VIVA YOUNG! SPECIAL LAST SHOW!! 特別対談 「対バンのスタッフやメンバーの彼女にカセットを買わせるくらいの気持ちでやらなきゃダメだ」レジェンドバンド達の生き様を見よ
記憶の底に刻まれていつまでも熱く疼き続ける、そんな一夜になることは約束されている。今これを見ている人は、2025年1月11日にクラブチッタ川崎に全員集合だ。今年で開催30周年を迎え、惜しまれながらも「VIVA YOUNG!」の特別版「VIVA YOUNG! SPECIAL」がラスト公演となることが発表された、下北沢の名物音楽イベント『VIVA YOUNG! 』。その『VIVA YOUNG! SPECIAL LAST SHOW!! 』出演者は、怒髪天、サニーデイ・サービス、ZAZEN BOYSの3組。イベントの歴史を彩る、これ以上はありえない濃厚すぎるメンツが揃った。
SPICEでは『VIVA YOUNG! SPECIAL LAST SHOW!!』を猛烈プッシュすべく、出演バンドのリーダーを集めた座談会を企画。増子直純、曽我部恵一、向井秀徳、そしてイベント首謀者のクラヤマンこと倉山直樹。古くからのファンはもちろん「若い奴に見てほしい」という倉山の願いを乗せた、『VIVA YOUNG!』からのラストメッセージ。もう一度言おう、今これを見ている人は、2025年1月11日にクラブチッタ川崎に全員集合だ。
倉山直樹:1994年の 11月23日にCLUB Queで始めたので、今年の11月23日で「VIVA YOUNG!」は30周年になります。僕もちょうど60歳の節目だし、今回のスペシャルのラストショーの柱を何にしようかな?と考えた時に、まず僕がワクワクする人にしようと。当初はもっといろんな候補もいて、若いバンドも考えたんだけど、「少なめにしよう。3つにしよう」と決めた時に、1990年代に出会った人たちで今も頑張っている、ZAZEN BOYSで武道館をやった向井、中国まで行ってライブをやってるサニーデイの曽我部、そして結成40周年で「ザ・リローデッド」を出した怒髪天の増子という座組みが、最終的にはいいんじゃないかと。全然ヤングじゃないんですけど。
全員:(笑)。
倉山:ヤングじゃないんだけど、若い人にもいっぱい見に来てほしいんですよ。俺たちが若い頃からずっと見てきて、今ここまでやってる素晴らしい先輩がいて、「いいもの見れるぜ」ということがしたかったってことですね。
――つきあいが一番古いのは、倉山さんと増子さんですか。
倉山:そう。元々「VIVA YOUNG!」は、僕がやってたマーブルダイヤモンドというバンドのためのイベントで、ジャンル関係なく僕が一緒にやりたい人を呼ぼうと思っていた時に、たまたま下北沢の屋根裏の楽屋で会って、すごく話が合って、そこからですね。
増子直純:怒髪天が活動休止してた時に、何かやろうかなと思って倉山くんを誘ったことがあるの。そしたら「音楽だけには集中できないから一緒にはできない」って言われた。
倉山:「俺はそっちじゃないから」って。僕の音楽の原体験はハードコアなんですけど、音楽で飯食おうと思ってやってないんですよ、あの人たちって。もう一人、大先輩のスカフレイムスのリーダーの宮崎(研二)さんに、僕が大学生の時に「音楽を飯のタネにしちゃつまらんよ」と、好き勝手やるためにはちゃんと働いたほうがいいよと言われた時に、僕の大学のサークルにカステラと真心ブラザーズがいて、目の前でデビューしてるわけですよ。僕はそういうバンドのローディーをしてたから、尚更違う道を行こうと思ったんですよね。ちゃんと働いてバンドをやる。そして好きなバンドを呼ぶ。それが「VIVA YOUNG!」の始まりです。その考えは、僕の中で全く変わってないですね。
