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古代日本「空白の四世紀」の謎に迫る、前代未聞の出土品【新・古代史】

NHK出版デジタルマガジン

古代日本「空白の四世紀」の謎に迫る、前代未聞の出土品【新・古代史】

 中国の歴史書から日本に関する記述が無くなる「空白の四世紀」。長い間謎に包まれていたこの時代を解き明かす手掛かりが、奈良県の古墳発掘調査で見つかりました。世紀の大発見と言われた前代未聞の出土物と、ついに明るみへと出た四世紀という時代とは?
 累計4万部を突破した話題書『新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』より、第6章の冒頭を特別公開。

NHKスペシャル取材班『新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』

「空白の四世紀」に何が起きたのか

 日本の古代史において、四世紀は手がかりとなる記録が中国の歴史書からなくなることから、一般的に「空白の四世紀」や「謎の四世紀」と呼ばれている。

 一方で、四世紀という時代は、卑弥呼が生きた三世紀と、「倭の五王」と呼ばれる倭国の王たちが活躍した五世紀をつなぐ、古代日本の国づくりを語る上で欠かせない重要な結節点でもある。文献史料が限られることから、考古学の分野で盛んに調査が進められ、研究者たちによって実像を浮き彫りにしようという試みが続けられてきた。
 この章では、二〇二三年(令和五)に大きな注目を集めた奈良の富雄丸山や墳の発掘調査および出土物のクリーニング作業を中心に、ついに明るみへと出た四世紀という時代を見てみよう。

「空白の四世紀」とは何か

 そもそも「空白の四世紀」とは何か。この言葉の意味するところを理解するためには、前後の時代もあわせて考える必要がある。
 三世紀は、卑弥呼が邪馬台国連合の女王として共立され、魏に使者を派遣した時代。卑弥呼の死後、壱与という少女が王となったことが「魏志倭人伝」に記されていたのは先述の通りだ。この次に古代日本に関する記録が中国の同時代史料上に現れるのは五世紀。当時、南北朝に分かれて争っていた中国王朝のうち、南朝の宋によって編纂された歴史書『宋書』に、「讃(さん)」・「珍(ちん)」・「済(せい)」・「興(こう)」・「武(ぶ)」という五人の倭国の王たち、いわゆる「倭の五王」が記されることで、古代日本は再び中国の記録上に登場する。
 つまり、四世紀という時代、古代日本は中国の記録から忽然と姿を消す。ただし、後述する通り、「広開土王碑(こうかいどおうひ)」と呼ばれる石碑や「七支刀(しちしとう)」という鉄剣に刻まれた銘文は存在しているため、四世紀の倭国に関する同時代の文字記録が全く残されていないわけではない。しかし、中国の記録上に手がかりとなる倭国に関する記述が残されていないのは確かであり、中国との国交が途絶えてしまったためか、その理由は定かではないが、文献史料から古代日本の動向をうかがい知ることはできない。

 こうした状況から、四世紀は「空白の四世紀」「謎の四世紀」と呼ばれるようになった。一方で、この「空白の四世紀」は古代日本における国づくりを考える上で、非常に重要な位置を占める。その理由もまた、三世紀に築かれ、最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳と、五世紀に築かれた日本最大の前方後円墳・大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の大きさを比較することによって見えてくる。

 まず箸墓古墳の大きさを見てみると、全長二八〇メートル。対して、大仙陵古墳は全長四八六メートル。じつに二〇〇メートルほどの大きさの違いがある。大仙陵古墳は世界の巨大な墓と比較してみても、エジプトのクフ王・大ピラミッド(二三〇メートル)や中国の秦の始皇帝陵(三五〇メートル)をしのぐスケールを誇る。

エジプト・クフ王のピラミッド(写真提供:PIXTA)/日本最大の前方後円墳・大仙陸古墳〈仁徳天皇陵〉(写真提供:堺市博物館)
エジプト・クフ王のピラミッド(写真提供:PIXTA)/日本最大の前方後円墳・大仙陸古墳〈仁徳天皇陵〉(写真提供:堺市博物館)

 さらに視野を広げて、国内の他の前方後円墳に目を向けてみても、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(四二五メートル)、上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳(三六五メートル)、吉備の造山(つくりやま)古墳(三六〇メートル)など、五世紀にはそれまでとは一線を画する巨大古墳がずらりと並ぶことがわかる。

大型化する古墳

 ここで、高校で用いられる歴史教科書、山川出版社の『詳説日本史』が、この時代についてどのように述べているかを見てみよう。

古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、前期(3世紀中頃~4世紀後半)、中期(4世紀末~5世紀末)、後期(6~7世紀)に区分している。古墳時代後期のうち、前方後円墳がつくられなくなる7世紀を終末期と呼ぶこともある。

山川出版社『詳説日本史』

なぜ『日本書紀』に卑弥呼が登場しないのか?

 つまり、三世紀から五世紀にかけて、日本列島の前方後円墳は大型化する傾向にあった。そこには、ただ大きさが変わったというだけではなく、注ぎ込まれる土木技術や人的労力、統率する人々の権力の変化があったことが想定される。他にも四世紀という時代を経て、日本列島の文化は大きな変化を遂げていったことが明らかになっている。
 例えば、「魏志倭人伝」に記されていた「黥面文身(げいめんぶんしん)」という顔や身体に施した入れ墨の風習の消失、さらには祭祀の道具として珍重されていた銅鐸を製造しなくなることなど、その内容は多岐にわたる。

 四世紀という時代を通して、古代の社会・政治構造や文化はどのように変化を遂げたのか、なぜ古代の人々は膨大なパワーを巨大古墳の建造に注ぎ込んだのか、何が様々な変化を古代日本にもたらしたのか。
 こうした数多くの疑問に対する答えを知る手がかりとして期待されるのが、まさしく「空白の四世紀」の研究であり、文献史料だけでは迫り得ないことから、それは今も私たちを魅了してやまない、日本古代史における大きなミステリーとなっているのである。

