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#4 聖書の「矛盾」についてはどう考えればいいのか──加藤隆さんによる『旧約聖書』再入門【NHK別冊100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

#4 聖書の「矛盾」についてはどう考えればいいのか──加藤隆さんによる『旧約聖書』再入門【NHK別冊100分de名著】

加藤隆さんによる「旧約聖書」と「一神教」への再入門 #4

いまなお終わることのない宗教対立。そのルーツとは何なのでしょうか?

ユダヤ教で成立し、キリスト教、イスラムへと引き継がれる「一神教」的態度とは? 「何もしてくれない」神が、なぜ「神」であり続けるのでしょうか? 『NHK別冊100分de名著 集中講義 旧約聖書 「一神教」の根源を見る』では、千葉大学文学部教授の加藤隆さんと、その謎に迫ります。

「旧約聖書」「一神教」への再入門となる本書より、そのイントロダクションと第1講「こうして神が誕生した」全文を特別公開します。(第4回/全6回)

二つの「創造物語」

 旧約聖書の歴史物語の最初のところの内容を考察します。「旧約聖書」編纂の最初に成立した「五書」と呼ばれる五つの文書の物語です。

 この部分の物語は、大きく二つに分けることができます。創世記の前半(全五十章のうちの最初の十一章)は、世界と全人類に関わる物語であるかのような雰囲気になっています。創世記の残り部分からは、ユダヤ民族の起源についての物語です。

 冒頭に、世界の創造の物語が、二つ並べられています。最初の「創造物語」では、神が六日間の作業で、世界を創造します。神が「光あれ」などと言葉を述べるとその通りになる、という「言葉の力」を強調するモチーフが繰り返されるのが特徴です。いろいろなものが創造され、最後の六日目に人間がつくられます。七日目に神は休みます。

 これに続けて、第二の「創造物語」が記されています(「エデンの園」の物語の冒頭部分)。第二の「創造物語」の記述は、最初の「創造物語」よりもかなり短くなっています。神が天地をつくったというところまでは、二つの物語は一致しているようです。しかし、二つの物語には、重大な相違点がいくつも認められます。最初の「創造物語」では、さまざまなものがつくられ、最後に人がつくられたことになっていて、植物に注目するならば、植物が先、人が後、になっています。第二の「創造物語」では、地には植物がなかったということが確認された上で、男(アダム)がつくられます。そして人がつくられた後で、植物がつくられたことが記されます。

 人の創造についても、最初の「創造物語」では、男女が同時につくられたようになっているのに、第二の「創造物語」では、まず男がつくられ、それからいくらかの経緯があって、女がつくられます。

 ここではこの二つの矛盾点だけに、注目します。こうした明らかな矛盾が、創造という同じテーマについての二つの連続した物語に記されていることは、多くの場合、適当に無視されてしまっているようです。たとえばある講演で「神の創造の業の最後にアダムがつくられ、そのアダムが禁断の木の実を食べて……」などと述べられるのを聞いたことがあります。はっきりと書かれていることを無視して、「辻褄を合わせる」ように解釈する、いわゆる「調和的解釈」をするというのでは、テキストを読んだことになりません。

 はっきりした矛盾点がある物語が並べられているということは、聖書全体がどのような書物なのかについて、きわめて重要な特徴を示唆するものになっています。

 神が世界をつくるという行為は、一回きりの行為であるはずです。私たちがいるこの世界が一つでしかないからです。ところが、二つの物語で、世界をつくる手順が明らかに異なっています。ある一つの事件について、二つの異なった証言がなされている、という事態になっています。普通ならば、どちらかが真実である、あるいはどちらも噓かもしれない、と考えることになります。しかし聖書は、権威ある書物です。聖書の全体が真実を語っているという立場を受け入れなければならない、とされています。

「どちらも真実だよ」というように、二つの物語が示されています。しかし「どちらも真実」なんて、あり得ません。どうすればよいでしょうか。真実を語るはずでしかない者が、わざと異なった二つの証言をしているようなものです。証言者の権威を否定することはできません。とするならば、証言者の意図を探るということになります。

