Yahoo! JAPAN

#6 何のために、何を殺したのか──? 亀山郁夫さんと読む『ドストエフスキー』【NHK別冊100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

#6 何のために、何を殺したのか──? 亀山郁夫さんと読む『ドストエフスキー』【NHK別冊100分de名著】

亀山郁夫さんによるドストエフスキー『罪と罰』読み解き #6

19世紀、急激な近代化が進んだ過渡期のロシアで、人間の内面に深く迫った大作家ドストエフスキー。その作品は、時代を超えて私たちの心を強く揺さぶります。

『別冊NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』は、「100分de名著」で取り上げた『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』に『悪霊』『白痴』『未成年』の三作品の書き下ろし解説を加えた一冊。この五大長編を解説するのは、ドストエフスキー作品の新訳も手掛けたロシア文学者・亀山郁夫さんです。

重層的でミステリアスな作品に込められた作者の意図を、クリアに解読していく本書より、第1講「『罪と罰』──なぜ、人を殺めてはいけないのか?」全文を、特別公開します。(第6回/全8回)

Ⅲ 大地にひざまずきなさい

バッカナリア、その一

 第5部の物語(十日目)は、マルメラードフの葬儀にはじまる二つの「バッカナリア」(どんちゃん騒ぎ)と、その間に挟まれたラスコーリニコフとソーニャの「対話」から成ります。私が「バッカナリア」と呼ぶ狂騒的な場は、バフチンの言う「カーニヴァル」と同じく、「自由で無遠慮な人間同士の接触」の場であり、ドストエフスキー文学のダイナミックな特質のひとつです。

 前日の会合から一夜明けて、ルージンは鏡の中の自分を惚れ惚れと眺めつつも、悔しさと不快感に襲われていました。仕事場での体面も気になりますし、結婚のために借りた住居の解約もできず、ドゥーニャへの未練も少なからず残っていたからです。

 また、同居人のレベジャートニコフのことを、ルージンは軽蔑し馬鹿にしつつも恐れていました。というのもレベジャートニコフは、ある進歩的なサークルに属していたからです。田舎出身のブルジョワであるルージンにとって、首都の進歩主義者やらニヒリストやら暴露主義者やらは、漠たる恐怖をかきたてる不気味な存在でした。

 レベジャートニコフが口にする最新流行の議論は、コミューン生活による新しい男女のあり方をめぐるものです。これは、マルクスの言うような階級闘争の理論ではなく、これまでにも何度か触れたフーリエ主義に基づくもので、一見平和的で穏健な思想に見えます。しかしそれは人間の自然の情念や欲望を解放し、性愛の抑圧もすべて解放してしまおうという、危険な因子をはらんだユートピア思想でした。その極端なかたちはニヒリズムに向かいます。かつてドストエフスキーは、「人類愛を覚醒させる」という高邁な理想に燃えていたはずですが、『罪と罰』を執筆中の彼は(当時、四十五歳でした)、もはや別人です。少なくとも『罪と罰』に描かれたフーリエ主義は、みごとなまでに戯画化されています。

 新しいコミューンを構想するにあたって、レベジャートニコフはソーニャを「教育」し、仲間に引き入れようとしています。ルージンは、二人の信頼関係を利用してソーニャを呼び出してもらい、その場でお悔やみとして十ルーブルのお金を手渡しました。しかしそれは策略でした。ルージンは、自分も呼ばれているマルメラードフの葬儀後の法事にラスコーリニコフも来ることを知り、彼を陥れる作戦を思いついたのです。

 死んだマルメラードフの誇り高い妻カテリーナは、ラスコーリニコフから受け取ったお金の半分を夫の葬儀費用にあて、アパートの間借り人たちを招いて大盤振る舞いをします。ラスコーリニコフの来訪には気をよくしつつも、やってきた客たちは貧しい「ごみ屑かなにかみたいな連中」ばかりで、カテリーナは苛立ちを募らせていきます。宴会は徐々に珍妙な雰囲気に包まれていき、遅れてきたソーニャは、義理の母カテリーナをなだめようと努力するのですが、やがて家主のドイツ人女性とカテリーナとの間で大喧嘩がはじまります。