――サニーデイ・サービスは、1996年に初出演していますね。「VIVA YOUNG!」に。
曽我部恵一:最初は弾き語りですよね。
倉山:いや、最初は曽我部恵一バンドっていう名前だった。実はサニーデイなんだけど。
曽我部:バンドで動くと、事務所とかがめんどくさいからそうしたのか。なるほど。
増子:見ればわかるけどね(笑)。
曽我部:当時は年に何回か、クアトロでワンマンやるぐらいの活動の仕方だったんで。というのも、事務所の社長が「お前らはライブが下手だからやるな」って、「ライブやると評判を落とすから」って言って、僕らも「わかりました」って(笑)。ちょうどその頃に「やろうよ」って呼んでくれた。
倉山:僕が大好きだった「自由に歩いて愛して」っていうイベントがあったんですよ。渋谷のインクスティックで。そこに出てたサニーデイを見て、「この子たち面白い!」と。
――ナンバーガールは、1998年からみたいです。
向井秀徳:ナンバーガールで初めて福岡から東京に来て、車で世田谷迷宮をぐるぐる回りながら、やっとこさ下北沢シェルターにたどり着いて、ライブをやったんですよ。その道のりだけを覚えてるんですけど、実際のライブをどうやったかは全然覚えてない。で、そのライブハウスでの打ち上げがあって、倉山さんがいたんです。
倉山:それは(スマイリー)原島さんのイベントだった。で、福岡では打ち上げで飲みに行くんだよね。外に。だからその場でやるのが新鮮だったって。
向井:ハコ打ち上げってやつですね。そこで対バンの人たちと隣り合って親交を深める、もしくは喧嘩するとか、そういうことになるんだろうけど、そこに下北沢に住み着いている、何をやってるかよくわからない人たちがわらわらといるわけですよ。
曽我部:必ずいるね(笑)。
向井:そこで倉山さんと会ったのはすごく覚えてる。そこで「来月出てよ」みたいになって、話が早いなと思いましたね。それでナンバーガールで、Queの「VIVA YOUNG!」に出演させてもらったということですね。
増子:下北沢の、何してるかわかんない人って何名かいるからね。どこの打ち上げに行ってもいる。倉山くんもそうだし、三原さんとか、古閑さんとか(笑)。
向井:椿さんとか。でも私は新鮮だったですね。例えば福岡だったら、ライブハウスはライブをやるだけのところだけど、下北沢はいろんな人たちが集まる場所になってるんだなと。話には聞いてたけど、いいなと私は思ったんです。その前に曽我部さんが福岡に来てくれたことがあって、あれはDJでしたっけ。
曽我部:一緒に飲んだよね、(ヨコミゾ)レオくんたちと。その時初めて向井くんに会った。
向井:あの時の印象も大きくあって、福岡でガシ飲みしたんですけど、サニーデイ・サービスはスウィートな歌を歌っている印象があったんだけども、むちゃくちゃ豪傑で、やっぱり根っこはパンクなんだと。それで話が合うみたいな、それが嬉しかったんです。
曽我部:そこでナンバーガールのカセットをもらったよね。あの時はレオくんが「俺たちよりも絶対紹介したい人がいるから」って言って、向井くんを紹介してくれたの。
倉山:そういう人っているよね。なんだかわかんないけど、繋げてくれる人。
増子:ナンバーガールはすごい評価が高かった。俺は吉野(寿)から最初に聞いて、「九州にすっげぇいいバンドがいる」って。あいつが人を褒めることほぼないからね。珍しいなと思って、聴いてみたら、これは新しい、かっこいいなと。ようちゃん(吉村秀樹)からも聞いてたんだよね。あいつらが褒めることってまずないから。
向井:下北沢。人が人を繋ぐ街。人が音を紡ぐ街…。
増子:世田谷区長になろうとしてない?(笑)
倉山:でも下北沢って、80年代の終わりから90年の頃は、まだライブハウスはそんなになかったんだよね。レイジーウェイズと251しかなかった。
増子:ロフトはあったでしょ?