 証言者は、何かを述べねばなりません。そして権威あるこの証言者が述べることは、真実になってしまいます。そこで証言者は、同一のテーマについて二つの異なる証言をしました。二つの証言が異なっているのですから、どちらも真実だとすることはできません。また、どちらの証言も権威ある証言者が述べていることですから、どちらかだけが真実だとすることもできません。こうなると、証言を受け取る側がこうした状況になるように、証言者の側が意図的に二つの異なる証言を示したのだと考えるしかありません。

 創造の際に、植物と人とどちらが先だったのか、人の創造は男女同時だったのか、男が先で女が後だったのか、こうしたことに関してどれが真実だったかを確定することは、もはや問題ではありません。そうではなくて、このような問題について、確定的な真実はないのだ、とする証言者の立場が示されていることが重要になります。

「聖書に書かれていることはすべて真実だ」といった単純な立場を否定するべきだということが、聖書の冒頭に記されていることになります。「真実」という言葉を使い続けるならば、「真実でないことを真実だとすることは、真実な立場ではない」というメッセージが、聖書の冒頭で示されている、ということになります。

 聖書の物語に戻ります。

 第二の「創造物語」では、男女の創造の物語に絡めて、いわゆる「エデンの園」の物語が展開されます。人が「知恵」を獲得したために、「永遠の命」を得ることができなくなったことが示されます。人は神と断絶した状況に置かれます。このことが、人が「エデンの園」から追放され、神が「エデンの園」に残っているというイメージ──「エデンの園」の外と内という空間的な区別──によって示されています。

 いわゆる「世界と全人類に関わる物語」では、さらに三つのエピソードが語られます。「カインとアベルの物語」「ノアの洪水物語」「バベルの塔の物語」です。

「ノアの洪水物語」に関しては、次のようなエピソードがあります。この洪水物語は、神が行ったほんとうの歴史的事実として信じるべきだとされていました。しかしメソポタミアに古くから存在した『ギルガメシュ叙事詩』が十九世紀に発見され、その中に聖書の洪水物語に酷似した洪水物語があることが判明しました。聖書の物語は、周辺の文明の文学に強く影響されているところがあることが実証されたことになります。ジョージ・スミスというイギリスのアッシリア学者が発表して、大きな衝撃が生じました。

「出エジプト」でユダヤ教が成立

 創世記の一二章からは、物語の関心がユダヤ民族に集中します。

 創世記の一二章から末尾(五〇章)までは、いわゆる「族長たち」の物語です。アブラハム、その子のイサク、その子のヤコブ、そしてヤコブの子供たち、の物語です。

 ヤコブの子のヨセフがエジプトに売られたことがきっかけになって、結局のところヤコブと、その子供たちがエジプトに行きます。

 二番目の文書である「出エジプト記」の冒頭では、エジプトでヤコブの子供たちの子孫が増えて、「イスラエルの人々」といったまとまりができていたように記されています。

 アブラハムからここまでの物語は、「カナン」(パレスチナ)で「十二部族」が生活するようになった際に、全体の統一を確保する手段の一つとしてつくられた民族起源の神話物語になっていると、まずは考えるべきです。たとえば「アブラハムを祖先とする部族」「ヤコブを祖先とする部族」などがあって、本来は別々のものだったそれらの部族起源物語を統合して「アブラハム─イサク─ヤコブ─十二部族の祖先」という直系の系図の関係をつくったとされるべきです。

「出エジプト」の出来事が生じる前に「イスラエルの人々」といったまとまりがすでに存在していたというのは、歴史の現実にはあまり対応していません。実際には、エジプトに「非エジプト人」とされるような者たちがまとまりもなくいて、彼らのうちから共にエジプト脱出を試みる者たちがあった、と考えられます。

「出エジプト」の事件のことが、「五書」の残りの四つの文書(「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)で語られています。

 前十三世紀、エジプトにいた非エジプト人の集団が、エジプトから逃げ出した。これが「出エジプト」の事件です。彼らは奴隷状態にあって苦しんでいた、とされています。モーセという人物が指導者でした。

 この出来事自体は、いわば「奴隷の集団脱走事件」であって、時々生じるような出来事の一つでしかなかったと思われます。しかし旧約聖書では、きわめて重要な事件だとされています。