 そこに現れたルージンは、開口一番、自分の部屋の机から百ルーブル紙幣が盗まれたと言い、その嫌疑をソーニャにかけるのでした。驚いてそれを否定するソーニャのポケットから、ルージンにもらった十ルーブルのほかに、問題の百ルーブル札が出てきます。ソーニャは窮地に立たされ、ルージンは勝ち誇りますが、そこで突然レベジャートニコフが抗議の声を上げ、ルージンがこっそり彼女のポケットに紙幣を滑り込ませるのを目撃したとして、彼女の濡れ衣を主張します。それまで黙って見ていたラスコーリニコフも口を開き、これはソーニャを泥棒に仕立てることで自分に復讐し、妹ドゥーニャとの破談を修復しようとする下劣な企みであると説明します。劣勢に立たされたルージンは、激昂する間借り人たちに追いつめられ、退散を余儀なくされます。

バッカナリア、その二

 それからラスコーリニコフはソーニャのアパートへ行き、ついに彼女に「告白」することになりますが、先にもう一つの「バッカナリア」(狂騒)のシーンを見ておくことにします。

 自分のアパートに戻ったソーニャがラスコーリニコフと苦しい対話をつづけていたころ、カテリーナがおかしな行動をとりはじめていました。彼女はまず夫マルメラードフの元上司である政府高官のもとへ赴き、食事中の彼に罵声を浴びせると、今度は子どもたちを引き連れて、大道芸人のように運河沿いの道に立ち、群がる見物人たちに身の上話の口上を述べながら、怯える子どもたちに歌や踊りで物乞いをさせようとしているのでした。やがて路上に倒れ、大量に喀血したカテリーナはソーニャの部屋に運ばれ、ソーニャやラスコーリニコフたちに看取られて息を引きとります。

 カテリーナは死ぬ前に、「閣下!(略)みなし児たちをどうかお守りください! セミョーン・マルメラードフのもてなしをご存じでしょう!」とうわごとを口にします。これをめぐっては、文芸評論家の清水正による、たいへん興味深い解釈を紹介しておきましょう。役所をいったん解雇されたマルメラードフが復職できた背景にはじつは理由がある、それは貧しい一家を救うため売春を決意したソーニャが、まだ「黄の鑑札」を受ける以前に、客として不法に受け入れた最初の相手が、マルメラードフの上司の政府高官だというのです。

 ここで注目したいのは、ソーニャの最初の報酬「銀三十ルーブル」です。それは、当時の相場からして破格の金額であり、相手が政府の高官だった可能性を暗示します。そしてこれが噂となり「黄の鑑札」を受けるはめになったソーニャが、のちに無心する父に手渡した酒代は「三十コペイカ」でした。このように、作者は、しきりに「三十」という数字を強調していることがわかります。これは、ほかでもありません、イスカリオテのユダがキリストを祭司長に売って得た「銀三十枚」を連想させるものです。つまり、自分をキリストになぞらえているかのようにも見えたマルメラードフは、実のところ、裏切り者のユダとして娘を売ったという逆の見方を引き寄せてくるのです。

 そこでさらに私の想像は広がります。

 娘を売るという罪の重みに堪えかね、アルコールと自虐に走るマルメラードフは、なかば自殺覚悟で馬車の下に飛び込んだのではないか、と。

 カテリーナの臨終の場に、突然ソーニャの「隣人」であるスヴィドリガイロフが現れます。そしてなんと葬儀の費用をもち、子どもたちを孤児院に入れ自分が面倒をみるとラスコーリニコフに申し出ます。その費用は、ドゥーニャに渡すつもりだった一万ルーブルをあてると言うのです。さらに彼は、ソーニャの部屋での二人のやりとりをすべて聞いて知っていることを仄めかし、蒼白になったラスコーリニコフにこう告げます。

