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パリの社交界を魅了した「フランスの高級娼婦たち」 〜貴族を虜にしたクルチザンヌとは?

草の実堂

画像 :クレオ・ド・メロード public domain

19世紀後期のフランス、パリ。そこは光と影が交差する都市でもあった。

芸術家たちはカフェで議論を交わし、上流階級の紳士たちはサロンに集い、そしてその舞台裏には「クルチザンヌ」と呼ばれる謎めいた女性たちが、常に彼らの傍らに存在していた。

彼女たちは単なる高級娼婦ではなく、文学や芸術、ファッションを先導し、ときに国家の命運すらも左右した存在でもあった。

美と知性、そして己の魅力を武器に、フランスの上流階級の世界を華麗に渡り歩いた「クルチザンヌ」と呼ばれた女たちは、どのような存在だったのだろうか。

クルチザンヌとは?

画像 : デュ・バリー夫人 public domain

「クルチザンヌ」とは、中世以降のフランス語圏で使われてきた、いわゆる高級娼婦を意味する表現である。

もともとは「宮廷に仕える女性」を指していたが、やがて王侯貴族や資産家を相手とする愛人の呼称として定着していった。

ただし、彼女たちは単なる娼婦ではなかった。
容姿の美しさに加えて、高い教養、洗練された社交術、上品な立ち居振る舞いなどを備え、社交界でも一目置かれる存在だった。

その多くは庶民や舞台女優の中から、美貌と知性を備えた若い女性が選ばれ、貴族階級の男性に見初められることで道が開けた。
支援を受けながら教育を受け、一流のレディへと仕立て上げられた彼女たちは、しばしば本物の貴婦人と見まがうほどの気品を身につけていたという。

たとえば、18世紀のルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人や、後に処刑されたデュ・バリー夫人なども、広義のクルチザンヌに含まれるとされる。

画像 : ポンパドゥール公爵夫人 public domain

日本における江戸時代の「花魁」と類似したイメージもあるが、花魁は幕府公認の遊郭に属する公娼であるのに対し、クルチザンヌは特定の男性と個人的な関係を結んで独立して活動していた。

つまり彼女たちは、公娼でもなければ不特定多数を相手にする私娼でもなかった。
いわば「上流階級に寄り添う文化人」として社交界と私生活の狭間を自由に行き来した、特異な存在だったのである。

そのため、クルチザンヌになるためにはまず、上流階級の男性に見初められ、パトロンとしての後援を受けながら、教養や作法を身につけて自らを磨き続ける必要があった。

すなわち、圧倒的な美貌と強運、そして自己演出力が求められたのである。

クルチザンヌの絶頂期

フランス革命とナポレオン戦争という激動の時代を経たフランスは、その後も王政復古と共和制の間を揺れ動き続けた。

ナポレオン3世による第二帝政期には、オスマン男爵の指揮のもとパリの大規模な都市改造が行われ、石畳とガス灯の街並みが整えられ、近代都市としての基盤が築かれた。

しかし1870年、普仏戦争での敗北によって帝政は崩壊し、第三共和政が成立する。

画像 : 1900年のパリ博覧会 public domain

政治は依然として不安定だったが、19世紀末には産業革命が進展し、経済・文化の両面で繁栄を迎える。

これが「ベル・エポック(美しき時代)」と呼ばれる、華やかな時代の幕開けである。

まさにこの時期こそ、クルチザンヌ文化が最も輝きを放った時代だった。

彼女たちは上流貴族、政治家、芸術家などの特権階級を顧客とし、「サロン」と呼ばれる社交の場においても大きな影響力を有していた。
美貌だけでなく、機知、教養、音楽、文学、哲学への理解など、多様な魅力を持ち合わせ、男性たちにとっては単なる愛人ではなく、知的刺激の源であった。

彼女たちに贈与された宝石や豪邸は枚挙にいとまがなく、一夜にして巨額の金銭が動いた。
社交誌ではその動向が報じられ、サロンでは文豪や画家らと対等に言葉を交わし、時に芸術や政治の相談役としての顔も見せた。

とりわけ、芸術家たちはクルチザンヌたちをしばしばモデルとし、インスピレーションの源とした。

エドゥアール・マネの《オランピア》は、その象徴ともいえる。

画像 : マネの《オランピア》1863 public domain

鑑賞者の視線を正面から受け止める裸婦の姿には、「自らの身体を売って生きる女性の誇りと意思」が宿ると評され、当時の芸術観を大きく揺さぶった。

パリを彩ったクルチザンヌの面々

ここでは、フランス第二帝政期からベル・エポック期にかけて活躍した、代表的なクルチザンヌたちを紹介する。

画像 : コーラ・パール public domain

コーラ・パール(Cora Pearl)

本名はエマ・エリザベス・クラッチ。

イギリス出身の舞台女優であり、19世紀フランス第二帝政期を象徴するクルチザンヌの一人である。

ナポレオン3世の異父弟モルニー公や、従兄弟にあたるナポレオン・ジェローム公など、フランス宮廷の重鎮たちと親密な関係を築き、絢爛たる生活を送った。

エミール・ゾラの小説『ナナ』のモデルのひとりとされることでも知られている。

若くして性的被害を経験し、それを機に男性への不信感と、自らの容姿が持つ力に気づいたという。
のちにパリへ渡ると、「コーラ・パール」と名を変え、女優として舞台に立ったが、演技力よりも富裕層を惹きつける魅力で注目を集めた。

