そのことは最初の質問の「村上小説に惹かれた点」に繋がるのだと思います。つまり、村上の小説は世界との対話を可能にし、さらにテーマが開かれていて、同時に自らに直結しているからだと思います。
―― 今回は人形遣いがキャスティングされています。どのような形で人形は使われるのでしょうか。
小説を読んで、すぐに長年の共同製作者でVPのクリエイティブ・アソシエイトであるサンディ・グライアソンに連絡をとりました。すると彼はすぐに「僕が猿を演じるよ」と言ったのです。その時点では、成り行きをみようということになったのですが、2022年にKAATでワークショップを行った際にサンディが人形遣いが操る尻尾をつけて演じるという案を出してきたのです。
まるまる猿の人形でとなると、複数人の人形遣いが必要になりますし、カジュアルなトーンで自然に話す猿を人形でやるのは難しいと思いました。そこで人形か人間かの選択肢に対し、尻尾をつけた人間という結論に至りました。とは言え、猿の登場シーンの一発目から観客にはしっかりとこれは猿なんだ、と認識してもらうようにするつもりです。
―― 日英の俳優合同の舞台ということで問題となるのが言語ですが。
言語がこの舞台のキーとなることは確実です。最初、長塚さんに双方から4人ずつ俳優をキャスティングして、無言の舞台をやろうと提案したのです。
ですが、ストーリーのある芝居をやるということになり、そこで言語の問題が出てきました。4人の日本人俳優は日本語を、4人の英国人俳優は英語を話し、字幕をつけるということになりました。日本の話ではありますが、どこか他の都市としても成立しますし、言葉だけでなく演技による対話がありますので、2カ国語上演は問題にならないと確信しています。彼らのやりとりを観ているだけで、字幕を追わなくても理解できるのではないかと思っています。1回ぐらい字幕なしの上演を試しても良いかもしれませんね(笑)。
―― 様々な難しさがあるにもかかわらず国際共同制作を続けるのはなぜですか。
私がそうすることを楽しいと思っているからです。毎回、どうしたら良いのかわからないから、と言い換えることもできます。私の仕事は3次元でストーリーを語るということで、共同制作をする中で多くの可能なやり方を発見することができます。
通常の演劇制作現場では稽古初日に戯曲を手渡され、本読み、立ち稽古と進み4週間後に初日をむかえるという流れになるわけですが、私にとってはそれがとても退屈なのです。それをするならば、他の仕事を見つけた方がマシなくらいです。
それに対し、私たちは日々3次元の言葉を組み立てていっています。戯曲、照明、人形、音楽、それらが全て合わさって3次元の言葉が出来上がるのです。数日前に考え出され、そうしようと決まったやり方がくつがえされることもしばしばですが、それでも毎日ベストな可能性を模索し、ある時“これだ”というものに行き着くのです。通常の作り方ではそのようなことは起こりませんよね。
日本人の俳優たちは皆、とても明瞭でいて身体的にも正確です。
面白いことにワークショップや稽古がはじまった当初、彼らはとてもおとなしくて礼儀正しかったんです。ですが、今では「次、これを試すのはどうだろう」「さあ、やってみよう」と、自由に積極的に発言していますよ。即興の協働の楽しさを実感しているようです。今回のキャスティングに関しては長塚さんが素晴らしいアドヴァイスをしてくれてとても助かりました。彼のことは本当に信頼しています。
今回のクリエーションはとてもオープンで、近年の創作の中でも最も開放的なものになっていると感じています。多くの場合、デザイン面などでの制約が多々あるのですが、そこに関してもオープンで空間を思うように使えています。
―― 今の英国の演劇界は商業的な影響が大きいと思われますが、その中でVPのように独自路線を築いていくのにはどのようなことが大切なのでしょう。
私自身、商業演劇には興味がありませんし、芸術面で誰かに指図されるのもご免です。
しかしながら、残念なことに資本主義の悪魔が商業的成功を求め、一方で政府からの助成金は年々減らされています。そうなると近い将来、商業演劇だけが生き残ることになり、中規模の新しい演劇というものが絶滅してしまうかもしれません。商業演劇か例えば2人だけのとても小規模なものという二択になってしまうのです。それは避けたいです。助成金で運営していたカンパニーが商業演劇世界の仲間入りをすることを前進と捉える人もいるようですが、その他の層もあることをよしとして、政府は文化助成を続けなければならないと思います。
チケット代の高騰も問題になっていますがVPでは「品川猿の告白」グラスゴー公演の初日は全てのチケットを£10で販売する予定です。誰でもが舞台を楽しむことができるということを示すためです。
取材・構成・文/田中伸子
写真提供/KAAT神奈川芸術劇場