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『前田利家に森蘭丸…』織田信長の近習だった武将たち「大名になった者~討死にした者」

草の実堂

画像:『和漢百物語』の「小田春長」(信長)と小姓 public domain

織田信長は、苛烈で厳格な性格と実力主義の現実主義者として広く知られている。

信長は優れた能力を持つ者を重用する一方で、厳しい処罰を下すこともあった。
身近で働いていた近習たちは、そのような厳しい環境で能力を発揮し期待に応えることで、後に大名になった者もいる。

今回は、信長の近習たちについて解説していきたい。

近習とは?信長の一番近くで働いたエリートたち

画像:『豊臣勲功記』本能寺で討ち死にする森蘭丸 public domain

近習(きんじゅう)とは、主君の側近として仕え、身辺の世話や身辺警護などの役割を担った者たちを指す。

その中でも特に重要な役割を担ったのが、小姓(こしょう)や馬廻(うままわり)であった。

小姓は主君の身の回りの世話をするだけでなく、戦場では主君の身辺警護を担い、12〜15歳の若者たちが務めた。小姓は一部では主君に対する人質的な側面も持っていた。

馬廻は小姓より身分が上の役職で、主君を護衛する騎馬隊として戦場での護衛を主な任務とした。
特に優れた者は、信長が自ら選び抜いた精鋭部隊である母衣衆(ほろしゅう)として抜擢された。『信長記』によれば黒母衣衆が10名、赤母衣衆が9名ずつの精鋭から成り、親衛隊として特別な存在であった。

信長は馬廻だけを招いた酒宴を行ったり、大名からの贈り物を大盤振る舞いするなどして優遇していた。

このほか、吏僚(りりょう)と呼ばれる文官や、右筆(ゆうひつ)と呼ばれる文書作成を行う者もいた。

桶狭間の戦いで活躍した馬廻「服部小平太」と「毛利新介」

画像:尾州桶狭間合戦 public domain

信長が今川義元を討った「桶狭間の戦い」において目覚ましい活躍を見せたのが、信長の側近たち、特に馬廻の者たちであった。

今川義元の本陣に一番槍として攻め込んだのは、信長の馬廻である服部小平太(一忠)である。
小平太は、今川軍の反撃を受けて膝を斬られるなどの重症を負ったが、生き残っている。

その服部小平太を助太刀し、義元を討ち取ったのが馬廻の毛利新介(良勝)である。
彼はこの後、黒母衣衆にも抜擢され、吏僚としても活躍し、本能寺の変で信忠と共に討死した。

重要職へ抜擢された「村井貞勝」と「松井友閑」

画像:村井貞勝 public domain

村井貞勝(むらい さだかつ)は、吏僚として活躍した。

信長の弟・信行が反旗を翻した時には和平交渉を行い、その後も信長の元で重要な政務を担った。

1573年には京都所司代に任命され、京都の治安維持をはじめ、朝廷や貴族、寺社との交渉など、京都における一切の業務を取り仕切った。

松井友閑(まつい ゆうかん)は、信長が京都に進出した後、右筆として文書作成などで活躍した。
京都や堺の有力者たちと密接な関係を築き、その功績を認められてか1575年には堺の代官となる。

さらに茶道にも造詣が深く、遠方の大名との交渉など外交能力も高かったことから信長に重用された。

重臣として活躍した「丹羽長秀」

画像:丹羽長秀 public domain

丹羽長秀(にわ ながひで)も、元々は小姓であった。

斎藤龍興との戦いで頭角を表し、朝倉義景の討伐後には若狭一国を任されるほどの出世を遂げた。
織田家臣の中で初めての国持ち大名であり、長秀がいかに信長からの信頼を得ていたかが窺える。