倉山:あったけど、そんなにみんな使ってなかった。その後にシェルターが出来て、90年頃からバババッと増えて行った。
向井:下北沢=バンドの街みたいな、今はそうなってると思うんですけども、昔からそういうことではなかったんですか。
増子:演劇が強かったね。
倉山:僕らがここら辺で遊ぶようになった1983年とかは、ロフトに濃い人たちがいたんですよ。金子マリさん、Charさんとかがいたんだけど、俺たちは行かないから。そこで働いてる奴が友達だったんで、混ぜてもらって酒をおごってもらうみたいなことはあったけど。
増子:クラブはあったよね。
倉山:スリッツね。スリッツも90年代だから。でもスリッツは楽しかった。あそこも「場」だったね。
向井:曽我部さんは、レギュラーで、ライブ活動はその当初はしてなかったですか。
曽我部:そんなにしてなかった。倉山さんに呼ばれるようになって、ちょこちょこ下北沢でやるようになって、弾き語りもその頃からやり始めて。本当に倉山さんが呼んでくれたからかもしれない。
倉山:とにかく、面白いことをやりましょうという時期だったんだよね。
増子:新しい波だもんね。
倉山:シェルターにはハードコア、メロコアの子達たちと、エモっぽいバンドと、颱風一家とか、あそこらへんがいましたね。ようちゃんたちも元気だったしね。
増子:ブッチャーズ、イースタンだよね。fOULもそう。あのへんは新しかった。
曽我部:ガレージも色々やってました。
倉山:ギョガンレンズとか、エディ(MAD3)くんたちとか。
曽我部:MAD3もシェルターで初めて見たかな。
倉山:ジャッキー&セドリックスはスリッツにいた。凄かったんですよ。群雄割拠というか。
曽我部:DMBQも下北沢で初めて見た。
増子:サイコビリーとかもあったよね。
倉山:251ね。623(ムツミ)たちもあそこだから。
――「VIVA YOUNG!」はどんなジャンル感だったんですか。
倉山:ジャンル感は無し!です。僕が好きなバンドを呼ぶ。最後のほうだと、怒髪天、マーブル、ラフィンノーズにバックホーンとかでやってました。
増子:無茶苦茶だよね。
曽我部:Queで? それは凄いね。
倉山:なんでも良かったの。できればジャンルが違うほうがいいんですよ。ナンバーガールがすげぇかっこいいと思ったのは、ブルー・ビート・プレイヤーズと対バンした時があったんですよ。それがめっちゃ良くて。そういうのが楽しいんですよ。
向井:それまで全然違う人と組み合わされることがなかったから、新鮮でしたよ。私はオーセンティック・スカは通ってなくて、ダブは好きなんですけども、ブルー・ビート・プレイヤーズを見て、かっこいいなと。凄いソリッドだなと。そういうものと組み合わせてもらって、嬉しかったですね。
倉山:一番楽しいのは僕なんですよ。それを見たいんだもん。でもね、うまくいかない時もあるんですよ。それはそれで「まぁいいや、次行こう」って感じですよ。
増子:いかりや長介的な。次行ってみよう。
曽我部:うまくいかないっていうのは、興行的に?
倉山:そう。だけど内容はいい。逆もあるんですよ。人は入ってるけど、「こうじゃなかったな」というものもある。
曽我部:すごい覚えてることがあって、キング(YO-KING)と俺とで弾き語りやったの覚えてます?
