南方熊楠・夏目漱石・芥川龍之介の文章に見る「人間以外の目線」での散歩【文学をポケットに散歩する/スケザネ】
文学作品の表現の一節に“散歩”的要素を見出せば、日々の街歩きのちょっとしたアクセントになったり、あるいは、見慣れた街の見え方が少し変わったりする。そんな表現の一節を、作家・書評家・YouTuberの渡辺祐真/スケザネが紹介していく、文学×散歩シリーズ【文学をポケットに散歩する】。今回は、南方熊楠、夏目漱石、芥川龍之介の作品・文章をご紹介します。人間以外の視点を大切にした書き手でもある彼らの言葉を通して、いつもの散歩コースがまったく異なる映り方をする体験を、ぜひしてみてください。
油断していると、人間から見えるものだけが、世界の全てだと思い込んでしまう。
だが、ハエには紫外線が、蛇には赤外線が見えるというし、渡り鳥は磁場を感じながら飛行する。コウモリやイルカは超音波によって環境を認識できるという。
植物に知覚はないかもしれないが、我々動物と違って、生きていくために必要なエネルギーを自身で生み出すことができる。
解剖学者の三木成夫は、植物が太陽、無機物、水、二酸化炭素という自然由来の要素によって生命を維持する様を指して、地球の条件にもっともすなおに応じた、自然の在り方だと述べている。一方で、人間を含む動物は、植物や他の動物といった、他者のエネルギーを摂取する(野菜や肉を食べる)ことで生きており、動物特有の移動(歩行、泳ぎ、飛行など)はその手段として必然的なものだと指摘している(『ヒトのからだ』うぶすな書院、1997年)。
つまり、生命の根幹たるエネルギーとその摂取方法が違う。彼らにとって、世界との関わり方は我々と大きく異なるはずだ。
今回は、人間以外の視点を大切にした書き手を紹介する。
彼らは、山野をかけめぐったり、家に迷い込んだ迷い猫になりきったりしながら、その視点を手に入れた。
そう、今回紹介する書き手は、人間以外の視点で散歩をする達人たちだ。
きっと彼らの言葉を読めば、いつもの散歩コースは、まったく異なる映り方をするはずである。
散歩をして最もうれしい時とは/南方熊楠「神社合祀に関する意見」
人間本位ではない視点に立った日本人の代表に、南方熊楠(みなかたくまぐす)という人物がいる。
慶応3年(1867)に和歌山県に生まれ(まだ江戸時代だ!)、アメリカやイギリスに渡り、数カ国語を操りながら、同時に山野を走り回っては、動植物や粘菌の採集・経験に人生を捧げた。日本初の自然保護運動を展開したことでも知られる。
時にほぼ全裸で山を駆ける姿から、ついたあだ名は「天狗」を意味する「てんぎゃん」。
熊楠は全身で自然を感じていた。
熊楠が神社合祀(明治時代に行われた神社の整理政策。複数の神社を一つにまとめることで、神社の数を減らそうとした)に反対した意見書に次のような言葉がある。
すなわち言語で言い顕わし得ぬ冥々の裡に、わが国万古不変の国体を一時に頭の頂上より足趾(あしゆび)の尖(さき)まで感激して忘るる能わざらしめ、皇室より下凡民(ぼんみん)に至るまで、いずれも日本国の天神地祇の御裔(みすえ)なりという有難(ありがた)さを言わず説かずに悟らしむるの道なり。古来神殿に宿して霊夢を感ぜしといい、神社に参拝して迷妄を闢(ひら)きしというは、あたかも古欧州の神社神林に詣でて、哲士も愚夫もその感化を受くること大なるを言えるに同じ。
(南方熊楠「神社合祀に関する意見」)
趣旨:言葉では言い表せない何かがあり、それは我が国に古から伝わる国の根源を、頭の先からつま先まで、全身に感じさせる。天皇から市民に至るまで、皆が日本古来の神々の末裔(まつえい)であることを、言葉ではない方法で悟らせるのである。
