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安芸国の有力国衆の一人、平賀氏が築いた『平賀三城』の歴史【東広島史】

東広島デジタル

白山城跡(県史跡・西方より遠望)

 東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
執筆:天野 浩一郎

御薗宇城跡 (所在地:東広島市高屋町高屋堀)

御薗宇城跡(県史跡・南方より遠望)

はじめに

 平賀(ひらか)氏は、高屋保(たかやほ)(高屋町南東部)を本拠とした在地領主です。平賀氏は鎌倉時代後期に出羽(でわ)国(現・秋田県横手市)から高屋保に本拠を移し、弘安年間(1278~88)に〝高屋堀〟の地に御薗宇城(みそのうじょう)を築城したと伝えらえています。

御薗宇城の構造

 御薗宇城は北から南に延びる低丘陵の先端を利用した、東西約120㍍、南北約150㍍の山城です。北側の丘陵頂部を主郭(しゅかく)とし、主郭から東西に分かれて南に延びる尾根を土塁状に整形し、間の広い空間は屋敷などに利用されたと考えられます。〝丘腹切込み式(きゅうふくきりこみしき)〟と呼ばれる鎌倉時代の築城方法の一つです。

※(注1)「頭崎城跡発掘調査報告書」より引用・加筆

御薗宇城の歴史

 1404(応永11)年、安芸国守護(しゅご)に就任した山名満氏(やまなみつうじ)の軍と彼の守護就任に反発する安芸国人(こくじん)(=国衆(くにしゅう))が戦い、反守護の指導者の一人平賀弘章(ひらかひろあき)は御薗宇城で山名守護軍を迎え撃ちます。戦闘は安芸国全域に広がり、反守護の33名の国人は5か条からなる一揆契状(いっきけいじょう)を結びました(「応永の安芸国人一揆」)。
 幕府はこれに対し、07(13)年ついに討伐軍の派遣を決定しました。これを知った平賀弘章たちは起請文(きしょうもん)(降伏(こうふく)と赦免(しゃめん)?)を差し出し、安芸国守護は山名満氏から同熈重(ひろしげ)に替えることでこの一揆は終結しました。
 1503(文亀3)年、平賀弘保(ひろやす)は御薗宇城の比高が低く戦国の争乱に耐えられないと考え、東南3㌔㍍の白山城に居城を移し、御薗宇城は重臣に預けたようです。
 御薗宇城の北方の廃妙道寺跡に平賀氏の墓地があり、「平賀氏の墓地・御薗宇城跡・白山城跡(しろやまじょうあと)・頭崎城跡(かしらざきじょうあと)」が〝平賀氏の遺跡〟として、1969(昭和44)年〝県史跡〟に指定されました。

白山城跡 (所在地:東広島市高屋町白市)

白山城の歴史

 平賀弘保は戦国の争乱に耐えるため、標高314㍍(比高約100㍍)の白山に白山城を築きました。
 平賀弘保が白市に城を築いた背景には次の事が知られています。〝平賀氏は応仁・文明の乱(1467~1477年)に乗じて、小早川氏の一族小田氏の所領であった田万里村(たまりむら)を実力で占拠します。大内氏の明け渡しの斡旋(あっせん)も拒否しています。平賀氏は田万里村の支配を続けるため、速やかに田万里村に兵を出せる白市に白山城を築いたのではないでしょうか〟
 平賀氏は前記のように積極的に領地を拡大し、当初高屋保のみ領地としていましたが、入野郷・造賀保・河内・郡戸・戸野・田万里などを次々と領分にしました。

城の構造

※(注1)「頭崎城跡発掘調査報告書」より引用・加筆

 標高314㍍の山頂に位置する「主郭」は、千畳敷(せんじょうじき)とも呼ばれる最高所から東下(ひがしさ)がり三段に分かれ、山頂の郭と東端の郭の南側に虎口(こぐち)(城の出入り口)を備えています。主郭の周囲を巡る帯郭は「二の丸」と呼ばれ、主郭の南西に二の丸から一段高く「三の丸」が独立しています。多くの郭が配され、全山が城郭化されています。

城下町〝白市〟

※(注2)「安岐のまほろば」より引用・加筆

 平賀氏は白山城築城後、白市を城下町としそこに約120㍍×80㍍の居館「御土居(おどい)」を築きました。白山城と御土居を町の中心に据え、白山城の守りとして武家屋敷を白市に入る谷筋に集め、「養国寺」「浄土寺」「長慶寺」などの寺院を北側の丘陵上に置いて宗教的空間とし、白山城と御土居の間に商工業者を集めており、白市は計画的な都市であったことが推測できます。

頭崎城跡 (所在地:東広島市高屋町貞重)

頭崎城跡(県史跡・南方より遠望)

頭崎城の歴史

 頭崎城が築かれたのは、大内氏の鏡山城が尼子経久のために落城した1523(大永3)年と伝えられています。
 鏡山城の落城後、反撃に出た大内氏は尼子方の国衆を次々と制し頭崎城に迫りましたが、平賀弘保は大内氏を撃退し、戦勝記念として頭崎神社を建立したと伝えられています。(頭崎神社の本殿は〝市重要文化財〟に指定)
 1535(天文4)年に始まる平賀弘保と嫡男興貞(おきさだ)との不和は、翌年武力紛争に発展し、弘保と興貞の子隆宗は白山城によって大内氏方に、興貞は頭崎城にこもって尼子方に付き、大内・尼子両氏を巻き込んだ大規模な戦争に発展しました。
 40(9)年、尼子詮久(のりひさ)(後の晴久(はるひさ))は安芸の尼子方支援と頭崎城包囲を解かせる目的で、3万とも言われる大軍で毛利元就の郡山城を包囲しました。毛利氏の激しい抵抗と大内氏の援軍によって大敗した尼子氏は翌年出雲に撤退し(「郡山城合戦」)、その結果頭崎城は落城して興貞は隠居に追い込まれました。

城の特徴と構造

※(注1)「頭崎城跡発掘調査報告書」より引用・加筆

 安芸国の有力国衆の一人、平賀氏の居城であっただけに、城跡の規模・構成は安芸国有数のもので、多くの郭で構成されています。
 標高504㍍(比高約200㍍)の頭崎山に築かれており、山頂の主郭・本丸を中心にあらゆる尾根に13の郭群を伸ばし、東西約900㍍、南北約600㍍におよぶ大規模なものです。

おわりに

 頭崎城の落城後、興貞の長子隆宗(たかむね)が平賀氏の家督を継いで頭崎城の城主となり、大内氏に属しますが神辺城合戦で急に病で亡くなりました。大内義隆は平賀氏と縁のない隆保(たかやす)を押付け養子として頭崎城に入れます。
 51(20)年、大内義隆は重臣陶隆房の謀反により果て、陶隆房の命で毛利元就が頭崎城を攻撃し、隆保は槌山城へ落ち延び槌山城合戦で自刃したと伝えられています。毛利元就の強力な支援で興貞の次子の広相(ひろすけ)が平賀氏の当主になりました。
 やがて平賀氏は戦国大名毛利氏に属する有力な国衆・国人としての地位を確定し、東広島を中心に約1万8000石余の所領を有する大名に成長しました。
 貞重地区の人たちは、頭崎城跡を地域のシンボルとして1979(昭和54)年に第1回の整備清掃活動を始め、現在まで45年間続けられています。83(58)年にはこれらの活動が評価され、貞重地区は「農林水産省村づくり部門」で大臣賞を受賞しています。

※参考文献:「安芸の城館」
 「頭崎城跡発掘調査報告書」 他

プレスネット編集部

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