【ジョルジュ・ブラック】キュビズムを発明してピカソと別れたあとどうなった?
ピカソと共に「キュビズム」といわれる画風を生み出したジョルジュ・ブラック。 キュビズムがピークを迎えたあと、ジョルジュ・ブラックはどうなったでしょうか?
キュビズム、世界に広がる
実は大衆にはあまり知られていなかった
”Still Life with a Bunch of Grapes” Georges Braque, 1912
当時ピカソやジョルジュ・ブラックによるキュビズムの作品は、実は一般社会にはそれほど浸透していませんでした。
その大きな理由の1つは、ヘンリー・カーンワイラーという画商が前衛芸術家を個人で囲い込んでいたこと。ヘンリー・カーンワイラーは画家たちにサロンに出品しないことを約束させ、代わりに高い報酬で自身の画廊に作品を展示していました。
これでは作品は世間の目に触れる機会はほとんどないため、知られていないのも当然ですね。
偶然により、世界展開が始まった
そんなヘンリーによる画家の囲い込みを良く思っていない人物がいました。ジョルジュ・ブラックの友人・アポリエールです。
アポリエールは、キュビズムの画家たちが「(画商に) 囲われる側」と「囲われずサロンに出展する側」に分断されている状況を改善しようと、画家たちの交流を促しました。
困ったのはヘンリーです。フランス国内で画家を囲い込んで利益をあげる方法が通用しなくなったことで、彼は海外展示に軸足を移します。結果としてキュビズムの作品は世界中の話題となり、多くの人が知ることになりました。
第一次世界大戦で出兵、ピカソとの作業は終了
ジョルジュ・ブラックとピカソの共同作業は、1914年の前半まで続きました。しかし、第一次世界大戦でブラックが兵士として出征したことで、この共同作業は終了することになります。
戦争で重傷を負い、一時期失明も
ジョルジュ・ブラックは、1915年のカレンシーでの戦いで頭部を負傷しました。頭蓋骨に穴が開くほどの重傷で、一時は失明するほどでした。
負傷してから1917年までの約3年間はジョルジュは療養に専念し、画家としての活動は中断せざるを得なくなります。
負傷から復活。しかしキュビズムを取り巻く環境は変化
新しい画商と契約
”Still Life with Grapes (II)” Georges Braque, 1918
ジョルジュが第一次世界大戦以前に結んでいたヘンリー・カーンワイラーとの契約は、戦争勃発とともに関係が切れていました。
1917年に活動を再開したジョルジュ・ブラックは、療養中に知り合ったキュビズム画家のフアン・グリスの紹介で新たにレオンス・ローザンベールという画商と契約しました。1919年にはローザンベールの画廊で個展を開いています。
キュビズムを取り巻く環境は変化
戦争という大きな社会変化を経て、キュビズムを取り巻く環境も変わっていました。
まず、1914年まで共同制作をしていたピカソは、違う道に進むことに。ピカソは新古典主義へ転向しており、第一次世界大戦前に盛り上がったキュビズムの勢いはだいぶ衰えていました。
ピカソが離れた後、キュビズムの実質的な担い手となったジョルジュは、今までよりも構図や構成を意識した作風へと変化していきました。
1920年代以降のジョルジュ・ブラック
色彩豊かなスタイルに変化
ノルマンディーの海岸に移ってからブラックは、絵の中に人間の姿を登場させるようになり、より個人的なスタイルを追求しました。
鮮やかな色彩や質感のある表面が目立つようになり、キュビズム時代とは大きな違いを感じさせます。ブラックが意識して作風を変化させたというよりは、自然な流れの中でテイストが変わっていったのでしょう。
晩年まで創作活動を続けた
”The Painter and His Model” Georges Braque, 1939
1930〜40年前後のジョルジュ・ブラックは黒や灰色、茶色を主体とした静物画を手がけました。1940年以降になると書籍、絵本、楽譜などの制作を中心とし、油彩画からは距離を置き始めます。しかし、絵を描くことは止めることなく、繰り返し鳥のグラフィックを制作しました。
1940年代から50年代にかけて制作したリトグラフや書籍の挿絵のほとんどがムールロ・スタジオで制作され、ルーヴル美術館の天井装飾やジュエリーのデザインなども手掛けました。
1962年には詩人サン=ジョン・ペルセのテキストを添えた「L'Ordre des Oiseaux(鳥の秩序)」と題されたエッチングとアクアチントのシリーズを制作しています。