 「前も言いましたでしょう、われわれ、きっと仲良しになれるって、ね。そう予言したはずですよ──」

告白

 話は前後しますが、「社会主義者」レベジャートニコフとともにソーニャを窮地から救ったラスコーリニコフには、そのソーニャとの大事な約束が頭にありました。リザヴェータ殺しの真犯人はだれか、を告げる約束です。

 しかし、告白するという行為そのものに怖気づいた彼は、奇妙な論理を用いて説明します。リザヴェータを殺した犯人は自分の親友だが、彼にはもともと殺意はなく、老女だけを狙った犯行だったというのです。説明の途中、彼は一瞬のめまいにも似た殺意をソーニャに対して抱きます。

 ソーニャを見ていると、ふいにその顔にリザヴェータの顔が二重写しになったような気がした。あのとき斧を手ににじり寄った彼は、リザヴェータの顔に浮かんだ表情をありありと記憶していた。(略)その顔にはまるで、子どもが怯えきったような表情が浮かんでいた。

(第5部第4章)

 凄まじいとしか言いようのない、みごとな心理描写です。告白の行いそのものを許そうとしない主人公の傲慢な本質が露わに浮かびあがってきます。一方、ソーニャは彼の顔を見つめ、直感的に恐ろしい真実に気づいてしまいます。「ああ、神さま!」と彼女は、体を震わせて彼の前にひざまずき、「あなたは、なんてことをなさったの、なんてことを、ご自分にたいして!」と絶望的な調子で言い、泣きながら彼を強く抱きしめます。

 ラスコーリニコフの心に「とうの昔に忘れきっていた感情が波のように押しよせ」、目には涙の粒が現れます。「それじゃ、ぼくを見捨てないんだね、ソーニャ?」と言う彼に対して、ソーニャは、「あなたについていく、どこへでもついていくわ!」と応えます。しかし、ラスコーリニコフの心は、すさまじい勢いで変転を遂げていきます。一瞬の涙のあとに発せられた「懲役になんて行く気はないかもしれない」という言葉に、彼女は、恐ろしい殺人者の声を聞きとってしまいます。なぜ、あなたみたいな人に、あんなことができたのか──ソーニャの切実な問いに、ラスコーリニコフは苦しげに答えようとしますが、彼の口から吐き出される動機は、いずれも自己否定の繰り返しでした。

 「なに、盗みのためさ」
 「たしかに、母さんを助けたかった」
 「ぼくはナポレオンになりたかった、だから殺した」
 「悪魔にまどわされていた」
 「理屈ぬきで殺したくなったんだ」
 「ぼくは、ただ殺した、自分のために殺したんだ、自分ひとりのためだけだ」

 ひもじさのためでも、母を苦しめずに自分と家族の将来を切り開くためでもなく、ましてや生活費や学費のためでもなく、結局のところは「資金と権力を手にいれ、人類の恩人となるためでも」なかった。「それが思いきってしたくなって、それで、殺したんだ……あえてそうしたかっただけなんだ」。つまり、高利貸し老女殺害の動機は、もはやイデオロギーでも思想でもなくなり、純化された意志そのものと化していきます。動機はすべて無化され、「あえてする」という行為それ自体しか存在しなくなるのです。

 「自分のため」とは何を意味しているのでしょうか。純粋観念としての意志、純粋行為としての殺人──それがいかに彼の存在を賭けた問いであったとしても、それは、究極とも言うべき傲慢さの証にほかなりません。「一刻も早く知る必要があった。自分がほかのみんなと同じシラミか、それとも人間か? 自分に踏み越えることができるのか、できないのか?」

 おそらくは、一登場人物としてラスコーリニコフ本人がなしうる説明はここまでが限界だったと思います。そのあとの動機付けは、たぶん作者がさまざまな意図を込めて付けたしただけのように思えます。

 「あのときぼくは、悪魔かなんかに引きずられていった。でも、あとになって、やつはこう説明してくれたのさ。(略)おまえはほかの連中とこれっぽっちもちがわないシラミだ」