倉山:やったやった。
曽我部:あの時、めっちゃ盛り上がったか?というとあれだけど、すごい覚えてる。自分はわりとストイックな時期で、MCもせずに頑張って弾き語りをやろうとしてたんだけど、その後にキングが出てきて、落語みたいなしゃべりで、のらりくらりやるわけ。そっちのほうが全然受けてて、真面目にやるだけがいいことじゃなくて、こういうふうにお客さんを掴むことを俺は出来てないなと思って、すごい勉強になった。「VIVA YOUNG!」はいっぱい出してもらってるんですけど、それが一番覚えてるかもしれない。俺の中では大事な日で、だからすごく感謝してるんですよ。
倉山:あの時、倉持(YO-KING)と二人で、最後に「ユア・ワンダリング・ナウ」をやったんだよね。スペシャルズの。あれは忘れられない。もう一個忘れられないのは、向井の話だけど、九州にとんちピクルスっていう変わったおじさんがいるんですよ。
向井:松浦さん。
倉山:俺、もう大好きで、向井がアコエレをやり始めた時に二人でやったんだけど、最高でしたね。あれは忘れられない。
向井:松浦さんは福岡にいた時から知り合いで、なんで倉山さんに呼ばれて下北沢でこの二人でやってるのかと(笑)。むしろ親不孝通りの、友達同士の集まりで飲みながらやるみたいな、そんなところばっかりの付き合いだから、「あれ?」って。そういうのを面白がる人がいるっていうのが、面白いですね。
倉山:しかも満員だった。最高でしたね。あとね、怒髪天はやっぱり復活した一回目。あれは忘れられない。
――1999年3月ですね。
倉山:2月に「VIVA YOUNG!スペシャル」を赤坂BLITZでやったんですよ。それを怒髪天のメンバーが全員で見に来てくれて、「もう一回やるから呼んでくれ」って。サムライブルーっていうバンド名でやるからって。
増子:名前変えたほうがいいと思ったから。そしたら吉野から猛攻撃を受けて、絶対変えちゃダメだよって。
倉山:だけど間に合わなくて、告知にはサムライブルーって書いてる。
増子:だからその名義でやったのは一回だけ。
倉山:対バンがSwitch Trout、ドメニコドモランテとか。あれは忘れられない。ベロベロで帰りましたもん。もう人間じゃなかった(笑)。
増子:ミッシェルのみんなも来てくれて、客席のほうが豪華だった(笑)。
倉山:カメラマンの菊池(茂夫)さんが泣いてましたね。写真撮りながら。
増子:休止した時、もう二度とやんねぇつってたからね。
倉山:そういう宝物のような時間をみんなからもらってるんですよ。しかも今も一緒にいられるから。たまんないです。そうやって、いい時代に、いい場所で、いい縁が繋がって、僕は本当に幸せです。こんなに今、面白いことをやってる人たちが、来年の1月の集まってくれるなんて、こんなに嬉しいことはないです。
増子:若い奴らに見てほしいね。
倉山:本当にそう。俺、集合かけますから。
増子:若者を集める秘策はあるの?
倉山:あるよ。今、Basement Barとかでやってる若い奴らに、「(小声で)お前ら、来いよ。半分俺が持ってあげるからさ」って。
増子:秘策でも何でもないじゃん(笑)。でもさ、本当に思うけど、今は対バンのイベントってお客さんを呼びづらいじゃない? コロナ禍以降、ワンマンのほうが入るようになったから。それを超えたいよね。
曽我部:そうですね、本当に。
増子:面白いものはちゃんと人が来るよ、って。そういう状況に戻したいというか。
倉山:それもフェスじゃなくてイベントで、3バンドくらいでやりたい。
増子:今は、フェスのセレクトに一貫性がないっていうか、選んでるほうに責任が感じられないっていうか、趣味がわからないんだよ。赤字にならないバランスを取るために、集客力のある人で埋めていくという、それじゃ面白くないよね。
向井:私が思うのは、コロナパンデミックの時に、「東京のライブシーンは1983年か1984年に戻るな」と思ったんですね。まずフェスとかは壊滅するだろうし、イベントとかやってられるわけないから、一体どうなるかっつったら、もう地下に潜って、1984年になるだろうなと。そう思って、外には言ってなかったですけど、ワクワクしていたんですね。「よし。戻るか」と。本当に好きな人が、好きなところに集まって、好きなことをやる。そこからもう一回始まるだろうなと。それはある意味、スクラップアンドビルドみたいなことで、やる側も、聴いてくれる人も、本当に好きな人は残る。それが私としては健全なような気がしたんです。
