『20歳で壮烈な死を遂げた会津藩きっての美女』 中野竹子とは 「生け捕られてたまるか!」
「武士たちの戦い」と聞くと、堂々たる体躯の男性武将や歩兵たちが激しく戦う姿を思い浮かべる人は多いでしょう。
けれども、昔から男性とともに刀剣を手に戦った勇猛果敢な女剣士はたくさんいます。
今回は、幕末期の会津戦争において藩や仲間を守ろうと決意し、女性だけの「婦女隊(ふじょたい)」を結成。
命がけで戦い壮絶な死を遂げた、中野竹子(なかのたけこ)のあまりにも短い人生を追ってみました。
幼い頃から文武両道の才能があった竹子
中野竹子は、江戸詰勘定役会津藩士・中野平内(なかの ひょうない)・こう子夫婦の長女として、嘉永3年(1850)(もしくは弘化4年(1847)という説も)に江戸にあった会津藩藩邸で生まれました。
幼少から書道や薙刀を習いその才能を開花させた竹子は、5歳から6歳の頃にはすでに百人一首を完璧に覚えていたそうです。
娘の才能をもっと育てたいと思った父・中野平内は、竹子にさまざまなことを学ばせます。
和歌と書に優れた会津藩江戸藩邸の目付職・赤岡大助の元では、薙刀(なぎなた)・書・和歌の文武を。
武芸百般に通じ、会津藩の居合術指南役を務めた黒河内兼規(くろこうち かねのり)のもとでは薙刀術を。
そして、書家の佐瀬得所(さの とくしょ)のもとでは、書道を学ばせました。
竹子は、生まれながらにして文武両道の才能に恵まれていたようで、薙刀術においては免許皆伝となり道場の師範代を務め、書道は祐筆(ゆうひつ※)を務められるほどまでに成長したのでした。
※祐筆:武家の職名の一つで、文書や記録の作成を務める文筆に長じている者
会津藩を守るために縁談を断り、会津に戻る
容姿端麗かつ文武両道の竹子の成長ぶりを間近で見ていた赤岡大助は、竹子が17歳になった頃、父・中野平内に願い出て竹子を養子にします。
その頃、1867年(慶応3年)に大政奉還を決断した徳川幕府15代将軍・徳川慶喜が、政権を朝廷に返上するという出来事が起こりました。
そして、翌1868年(慶応4年)1月、旧幕府軍と新政府軍との戦い「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の初戦である「鳥羽・伏見の戦い」により、江戸城へ登城することができなくなった会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)公が、故郷の会津に引き上げることになったのです。
それに伴い、竹子を含む中野平内一家も、江戸から会津の地へ戻ることになりました。
しかしこの時、19歳頃の竹子と赤岡大助の甥との縁談が持ち上がっていたのです。
竹子は、会津藩が大変な状況下にある最中、自分だけが婚姻を結び家庭に収まることをよしとせず、自ら赤岡大助に申し出て今までの養子縁組を破談し縁談を断り、家族とともに会津へと戻ったのでした。
妹・優子はのちに「姉・竹子は男勝りな気質だった。道義に反したことを嫌う男子のような発想があった」と語っています。
生まれ育った江戸をひき払い、初めて会津の地を踏んだ中野竹子。
長年江戸詰めだったために中野家は家がなく、親戚だった田母神家の屋敷の一角を借りて住むことになりました。
かつての師・赤岡大助が会津に戻り剣道道場を開いていたので、竹子はそこに身を寄せます。
縁談を断り赤岡との養子縁組を解消した竹子ではありましたが、会津藩存亡の危機にあたり再び稽古をするようになったのです。
さらに、娘たちには薙刀を教えたり子供たちを集めて読み書きを教えたりして、赤岡の手助けをしていました。
容姿端麗で評判の中野姉妹
前述したように、中野竹子には妹・優子がいたのですが、姉妹揃って容姿端麗で近所でも評判でした。
特に優子は、女性すら見惚れるほどの美しさだったといいます。
「会津名物業平式部、小町はだしの中野の娘」(在原業平と紫式部の才気に小野小町の美貌を足したほどの娘)と唄にされるほどの名物姉妹で、共に薙刀の達人でもあったそうです。
ある日、美人姉妹という噂を聞きつけたのか、会津の自宅にて竹子が湯あみしている姿を覗きにきたふとどきな男がいたのですが、竹子が薙刀を振り回して追い払ったという武勇伝もあります。
母・妹と共に会津を守る覚悟を決める
慶応4年(1868)8月23日のこと。会津藩若松城(鶴ヶ城)下に新政府軍の襲来を告げる早鐘の音が鳴り響きました。次々と要衝を突破していった敵の新政府軍が、ついに会津の要に攻め入ってきたのです。
避難をする者、戦う意思を固め城へと向かう者がいるなか、竹子は母・こう子、妹・優子ともに会津を守るべく覚悟を決め、髪を切りそれを庭に埋め、身を寄せていた田母神家を出て、若松城に向かいました。