 「ぼくはあのばあさんを殺したんだろうか? ぼくは自分を殺したんで、ばあさんじゃなかった! あのとき、ぼくはほんとうにひと思いに自分を殺してしまった、永久に……あのばあさんを殺したのは悪魔で、ぼくじゃない……」

「汚した大地」と「母殺し」

 ソーニャは涙をためた目を火のように輝かせると、「さあ、立って!」とラスコーリニコフを促します。

 「いますぐ、十字路に行って、そこに立つの。そこにまずひざまずいて、あなたが汚した大地にキスをするの。それから、世界じゅうに向かって、四方にお辞儀して、みんなに聞こえるように、『わたしは人殺しです!』って、こう言うの。そうすれば、神さまがもういちどあなたに命を授けてくださる。行くわね?」

 大地への崇拝は、ロシアに特徴的なキリスト教信仰の一面を物語っています。そこには、異教時代の名残りを濃厚に見てとることができるようです。「母なる湿潤の大地」という表現がありますが、ロシアでは、大地=母=聖母マリアの同一化が起こり、大地への接吻は、聖母マリアへの愛と信仰の証となります。娼婦となることによって教会から切り離されたソーニャに、出口はありません。他方、ソーニャほどに熱い信仰に燃えている女性は、ほかに登場しません。その彼女が救われずして、だれが救われるというのでしょうか。ここに根本的な疑念が生じます。ことによると、もっとも原始的な感覚としての信仰形態である大地信仰にこそ、ソーニャのみならず、ラスコーリニコフにとっての救いの道があるのかもしれません。大地こそが、生命との絆を取り戻すために必要なものだったのかもしれません。では、はたしてそれを、西欧的な意味におけるキリスト教と呼べるのかどうか。しかし、確実に言えることがあります。ソーニャの心には、ほかのだれよりも確実に信仰が熱く脈打っているという、ゆるぎない事実──。ソーニャにとっても、ラスコーリニコフにとっても、もはや教会は無用です。

 しかしそんなソーニャの自首の勧めに、ラスコーリニコフは抵抗します。権力をもった連中に自首して謝る必要などあるのか、と。

 「ぼくはあの連中にどんな罪があるっていうのさ?(略)やつらだって、人間を何百万も死滅させてるくせして、それを立派な功績だと思ってる。やつら、ペテン師なんだ、卑劣漢なんだ、ソーニャ……ぼくは行かない」

 そして「まだ戦いつづけるかもしれない」と反抗心を燃やすのです。

 「ぼくはたんに、きみに知っておいてほしかっただけなんだ」

 それから、「嵐が去って、人気のない岸辺に打ちあげられた男女のように、ふたりはたがいに寄り添いながら」悲しみに沈みます。ソーニャの愛をラスコーリニコフは感じとりますが、そのことがかえって、「胸に痛く」のしかかってきます。

 ソーニャは、自分の糸杉の十字架を彼に渡そうとします。十字架はもうひとつ、聖像と交換にリザヴェータからもらった銅製のものがあると言い、これから自分はそちらをかけると言います。しかしラスコーリニコフは、差し出した手を引っ込め、「いまはやめよう」と言うのでした。

 十字架交換のモチーフはきわめて重要です。庶民の間で、それは兄弟、姉妹の契りを交わすのと同じような重さをもつ儀式だからです。殺害された金貸しの老女アリョーナと義理の妹リザヴェータの関係以上に、ソーニャとリザヴェータは、精神的に深く結ばれていたのでした。

 ところで、ユーリー・カリャーキンというロシアの研究者は、『罪と罰』は「母殺し」の物語であると指摘しています。私がこの小説を再読したときの印象もそれに近いものがありました。ラスコーリニコフは、母親という存在を愛しながら、なおかつ憎んでいる、そんなリアルな感覚が理解できたのです。

