#5 カフカの人生に影を落としたもの──川島隆さんと読む、カフカ『変身』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
京都大学教授・川島隆さんによるカフカ『変身』読み解き#5
ある朝目を覚ますと、自分は巨大な「虫」になっていた――。
衝撃的な冒頭に始まるフランツ・カフカの小説『変身』は、彼の死後100年以上経つ現在まで、多くの人に読み継がれてきました。
『NHK「100分de名著」ブックス カフカ 変身』では、川島隆さんが、「自分を知るための鏡」や、個の弱さを知ることでつながりの大切さを考える「介護小説」として『変身』を読み直すことで、その魅力に迫ります。
2025年7月から全国の書店とNHK出版ECサイトで開催中の「100分de名著」フェアを記念して、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします。(第5回/全6回)
第1章──しがらみから逃れたい より
父親=巨大な存在
カフカが歩んできた人生を手短に振り返ってきましたが、「孤独」や「絶望」のイメージが広まっているわりに、そこそこ恵まれた人生ではないか、と思われるかもしれません。カフカの人生に影を落とし、作品に影響を与えたものとは、いったい何だったのでしょうか。
彼が抱えていた苦悩の種として考えられるのは、一つには父親との確執です。『変身』の第一章の終わりに、虫になった主人公が父親にステッキで追い払われてけがをするシーンがありますが、カフカ自身も自分の父親とはソリが合わなかったようです。
先ほども少し触れましたが、カフカの父親は貧しい村からプラハに出て成功を収めた、実利的な商売人気質の人物でした。やや威圧的なところがあり、カフカの文学好きと作家志望にケチをつけるだけでなく、ことあるごとに貧しい環境で育った自分と比べて、息子がいかに恵まれているかを恩着せがましく語ったといいます。カフカは一時期、上の妹エリの夫とアスベスト工場を共同経営していましたが、資金は父親が出しました。しかし工場の経営はうまくいかず、父子のいさかいの種になりました。役所での仕事のあとに工場の仕事もやらなければならなくなったことは、カフカに強いストレスを与えました。
さらに、がっしりした頑強な肉体を持っていた父親に対して、カフカはやせぎすの長身で虚弱体質。そんな自分とは性格も体格もまったく逆のタイプの父親に対し、カフカは嫌悪感とコンプレックスが入り交じった感情を抱いていたようです。
カフカの父親への複雑な思いや感情は、三十六歳のときに父に宛てて書いた『父への手紙』(結局は父親には手渡されず、カフカの死後に出版されたもの)に詳しく書かれています。冒頭部分を少し引用してみましょう。
「親愛なる父さん──なぜぼくが『父さんが怖い』なんてことを言うのか、と最近お尋ねでしたね。いつものことですが、うまく答えられませんでした。父さんのことが怖いから、というのもありますし、怖い理由を説明するにしても細かい点がたくさんありすぎるので、しゃべっているうちに支離滅裂になるに決まっているから、というのもあります。こうやって手紙で書くにしても、やはり不完全な答えしか出てこないでしょう──」
この部分だけ読んでも、父親に対するカフカの感情がいかに屈折していたのかがよく分かります。この手紙のせいで、カフカの父親といえば、息子の文学活動にまったく無理解な暴君だった、というイメージが広まりました。しかも、『変身』とそれに先立つ『判決』という二つの作品で、父親が息子に対して突発的に暴力的になり、息子を死に至らしめるという展開が描かれているので、なおさらです。
しかし私は、この手紙を根拠に父親のイメージを決めつけてしまうことには疑問を感じます(そもそも『父への手紙』は、カフカが当時、結婚を考えていた女性との交際を父親に反対されたのがきっかけで書かれたもので、そういう文脈から切り離して字面だけ受け取ることはできません)。カフカの作品や残された手記をじっくり読み込んでいくと、二人の間に確執があったのは確かだとしても、父親はカフカが書いているほど息子に対して威圧的かつ無理解であったとは、断定できないように思うのです。
『父への手紙』の中には、あるとき夜中に目を覚ました幼いカフカが「喉が渇いたから水を飲みたい」と言ってだだをこねたところ、父親は腹を立てて、カフカをベランダに放り出した、というエピソードが登場します。このときの出来事がトラウマになったと彼は恨みがましく綴っていますが、逆にいえば、カフカはそれ以上の体罰を父親に受けたことがないのです。父親に殴られたことがないのは『父への手紙』でも明言されていますが、学校の教室に鞭が常備されている時代ですから、これは稀有なことです。かなりリベラルな父親だったといえます。
さらにカフカは、父親がいかに自分の執筆活動に理解を示さないかを難じています。彼は何とか父親の理解を得たいと願い、短編集『田舎医者』が出たときには、「父に捧げる」と献辞を入れています。ところが、息子からじきじきに本を贈られた父の反応は薄く、「そこのナイトテーブルの上に置いといてくれ」というだけだった──と。
けれども、このエピソードにせよ、父の無理解の証拠になるでしょうか。ナイトテーブルの上に置くのは、あとですぐに手に取れるように、ですよね。父親がその場で本を開かないのは、息子の目の前で読むのが照れくさかったからではないでしょうか。当時の文学者は社会的にもステータスが高かったので、会社勤めのかたわら文学の世界でそれなりに評価されている息子のことを、父は内心では誇りに思っていたとも考えられます。実際、生前の父子を知る人で、この父親は息子の文学志向に「理解を示していた」と証言している人もいるのです。
改めて見てみれば、『変身』に描かれている父親も、『判決』に登場する父親も、基本的にはうだつのあがらない、むしろ気の毒な男として描かれています。現実の父親も、必ずしも巨大な父権を振りかざすような「強い男」ではなかったのではないでしょうか。
もしかしたら、『田舎医者』を受け取った父は息子が立ち去ったあと、いそいそと本を開き、最初のページに印刷された「父に捧げる」という言葉を目を細めて眺めていたかもしれませんよ。
著者
川島隆(かわしま・たかし)
1976年京都府長岡京市生まれ。京都大学教授。京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。博士(文学)。専門はドイツ文学、ジェンダー論、メディア論。著書に『カフカの〈中国〉と同時代言説』(彩流社)、共著に『図説 アルプスの少女ハイジ』(河出書房新社)など。訳書にカフカ『変身』(角川文庫)、編集協力に多和田葉子編訳『ポケットマスターピース01 カフカ』(集英社文庫)がある。
※刊行時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス カフカ 変身 「弱さ」という巨大な力』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。
※本書は、「NHK100分de名著」において、2012年5月に放送された「カフカ 変身」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「ポスト・コロナの『変身』再読」、読書案内などを収載したものです。