昭和初期に散った17歳の心中歌姫 〜高輪芳子の短すぎた舞台人生
昭和7年(1932)12月、東京・四谷のアパートで男女の心中事件が発生した。
男性は一命を取り留めたが、女性は帰らぬ人となった。
その女性の名は、高輪芳子(たかなわ よしこ)。
当時、ムーラン・ルージュ新宿座に所属していた若き歌手である。
ムーラン・ルージュ新宿座とは、昭和初期に新宿・柏木(現・新宿区北新宿)に開館したレヴュー劇場で、浅草に続く新たな舞台芸術の拠点として注目を集めていた。
心中した相手の男性も、当時の先端をいくモダン・ボーイであったこともあり、事件は新聞で大きく報道された。
観客を魅了していた歌姫の死。彼女が抱えていた心の闇とは何だったのか。
今回は、17歳で短い生涯を終えた薄幸の歌姫・高輪芳子の短くも濃密な生涯を追っていく。
情熱と哀愁をあわせ持つ病弱な少女
大正4年(1915)、高輪芳子(たかなわ よしこ)は、本名・山田英(やまだ ひで)として、朝鮮・慶尚北道尚州に生まれた。父・山田覚吾は憲兵下士官であり、その任地に従って一家は朝鮮、東京、南満州などを転々としていた。
幼少期の芳子は病弱で、胸部に軽い疾患を抱えていた。昭和4年(1929)5月、父が42歳で急逝すると、母・さだ子とともに東京・新宿に移り住み、生活のために母は職を探し歩いた。
芳子は昭和高等女学校に通いながら、卒業後の音楽学校進学を志した。
この頃の彼女は文学にも傾倒し、愛読書は石川啄木の詩集、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』、そして夭折した詩人・清水澄子の遺稿集『さゝやき』であった。
特に『さゝやき』には強い影響を受け、死を詠う詩に心を奪われていった。
父が42歳の「厄年」で亡くなったことを意識し、芳子は「私も19歳の厄年で死ぬんだわ」と繰り返し口にしていたという。
若くして死に惹かれるようになった彼女の内面には、既に翳りが見え始めていた。
将来を嘱望されていた歌姫の悲劇
その後、音楽学校への進学を断念した芳子は、昭和5年(1930)5月、松竹楽劇部の五期生として舞台の道に進んだ。
父を失い、母と二人で生計を立てねばならなかった芳子は、松竹の面接の際、「お父さんが死んで、お母さん一人です。ですから、あたしの手でお母さんを養って孝行したいと思います」と語ったという。
「高輪芳子」の芸名は、このとき楽劇部の試験官が市電の停留所名から名付けたものだった。
美しい声と容姿に恵まれた彼女はすぐに注目を集め、将来を嘱望される存在となった。一方で、楽屋の片隅で物思いにふける姿も多く見られたという。
そんなある日、芳子は不運な事故に見舞われた。
自宅で不注意からベンジンをこぼし、着物に引火。臀部から踵にかけて大やけどを負い、生死をさまよう重体となってしまったのだ。
4か月の療養を経て舞台復帰を果たすが、その間に劇団の状況は大きく変わっていた。
松竹楽劇部は「松竹少女歌劇団」と改称され、本格的な声楽教育を受けた新人の育成に力を注ぎはじめていた。
芳子の人気も、ムーラン・ルージュ新宿座から移籍してきた小林千代子に取って代わられていた。
こうして音楽学校での本格的な教育を受けていなかった芳子は、次第に劇団内での立場を失っていった。
一方で、私生活も不安定さを増していく。
病弱な身体を抱えながら、酒や煙草に頼る日々が続き、複雑な家庭環境にも心を痛めていた。
父と母の婚姻届が、自身の出生から3年後に提出されていたことを知った芳子は、次第に「母・さだ子は本当は継母ではないか」と疑念を抱き、その思いを周囲に漏らすようになっていた。
さらに母のさだ子は、芳子の婚約者である日大医学生・井川四郎と不倫関係にあり、井川と共に家出したこともあったという。
井川は、もともと母娘の家に下宿していた人物で、内気な性格ながら芳子と恋仲になり、火傷を負った彼女を献身的に看護したこともあった。
それだけに、井川とさだ子の関係を知った時の芳子のショックは相当なものであり、友人に「もう死にたい」と漏らすほどであった。
その後、失意の反動からか、芳子は別の男性のもとへ身を寄せた。
しかし間もなく、半狂乱になったさだ子がその男性の下宿先に押しかけ、芳子を無理やり連れ戻したのだった。
そして昭和7年(1932)夏、芳子は松竹を去った。
この時の芳子は、公演中に吐血し倒れるなどして、もはや大舞台に耐えられる身体ではなかった。
モダン・ボーイとの心中
昭和7年(1932)10月31日、芳子はムーラン・ルージュ新宿座に加入した。