二度にわたる神の「名乗り」

 まず、神がモーセに「出エジプト」の業の指導者になるようにという命令を行います。「モーセの召命(しょうめい)」(「出エジプト記」三章)です。モーセが羊飼いの仕事をしていると、柴が燃えています。ところがこの柴は、燃え尽きません。不思議に思ってモーセが近づくと、神がモーセに語りかけて、モーセに使命を与えます。

 この物語では、名を名乗るということを、神が二度にわたって行います。

 神はまず、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と述べます。「父の神」「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は、一種の名であると考えられます。

 ところがモーセは、さらに神の名を尋ねます。すると神は、すでに名乗った名を繰り返すのではなく、「わたしは、有るところの者だ」「わたしは、有るように有る者」と訳すべきような「名」を述べます。この第二の名は、聖書における神のあり方を、簡潔に、しかしかなり適切に表現していると思われます。つまり、「神は、自分が動きたいように動く者」ということです。神がどのような存在なのかは、人間には理解できません。「神の本質」などといったことが話題になります。人間は、いろいろなことを考えます。

 たとえば、「神は全知全能だ」などと言います。しかし全知全能でない人間が想定している「全知全能」なるものが何のことなのか、よく分かりません。少なくとも分かるのは、「神は全知全能だ」などと主張する者は、神について「実は分かっていないのに、分かったようなことを言おうとしている者だ」ということくらいです。また「神は恵み深い」などと言います。そうでしょうか。「恵みを与える」というのは、「(人間にとって)良いことをしてくれる」という意味です。神は「どのように動いている」でしょうか。

 このような疑問が生じる時に、聖書の物語を見てみることは、大いに参考になります。「天地創造」の時には、神は全世界を生じさせたのですから、「大きな恵みを与えた」と言ってよいかもしれません。また「出エジプト」の際に、神はかなりあれこれと特別な介入を行います。これも「かなりの恵みを与えた」と言ってよいかもしれません。しかし神は、神の民であるはずの「イスラエル民族」がつくった王国が、まずは北王国、そして南王国が、滅ばされるままにしておきます。これは「恵み深い」とは言いにくいのではないでしょうか。イスラエル民族が諸帝国の支配に苦しんでいても、神は自分の民を放っておきます。それでもイスラエル民族が完全に滅亡しないのは、それなりに「神の恵み」だと言えるかもしれませんが、「恵み深い」というには、あまりにも理解困難な対応ではないかと思われます。

「全知全能だ」「恵み深い」などということは、人間の側の勝手なレッテル貼りです。神は「有るように有る者」「自分が動きたいように動く者」です。神がどのように動くかを、先入観なしに見極めねばなりません。神がどのように動くのかを、どのように観察すべきなのかが分からなければ、聖書は神の動きについての記録ですから、聖書を読み込んでいくというのが、一つの有効な手段です。

 そして聖書は、「神の動きについての記録」であるとはいえ、実は、いくらかの場面を除いては、神が動かないことからの、人間の苦しみや、人間だけで行った工夫の記録になっています。

本書『別冊 NHK100分de名著 集中講義 旧約聖書』では、・第1講 こうして「神」が誕生した
・第2講 「創造神話」の矛盾
・第3講 人間は「罪」の状態にある
・第4講 なぜ神は「沈黙」したのか
・第5講 神の前での自己正当化
・第6講 「沈黙」は破られるのか

という全6回の講義を通して、旧約聖書という一神教の根源を探っていきます。

■『別冊 NHK100分de名著 集中講義 旧約聖書 「一神教」の根源を見る』(加藤 隆 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書における「旧約聖書」からの引用は著者による訳です。

著者

加藤 隆(かとう・たかし)
1957年生まれ。ストラスブール大学プロテスタント神学部博士課程修了。神学博士。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程修了。現在、千葉大学文学部教授。専門は、聖書学、神学、比較文明論。「神的現実」(ディヴィニティ)と諸文明の関係についての関心からスタートして、「愛」の現実、「美」の現実へも関心が広まってきた。著書に、La pensée sociale de Luc-Actes, Presses Universitaires de France, Paris, 1997、『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』(大修館書店、1999)、『一神教の誕生』(講談社現代新書、2002)、『旧約聖書の誕生』(筑摩書房、2008/ちくま学芸文庫、2011)、『歴史の中の『新約聖書』』(ちくま新書、2010)、『武器としての社会類型論』(講談社現代新書、2012)など。
※すべて刊行時の情報です。

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