ブラックは1963年8月31日にパリで亡くなりました。遺体は彼がデザインしたノルマンディーの聖ヴァレリー教会の墓地に埋葬されました。現在、彼の作品は世界中の主要な美術館に展示されています。
ジョルジュ・ブラックの代表作
ジョルジュ・ブラックの作風はその時々で変わりましたが、どの時代にも代表作があります。
『木のうしろの家』
”The House Behind the Trees” Georges Braque, 1906
フォービズム(野獣派)の影響を受けた作品です。原色の使用や平面的な描写は、特徴的なフォービズムの絵といえます。
『レスタックの風景』
”Viaduct at Estaque” Georges Braque, 1908
1908年に描かれたこの絵は、ブラックが南フランスのレスタックとパリを往復しながら制作しました。
セザンヌの幾何学的な風景画に影響を受けていますが、キュビズムらしい様子も見ることができ、「キュビズムの起源」ということもできます。
『ポルトガル人』
”The Portuguese (The Emigrant)” Georges Braque, 1911
1911年から1912年に発表されたこれらの絵は、まさにキュビズムという印象を受けます。
『ビリヤード台』
”The Billiard Table” Georges Braque, 1944
今までのキュビズムの作品の流れを汲んでいますが、これまでの作品と比べて写実的になっています。色合いはやや抑えめで、画風も変化しているように見えます。
『鳥』
”The Birds” Georges Braque, 1953
ジョルジュ・ブラックは、1930年頃から「鳥」をモチーフにした作品を描いています。彼がデザインした鳥は、頭部と尾部、クロスする両翼、十字架のように抽象化された点が特徴です。
国内で見る事ができるジョルジュ・ブラックの作品
日本国内では次の作品をみることができます。
長島美術館 (鹿児島県)
ラム酒のビン (1918)
果物とナイフ (1935)
パン (1941-61)
青い水槽 (1960-62)
長島美術館
https://ngp.jp/nagashima-museum/
ポーラ美術館 (神奈川県)
レスタックの家 (1907)
ギターのある静物(バラ色の背景)(1935)
ポーラ美術館
https://www.polamuseum.or.jp/
アーティゾン美術館 (東京都)
円卓 (1911)
梨と桃 (1924)
アーティゾン美術館
https://www.artizon.museum/
DIC 川村記念美術館 (千葉県)
マンドリン (1912)
水浴する女 (1926)
DIC 川村記念美術館
https://kawamura-museum.dic.co.jp/
上原美術館 (静岡県)
静物 (1927)
紅茶ポットとナプキンの上のレモン (1949)
上原美術館
https://www.taisho-holdings.co.jp/sustainability/social/society/uehara_museum.html
メナード美術館 (愛知県)
青いテーブルクロス (1938)
自転車 (1952)
メナード美術館
https://museum.menard.co.jp/
ヤマザキマザック美術館 (愛知県)
置棚の上の花束 (1942-43)
ティーポットとレモン (1943)
ヤマザキマザック美術館
https://www.mazak-art.com/
1点のみ所蔵の美術館
女のトルソ (1910-11) 東京国立近代美術館
裸婦 (1925) 大原美術館
楽譜のある静物 (1927) 香川県立ミュージアム
果物入れと果物 (1935) ひろしま美術館
画架 (1938) 横浜美術館
水差しとサクランボ (1945) 大川美術館
静物(レモン)(1950頃) サンリツ服部美術館
まとめ
キュビズムは「芸術界における革命」といわれましたが、10年に満たない間に盛り上がりは静まりました。
ジョルジュ・ブラックの人生の中でも「キュビズム時代」は一部であり、キュビズムを離れてからの期間の方が実は長いのです。
この記事ではキュビズムを軸としてジョルジュ・ブラックを紹介しましたが、それ以外の時期も含めてジョルジュ・ブラックの作品全体を楽しんでいただけたら嬉しいです。