浅草から新宿へ移ったのは、火傷の後遺症で歩行が困難になっていた彼女にとって、自宅に近い劇場が通いやすかったためである。さらに、報酬面でも条件が良かったという。
新宿座では『ペチカの歌』などを独唱し、芳子は観客の注目を集めた。しかし、12月6日の公演を最後に、彼女は突如として姿を消す。
その後、母のさだ子が行方を捜す中で、芳子が「中村という文士と最近交際している」と語っていたことを思い出し、彼の住む新宿園アパートを訪ねた。
だが、管理人からは「中村は旅行中で不在」と告げられ、手がかりを得られないまま立ち去るしかなかった。
そして12月12日、同アパートの一室から異音と異臭がするとの通報を受けた管理人が部屋を開けると、原稿用紙で目張りされた室内にはガスが充満し、芳子と中村が並んで倒れていた。
近くには空になった睡眠薬の瓶が散乱し、机の上には「今までありがとうございました。私たちは憧れの旅路に出発します」と記された葉書が40枚近く置かれていた。
そのすべてに、2人の署名があったという。
さらに芳子の楽屋の鏡台には、松坂屋の包装紙の裏に記された以下の一文が残されていた。
「永らえば恥多し わが病因るところ多く 遠きを望まず 目をとじて思う」
状況から、これは心中を意図した行動であったとみられている。
美青年だった中村進治郎
現場にいた中村進治郎は、誰もが認める美青年であり、当時流行の「モダン・ボーイ」を体現する存在だった。
20歳を過ぎた頃、映画雑誌の編集の仕事を始め、それを足がかりに次々とマスコミ界に人脈を築き、欧米のモダン事情に精通した評論家として自分を売り込んでいった。
文章でもイラストでも器用にこなせる彼は女性からモテ過ぎたといい、築地署から「洋服姿で銀座を歩かないように」と注意されたこともあったという。
2人の出会いは、事件のわずか1か月ほど前だった。
高野フルーツ・パーラーで偶然出会い、中村が純文学への挫折を語ったことをきっかけに、芳子も自身の芸術的な葛藤や家庭問題を語り合うようになった。
女性のうわさの絶えないプレイボーイの彼にしては珍しく、芳子とは肉体関係はなくプラトニックな交際であった。
中村自身も「初めて本当の恋をした」と語っていたとされる。
死への願望を抱きながらも、ひとりで命を絶つことに抵抗を示していた芳子は、自身と似た感性を持つ中村と出会い、やがて心中を選ぶに至ったともいわれている。
当時は、坂田山心中事件などに象徴されるように、若者の間で情死が美化される風潮もあり、2人の行動はそうした時代背景の中で受け止められた。
世間から注目された心中事件のその後
この事件で芳子は命を落とし、中村だけが一命を取り留めた。
しかしその事実が、警察に疑念を抱かせる結果となった。
事件発覚の翌日から、新聞各紙は「歌姫心中事件」としてこの出来事を大きく報じた。
記事の中では芳子の家庭事情にも踏み込み、母・さだ子は「娘を死に追いやった冷酷な継母」として非難された。
さだ子はこれに対して、継母説を否定し続けたが、井川四郎との関係は続いており、半ば同居状態にあることが報道されると、記者たちからも批判的な目が向けられた。
一方、警察はこの事件を「創作に行き詰まった中村が、話題づくりのために仕組んだ狂言自殺ではないか」と見て、彼を自殺幇助、さらには嘱託殺人の容疑で取り調べた。
中村は8か月にわたり収監され、最終的に嘱託殺人については不起訴となったが、自殺幇助の罪で懲役2年・執行猶予3年の判決を受けた。
自由の身となった中村は、かつての地位も仕事も失っていた。
事件から1年後、彼はこの出来事をもとに『新宿スウベニア』という芝居を書き上げ、ムーラン・ルージュ新宿座で上演した。
警視庁からは上演中止の勧告が出たが、中村はそれを無視して実行に踏み切っている。
中村は、この作品で芳子をモデルにした役を演じたダンサーと同棲生活に入ったが、精神的に不安定な彼は次第に酒と薬に依存し、やがて関係は破綻。わずか3か月で彼女にも去られた。
そして、事件から約2年後の昭和9年(1934)11月、中村は中野のアパートで死亡しているのが発見された。
部屋には「眠れないので、少し薬を飲みすぎた。死ぬかもしれぬ、よろしく」と走り書きされたメモが残されていた。
生活は困窮しており、死因は自殺と判断された。享年27。
事件のあと、命を取り留めたものの、非難と疑惑にさらされ続けた中村。
そして、すでにこの世を去っていた高輪芳子。
17年という短い生涯の中で病と葛藤に翻弄されながらも舞台に懸けた彼女の姿は、いまも多くの証言とともに語り継がれている。
参考 :
中野正昭「ムーラン・ルージュ新宿座」森話社 2011
山下武「「新青年」をめぐる作家たち」筑摩書房 1996
文 / 草の実堂編集部