後に柴田勝家と並んで「織田家の双璧」と呼ばれるまでになった。

信長の弟を殺害、深く信頼されていた「池田恒興」

画像 : 池田恒興 public domain

池田恒興(いけだ つねおき)は、信長の乳兄弟であった。

母は信長の父・信秀の側室で、恒興は幼少の頃から信長の小姓として仕えた。

1557年、謀反を企てた信長の弟・信行を殺害。
その後も主だった戦いに従軍して戦功を挙げた。

1570年の姉川の戦いの後には城を与えられている。後に信長の息子・信忠にも仕えた。

加賀百万石の礎を築いた「前田利家」

画像:前田利家像 イメージ

大河ドラマの主人公にもなった前田利家も、元々は信長の小姓である。

容姿が美しく、小姓時代には信長から寵愛を受けていた。

赤母衣衆にも抜擢されたが、傾奇者で問題児でもあり、信長の寵愛を受けていた茶坊主を斬ってしまったことで出奔している。
その後、無断で桶狭間の戦いに参戦して三つの首を挙げる功を立てたが、信長には許されず、柴田勝家に面倒を見てもらいながら美濃攻めで活躍し、なんとか信長に許された。

その後は、柴田勝家の元で与力として戦功を挙げ、信長の死後は豊臣政権で活躍した。

奉行職を歴任した「堀秀政」

画像 : 堀秀政 public domain

堀秀政(ほり ひでまさ)は、13歳で信長の小姓となり、その後、馬廻となった。

秀政は、特に奉行としての活躍が目立つ。
足利義昭の仮住まいの建設工事を監督する普請奉行を務めたのを皮切りに、各種の奉行職を務め、その管理能力が高く評価された。
戦においても、同僚の小姓や馬廻たちと共に活躍し、多くの功績を残している。

信長の死後は秀吉に仕え、山﨑の戦いから九州征伐、小田原征伐まで歴戦を戦い抜いた。

信長のお気に入りだった「万見仙千代」

画像:有岡城石碑 public domain

万見仙千代(重元)は、信長から特に寵愛を受けた小姓である。

仙千代は、大名や家臣たちとの取次や奉行としても政務を行った。
信忠にも気に入られていたのか、仙千代の自邸で茶会が行われることもあった。

ほとんど戦闘の記録が残っていない仙千代だが、有岡城の戦いで鉄砲隊を率い、討ち死にしている。

最後まで信長を守った「森蘭丸」

画像 : 「太平記英勇伝「六十六:森蘭丸長康」 publicdomain

最も有名な小姓といえば森蘭丸であろう。

公家の日記にも記されるほど有名な人物であり、信長が自慢するほど有能な小姓だった。

蘭丸に関する逸話は多く残されている。

信長が切った爪が9つしか見つからなかった際、蘭丸は残りの1つを部屋中探し回った。当時、髪の毛や爪などは「呪術の道具」として使われることもあり、蘭丸はそこまで気を回していたという。

またある日、信長が蘭丸に「隣の部屋の障子を閉めてこい」と命じた。蘭丸が確認すると障子は既に閉まっていたが、わざと音を立てて、もう一度開け閉めを行った。戻って信長に障子が閉まっていたことを報告すると、信長は「なぜ音がしたのか?」と問いかけた。

すると蘭丸は「殿が障子が開いていると言ったにもかかわらず閉まっていたとなれば、恥をかかせることになるため、わざと音を立てて周囲に聞かせました」と答えたという。

つまり、皆の面前で信長に恥をかかせないように配慮したのだ。

本能寺の変では明智光秀の謀反を知らせ、そのまま信長の近くで戦い、18歳で討死した。

おわりに

ここに挙げた近習たち以外にも、多くの小姓や馬廻が信長に仕えていた。

信長の実力主義のもとで認められ、重責を担った者たちは、信長の死後も名を残す活躍を続けた。

本能寺の変では多くの近習が命を落としたが、それでも彼らの忠誠心と功績は後世に語り継がれている。

参考:『信長公記』『歴史道』他
文 / 草の実堂編集部

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