彼女の社交界での評価は瞬く間に高まり、名実ともにトップクラスのクルチザンヌとなる。

一晩で5000フラン(現在の価値にしておよそ2000万円)を稼ぎ出すこともあったとされ、その浪費ぶりも伝説的だった。
後援者に対しては愛想よりも侮蔑的な態度を見せることが多く、そうした傲岸ささえも人々を惹きつけた。

晩年には若い恋人アレクサンドル・デュヴァルとの関係が破綻し、彼が自邸前で自殺未遂を図るというスキャンダルに発展。
事件の余波からロンドンへと逃れるも、不評のうちに帰国。すでに第二帝政は崩壊し、かつての栄光は過去のものとなっていた。

1886年、パリで大腸がんのため死去。最期は墓石すら建てられないまま共同墓地に埋葬された。

画像 :エミリーヌ・ダランソン public domain

エミリーヌ・ダランソン(Émilienne d’Alençon)

本名はエミリエンヌ・アンドレ。

1869年、パリの貧しい家庭に生まれ、10代で舞台デビューを果たす。
レビュー劇場で頭角を現し、やがて「ベル・エポックの三美神」のひとりと称されるようになった。

彼女はベルギー国王レオポルド2世の寵愛を受けたほか、華やかな社交界においても注目の存在となり、パリのファッションアイコンとしても名を馳せた。

資産家エティエンヌ・バルサンの愛人であり、当時無名だったココ・シャネルのデザインを支援・紹介した人物のひとりともされる。

1908年頃には、女性詩人ルネ・ヴィヴィアンとの恋愛関係も伝えられており、その自由奔放な生き方は時代の枠にとらわれないものだった。

後に騎手パーシー・ウッドランドと結婚するが、1914年に死別。

晩年は静かで安定した生活を送り、1946年、ニースにて穏やかにこの世を去った。

画像 :クレオ・ド・メロード public domain

クレオ・ド・メロード(Cléo de Mérode)

1875年、パリに生まれたクレオ・ド・メロードは、その類まれなる美貌によって注目を集めた。

7歳でパリ・オペラ座バレエ学校に入学し、幼いころから舞台に立ったが、技術的には特に卓越していたわけではない。
それでも彼女の存在は話題となり、多くの芸術家がその姿を絵や写真に残している。1896年には「フランス一の美女」に選ばれ、一躍世間の脚光を浴びた。

クレオは「ド・メロード」という貴族姓を名乗っていたが、実際に貴族の血を引いていたかどうかについては、現在に至るまで議論が続いている。
彼女の自伝によれば、母親はオーストリア宮廷に仕えていた時期があり、ある宮廷貴族との間に生まれたとされるが、その証拠となる明確な系譜記録は残されていない。

やがて、ベルギー王レオポルド2世との関係が取り沙汰されたが、クレオ自身は生涯にわたってこれを否定し続けた。
彼女は「クルチザンヌ」扱いされることを極端に嫌い、自身の名誉に強くこだわっていた。

クレオは一貫して自身の出自と名誉に対して誇りを持ち、1949年、哲学者のボーヴォワールが自身の著書『第二の性』において「貴族を騙った高級娼婦」と記した際には、名誉毀損で提訴し、勝訴している。

晩年までダンスと音楽を愛し続けたクレオは、91歳で亡くなるまでパリに静かに暮らし、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。

彼女はベル・エポック期を象徴する美のアイコンとして、その名を今に残している。

クルチザンヌ文化の終焉

ベル・エポックの終焉とともに、クルチザンヌという存在もまた歴史の舞台から姿を消すことになる。

その背景には、単なる流行の移り変わりではなく、社会構造そのものの大きな変化があった。

とりわけ決定的だったのは、1914年に始まった第一次世界大戦の勃発である。

画像 : 第一次世界大戦 public domain

戦争は社交界の享楽や華美な生活を一掃し、人々に「節制」と「犠牲」の精神を求めた。これにより、クルチザンヌたちの主要な後ろ盾であった上流階級は衰退し、同時に彼女たちの存在を支えていた「パトロネージュ(庇護)構造」も崩れていった。

加えて、女性の社会的地位の向上も無視できない。
20世紀に入り、女性たちは教育を受け、職業を持ち、経済的に自立する道を切り拓いていった。もはや「男性に庇護されることで社会的地位を得る」という旧来の生き方は、時代遅れとなっていったのである。

クルチザンヌたちは道徳的な模範とは言いがたい存在だったかもしれない。だが、彼女たちは美しさと知性、そして欲望を武器に、男たちと対等に渡り合い、時には文化や政治の深層にまで影響を与えた存在でもあった。

クルチザンヌとは、単なる愛人でも、娼婦でもない。ベル・エポックという華麗な時代を彩り、そして象徴した、一種の“文化人”であったことに疑いの余地はないだろう。

※参考文献
村田京子『椿姫におけるクルチザンヌ像――マルグリット・ゴーチエとマノン・レスコー』仏文研究(京都大学フランス語学フランス文学研究会)
山田勝『ドゥミモンデーヌ パリ・裏社交界の女たち』早川書房〈ハヤカワ文庫〉
鹿島茂『怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史』講談社〈講談社学術文庫〉
フロラン・フェルス(著)、藤田尊潮(訳)『図説ベル・エポック:1900年のパリ』八坂書房
文 / figaro 校正 / 草の実堂編集部

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