 抑圧者としてふるまう強権的な父ではなく、度を越した愛情によって息子の自立を阻害する母を殺す──、このテーマは、「父」の不在が語られる現代に生きる私たちにとってより切実だと言えるかもしれません。その意味で現代は、「父殺し」の物語である『カラマーゾフの兄弟』より、『罪と罰』のほうが実感できる時代なのだと思います。

 カリャーキンの説をかいつまんで紹介すると、母─妹─ラスコーリニコフという肉親によって形づくられる三角形に代わって、リザヴェータ─ソーニャ─ラスコーリニコフの新しい三角形が現れ、現実のレベルではリザヴェータを、象徴のレベルでは母をそれぞれ殺した、ということになります。この物語は、たんなる金貸し老女殺人ではなく、母殺し=神殺しという重い宿命をはらんだドラマでもあるというのです。

 そこで、この物語の骨格がはっきりと浮かびあがってきます。ラスコーリニコフは、そもそも何を、だれを殺そうとしていたのか。一人よがりな解釈によって色づけされたナポレオン主義は、何よりも強者としての自己を確認したいという動機に発していました。では、なぜ、彼にとってその確認が必要だったのか。一時的な狂気に過ぎなかったのでしょうか。それとも、考えぬかれた思想殺人だったのでしょうか。後者の立場ととるなら、ラスコーリニコフの戦いとは、農奴解放後のロシアを支配しはじめた「お金」という新しい神との戦いであり、あるいは、ロシア社会に跋扈(ばっこ)する金権主義に対するプロテストの意味をもっていたことになります。しかし、「お金」という新しい神にしろ、金権主義にしろ、それは根本において、ロシア社会の現実そのものであると同時に、政治体制そのものでもあるのです。とするとラスコーリニコフは、最終的には体制転覆、あるいは皇帝暗殺という究極の「父殺し」へとつながる革命に殉じたつもりで、じつは、彼がけっして殺すべきではない何かを殺してしまったことになります。それこそはまさに「母」なのです。

 「母」を殺すということは、母なるものとしての「大地」、女性たちの身体としての「大地」を血で汚すことを意味しています。「ひざまずいて、あなたが汚した大地にキスを」しなさい、と言うソーニャは、女性たちに謝りなさい、母なるものに謝りなさい、「母なる大地」と和解しなさい、と言っているのです。大地との和解とは、生命を生み出す唯一の力であり、同時に生命そのものである母なるものとの和解を意味しています。

 では、はたしてラスコーリニコフに、それが可能なのでしょうか。大地との、生命との絆を取り戻し、人間として本当に甦ることができるのでしょうか。そもそも彼にとって人間としての甦りとは、何を意味するのでしょうか。

本書『別冊 NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』では、・第1講 『罪と罰』──なぜ、人を殺あやめてはいけないのか?
・第2講 『白痴』『悪霊』『未成年』──ロシアの闇、復活の祈り
・第3講 『カラマーゾフの兄弟』──父殺し、または人間という解きがたい謎

という全3回の講義を通して、重層的な作品の意図を明瞭かつ大胆に解読していきます。

■『別冊NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』(亀山郁夫 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書におけるドストエフスキー作品の引用は、著者訳の光文社古典新訳文庫版に拠りますが、一部著者が訳し直している箇所があります。

著者

亀山郁夫(かめやま・いくお)
ロシア文学者、名古屋外国語大学学長
1949年栃木県生まれ。東京外国語大学外国語学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。天理大学、同志社大学を経て1990年より東京外国語大学外国語学部助教授、教授、同大学学長を歴任。2013年より現職。専門はロシア文学、ロシア文化論。著書に、『ドストエフスキー父殺しの文学』(NHKブックス)、『新カラマーゾフの兄弟』(河出書房新社)『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』、『ドストエフスキー黒い言葉』(集英社新書)などが、訳書にドストエフスキー『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』(刊行中)、『カラマーゾフの兄弟』(いずれも光文社古典新訳文庫)などがある。2021年より世田谷文学館館長。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。

【関連記事】

おすすめの記事