増子:それは、俺も思った。
向井:1984年あたりから始まって、1986年ぐらいのバンドブームになって、また戻っていくんだろうなというふうに思ったんですね。実際、今おっしゃっていたフェスティバルのやり方って、いかに集客するかしかなくなってきている。それでもコロナ前のような、誰でも彼でもレジャー感覚みたいな、限界超えたようなビジネスになっていたところには、戻っていないですよね。だから、好きな人が好きなところに行くっていうのは、正しい形になっていると私は思ってるんですね。小さいイベントとかは、コロナでもうできなくなったと思うんですよね。それでもやっぱり、馬力を使ってやってる人たちもいるし、そういうところで私もやりたいと思っているし、そこで曽我部さんはいつも同じところにいてくれるから、嬉しくなります。
曽我部:うん。
向井:つまりね、私は「VIVA YOUNG!」の中で一番ヤングなんですけども、先輩方が、曽我部さんや増子さんたちが全身全霊でやってくれてるのを目の当たりにして、すごく勇気が出るわけです。「よし、俺らも下に勇気を与えていかないかんな」と。そんなこと、言葉に出して歌ったりはしないですけどね、そういう気持ちはすごくある。だから、こうやって3組でやるっていうのは、そういう意味合いもあるのかなと思ってます。
倉山:その通りです。やっぱりいろんなことがあって、みんなそれぞれ痛みというか、いなくなったり、解散しなきゃいけなくなったり、一人で始めたりとか、いろいろあって、2024年にこんなにいいアルバムを作って、こんなにいいライブをやってる。そりゃあね、頑張って形にしたいなと思いますよね。僕ね、今の向井の話を、直接電話で聞いてるんですよ。コロナが始まった時、向井のアコエレと奇妙(礼太郎)くんの対バンを組んでたんですよね。でもコロナになって、向井から直々に連絡があって、「倉山さん、一回やめませんか」と。それで、さっき言った話をし始めたんですよ。「これで時代が変わる。本気でやる奴しか残らない。僕は残ります」と。だから「コロナが終わって僕が生き残ってたら呼んでください」と。凄いなと思った、その時に。
増子:バイトしてでもやろうと思う奴じゃないと、もうバンドやる奴はいないだろうな。
倉山:凄いと思った。みなさんそうですけど、それで今もこんなに活躍してくれて、なんでこんなに喜ばせてくれるんだろうと思うんですね。だから、そういう日にしたいんです。
――1月11日、クラブチッタ川崎に全員集合です。
曽我部:とにかく思いっきり、精一杯やるだけなんですけど。ZAZEN BOYSのファンも、怒髪天のファンも、自分の音楽のファンにしたいっていうつもりで。対バンの時はいつも、勝ち負けじゃないんだけど、「絶対勝ってやる」と思うんですけど、そう思える対バンが一番ありがたいし、一番力が出るんですよね。とにかく練習して、一番いいステージをやりたいなというだけですね。お客さんに対しては、絶対間違いない夜になると思うんで、絶対絶対見た方がいいし、思いっきりやります。よろしくお願いします。
増子:本当に面白い組み合わせだしね。いつも本気でライブをやってるけど、さらに勢いがつくというか。昔、東京出てきてすぐの頃はお客さんも全然入らなくて、3人、4人っていう頃に、何を目標にしていたか?というと、対バンのバンドと、スタッフと、メンバーの彼女にカセットテープを買わせるという、そのぐらいのライブを毎回やんなきゃダメだっつうことだけでやってきたから。
倉山:わかる。
増子:それに近い気持ちを取り戻して、やろうかなと思ってます。だってさ、対バンのメンバーの彼女が、そこで踊ってるわけじゃない? 家でやれよと思うけど(笑)。そいつに俺たちのカセットを買わせるぐらいの、音楽の力っていうか、そのぐらいの気持ちでね、楽しくやれたらいいなと思いますね。
倉山:とにかく絶対見に来たほうがいいですよ。間違いなく、絶対いい日になりますから。特に若い子に来てほしいので、よろしくお願いします。
取材・文=宮本英夫 撮影=大橋祐希