実は、中野母娘は「有事の際はここで待ち合わせをして、敵が来たらともに戦おう」と約束をしていた赤岡大助道場の稽古仲間がいたのです。
その場所で、岡村すま子、依田まき子・菊子姉妹と出会い津若松城に向かいったものの、城門は閉じられていました。ところが、無念の思いで引き返した道中、ほかの仲間と出会うことができたのです。
先に死んでいった家族や仲間のため、会津藩を守ろうという強い気持ちは衰えることのない彼女たちは、「婦女隊(ふじょたい)」(娘子軍・娘子隊と呼ばれることも)という、女性たちによる義勇軍を作りました。
その数は総勢20名以上。女性たちは戦いの邪魔となる長い髪を斬髪し、着物と袴姿に着替え、薙刀をより振るいやすい姿に身を整えたのでした。
藩を守るため共に戦う「婦女隊」を結成
婦女隊を結成したところ、「照姫様(松平容保の義姉)が坂下に立ち退かれた」という知らせが入り、皆は三里先の坂下へと向かいます。ところがそれは誤報で、照姫の姿はありませんでした。
やむなく婦女隊は、会津坂下町で一泊しますが、そこで「照姫は若松城に居る」という情報を聞き、再び城に向いました。そして、会津軍のリーダー・家老の萱野長修(かやの ながはる)(通称:権兵衛)に従軍を懇願したのです。
しかし権兵衛は
「負け戦で力尽きたうえに婦女子の力を借りるのか、と敵に笑われては末代までの恥。会津藩士の名折れになると」と、断固従軍を拒否します。
それに対し、竹子たちは
「もし、私たちを戦に加えてくれなければ、ただちにこの場で自決します」と、決死の覚悟で迫ったのです。
そんな竹子の熱意にほだされた権兵衛は、婦女隊の参戦を許したのでした。
出陣前夜、娘子隊は、旧幕府の歩兵指図役頭取・古屋佐久左衛門をリーダーとした先鋒隊となる衝鋒隊(しょうほうたい)・古屋隊に加わることになりました。
戦いの前夜。竹子と母は、娘子隊で最年少であり美人の妹・優子のことを「もし捕まったら、この娘は敵にむごい辱めを受けてしまう。そんな目に合わせるくらいなら、いっそのこの手で…」と、眠っている優子を殺そうとします。
それに気が付いた仲間の依田まき子・菊子姉妹が止めに入り、改めて「皆で戦って死のう」という決意を固めたのでした。
「生け捕られるな、恥辱を受くるな」と声をかけ戦う婦女隊
慶応4年8月25日早朝。
中野竹子をはじめ娘子隊の女性たちは、羽二重の鉢巻をし、布の襷で裾をからげ、義経袴に大小刀を携えた姿で出発します。
古屋隊に参加した娘子隊は、越後街道を城下に向かう途中、柳橋(別名「涙橋」)で敵の新政府軍と遭遇。
新政府軍は女性がいることに気づき、勢いづいて「討たずに生け捕れ!生け捕れ!」と声を張り上げて襲いかかってきました。
もし、新政府軍に生け捕りになろうものなら、どのような辱めを受けるか……娘子隊はおのおの「生け捕られるな!恥辱を受くるな!」と声を張り上げてお互いに励まし合いながら、薙刀で戦ったのでした。
命懸けで会津を守り、仲間の娘子隊を守るために善戦した竹子ですが、とうとう敵兵が放った銃弾を頭に受けて倒れてしまいます。(胸を撃たれたという説もあり)
竹子は戦う以前から、敵の新政府軍に自分の「首」を渡すことを潔しとしませんでした。
「姉の首を新政府軍に渡してなるものか」と、妹の優子が竹子の介錯をし、白羽二重の鉢巻きに首級を包み(竹子の着物の袖を斬った布という説も)、味方の武士に渡したと伝わっています。
あまりにも若くして命を散らした竹子
中野武子、享年20歳(22歳、18歳という説も)。
辞世の歌は
「ものゝふの 猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも 」
この句を書いた短冊を、薙刀に結びつけて戦っていたそうです。
「武人たちに比べたらその数にも入らない自分かもしれないが、敵を目前にしても、これまで殺されて行った会津の同志たちの想いを胸に秘め怯まずに戦い抜こう」……そんな覚悟のほどが伝わってくるような歌です。
中野竹子は、会津坂下町の法界寺に埋葬されました。
「小竹女子之墓」とある墓碑、「美性院芳烈筆鏡小竹大姉」という戒名が書かれた位牌と、歯こぼれのある長さ5尺3寸(151.3㎝)の薙刀、1尺5寸(30.6㎝)の刀、遺墨(故人が残した書や画)なども、寺宝として保存されています。
また、毎年9月下旬の3日間は、会津若松城を起点に提灯行列・会津磐梯山踊り・日新館童子行列などのほか、総勢約500名が参加する「会津藩公行列」が行われています。
会津藩の歴代藩主、娘子隊、中野竹子、中野優子、中野こう子の姿も見られるそうです。
参考:
中野竹子と娘子隊 歴史春秋出版 水澤 繁雄(著)
戊辰繚乱 天野 純希(著)
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部