日本最大の円墳・富雄丸山古墳

 では、どのようにすれば、「空白の四世紀」の謎を解き明かすことができるのだろうか。史料が存在しない中で重要なカギを握るのが、有力者たちを埋葬した古墳である。そこには、葬られた人物の遺骨や当時の時代状況を知る手がかりとなる副葬品、埋葬に使われた棺といった目に見えるものから、長い年月を通して土の中に溶け出した化学物質といった目に見えないものまで、数多くのヒントが残されている。

 しかし、前述した箸墓古墳と同様に、四世紀に築かれた重要な大型の前方後円墳の多くは、宮内庁が天皇や皇族の墓である「陵墓」として治定し、立ち入りは厳しく制限されている。研究者といえども、容易に発掘調査を進めることはできないのが現状だ。

 後の時代となる五世紀の大仙陵古墳では、二〇一八年(平成三〇)と二〇二一年(令和三)の二回にわたって、宮内庁と堺市が共同で発掘調査を実施。墳丘の保全工事を見据えて、基礎となるデータの収集を行い、その過程で円筒埴輪の列を発見した。同じく近年、五世紀築造の誉田御廟山古墳でも専門家チームの立ち入り調査が行われたという例があるが、いずれもその調査範囲は限られたものとなっている。

 ところがそうした状況の中で、二〇二二年(令和四)、「空白の四世紀」に迫る前代未聞の発見があった。現場は、奈良県奈良市の市街地から程近く、富雄川西岸に位置する富雄丸山古墳である。直径一〇九メートル、四世紀後半に築かれた丸い形をした日本最大の円墳で、東側には富雄丸山二号墳と三号墳という二基の円墳が隣接している。

富雄丸山古墳。下方に粘土槨が見える(写真提供:奈良市教育委員会)

 発見について掘り下げていく前に、富雄丸山古墳について簡単に説明しておこう。その存在が確認できる早い例としては、江戸時代末期の一八五四年(嘉永七)に書かれた「聖蹟図志(せいせきずし)」という史料がある。絵図とともに「河上陵(藤原帯子(たらしこ)の墓)」として記されており、古くから存在自体は知られていたことがうかがえる。また、出土地は不明ながら、富雄丸山古墳の北西にある弥勒寺には、三角縁神獣鏡が一面、江戸時代から所蔵されている。
 明治時代に入ると、墳頂部で盗掘被害が発生するが、幸いにもその際に出土したと考えられる管玉や臼玉、鍬形石、石製模造品といった遺物を収集家だった弁護士・守屋孝蔵がコレクションしていた。それらは、一九六八年(昭和四三)に京都国立博物館が購入し、現在は国の重要文化財として所蔵され、貴重な出土品として伝えられている。

日本中の注目を集めた「国宝級」の発見

 さらに一九七二年(昭和四七)には、宅地造成の事前調査として墳頂部の発掘調査が実施されることになり、日本最大級の「粘土槨」という木棺を粘土で覆う埋葬施設を持つことが判明した。

粘土槨から姿を現した木棺(写真提供:奈良市教育委員会)

 その後、四〇年近くにわたり奈良市の緑地公園として守られてきたが、平成に入り、古墳の麓で道の駅の新設が予定されたことを受け、奈良市教育委員会が五ヶ年に及ぶ学術調査を計画。二〇一七年(平成二四)度には第一次調査として航空レーザー測量、二〇一八年(平成三〇)度から二〇二一年(令和三)度にかけては、毎年発掘調査を実施し富雄丸山古墳の実像の解明に力を注いできた。

 こうして五ヶ年計画の最終年度となった二〇二二年(令和四)一二月。新たな埴輪列の確認など重要な成果をたずさえ、第一次から第六次にわたって続けられてきた調査がまもなく終わろうとしていた時、富雄丸山古墳の発掘現場は、世紀の瞬間を迎えることとなった。
 円墳の北東部に突き出た「造り出し」と呼ばれる場所の調査を進めていたところ、長さ七・四メートル、幅三メートル、深さ一メートルの長方形の墓坑(埋葬のために掘った穴)が見つかったのだ。そこには盗掘されていない粘土槨が残されており、この粘土槨を慎重に掘り下げていったところ、その場にいた誰もが目を見張るような物体が立ち現れてきたのである。

 発掘調査によって姿を現したのは、粘土槨の中に埋め込まれるように置かれていた二つの出土品。二メートルは優に超える、蛇のように曲がりくねった刀身が特徴の巨大な鉄剣と、その鉄剣の下に重ねられた盾の形をした銅鏡だった。
 発見からひと月が経った二〇二三年(令和五)一月、発掘調査を担当した奈良市教育委員会と橿原考古学研究所は記者会見を開き、この二つの出土物について、国内最大の「蛇行剣(だこうけん)」と今まで出土例がない「鼉龍文盾形銅鏡(だりゅうもんたてがたどうきょう)」であると発表した。

「四世紀における鉄器の最高傑作と言っても過言ではない」と評された蛇行剣、そして国産銅鏡の証である鼉龍鏡特有の文様が精緻に施された盾形銅鏡。「国宝級の発見」としてメディアで報じられ、瞬く間に考古学ファンのみならず日本中の注目を集めるところとなったのである。

NHKスペシャル取材班

私たちの国のルーツを掘り下げ、古代史の空白に迫るNHKスペシャル「古代史ミステリー」の制作チーム。他にもこれまで「戦国時代×大航海時代」「幕末×欧米列強」といったテーマを掲げ、グローバルヒストリーの観点から新たな歴史像を描いてきた。

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