言葉ではない、何か大きなものを感じられる。それが実際に森や神社(神社はだいたいが自然とともある)に身を浸したときに抱く感慨である。
熊楠は、人間の言葉に回収しようとしない。正確に言えば、回収できない何かが自然にはあると分かっていた。
私は先日、高野山に数日間こもってきた。弘法大師空海がひらいた真言宗の総本山だ。
特に、空海が今なお瞑想をしているとされる奥の院と呼ばれる森一帯は、深い印象に残っている。
沈黙に満たされながら、時に鳥や虫、葉擦れの音がささやき、幾筋からの木漏れ日が遊び、土や木々の匂いが立ち込め、風が体を吹き抜けていく。
言葉だけが追いつかなかった。
(広い意味での)散歩をして、最もうれしいのはこういう時だ。
我々は社会で生きていると、だいたいが言葉と付き合う必要がある。学校や会社、SNSやメール、雑談など、社会のほとんどは言葉で成り立っている。
言うなれば、言葉とは人間世界のルールやしがらみそのもので、僕らはそれでくたびれ、傷つき、傷つけられる。
そんなときに言葉の外に出る。すなわち人間ではない何かと触れ合ってみる。
散歩の大きな効用がここにあるだろう。
目線を変えるだけで「心の散歩」は実現できる/夏目漱石『吾輩は猫である』
とは言え、そうそう旅行に行けないし、言葉を完全オフにするのもまた至難の業だ。
そこで次善策として、人間以外の動物になりきってみるというのはどうだろう。
とりわけ、近代化による工業化や都市化が進む中で紡がれた、人ならざる存在を描いた文学は、社会にいながら社会から離れたいという我々の欲求に通ずるものがある。
例えば、みなさんご存じの夏目漱石『吾輩は猫である』だ。
やたらと語彙力豊富で、シニカルな「猫」が、中学の英語教師の家に住む。彼の家にやってくる人々や近所の人間たちを観察し、バカだなあと笑っていく小説だ。
かなり長いが、全体を通して大きなストーリーがあるわけではなく、現代風に言えば新聞四コマのようなものだと思ってもらえればいい。
いつも寝てばかりの家主(漱石自身がモデル)を揶揄ってみたり。虎に変身して家主をパシる夢をみたり。運動をしない人間を皮肉り、自分も何か運動をせねばと、蟷螂(かまきり)を狩ったり木登りをしたり。ネズミと格闘する際に、武運長久ならぬニャン運長久を祈ったり。人間の顔面に関わる美醜について、猫と比較してみたり。
そんな愉快な物語だ。
松に上ったり下りたりする、松滑りという遊びについて、こんなふうに語る。
元来松は常磐(ときわ)にて最明寺(さいみょうじ)の御馳走(ごちそう)をしてから以来今日(こんにち)に至るまで、いやにごつごつしている。従って松の幹ほど滑らないものはない。手懸りのいいものはない。足懸りのいいものはない。——換言すれば爪懸(つまがか)りのいいものはない。その爪懸りのいい幹へ一気呵成(いっきかせい)に馳(か)け上(あが)る。馳け上っておいて馳け下がる。馳け下がるには二法ある。一はさかさになって頭を地面へ向けて下りてくる。一は上(のぼ)ったままの姿勢をくずさずに尾を下にして降りる。人間に問うがどっちがむずかしいか知ってるか。人間のあさはかな了見(りょうけん)では、どうせ降りるのだから下向(したむき)に馳け下りる方が楽だと思うだろう。それが間違ってる。君等は義経が鵯越(ひよどりごえ)を落(お)としたことだけを心得て、義経でさえ下を向いて下りるのだから猫なんぞは無論下(し)た向きでたくさんだと思うのだろう。そう軽蔑(けいべつ)するものではない。猫の爪はどっちへ向いて生(は)えていると思う。みんな後(うし)ろへ折れている。それだから鳶口(とびぐち)のように物をかけて引き寄せる事は出来るが、逆に押し出す力はない。今吾輩が松の木を勢よく馳け登ったとする。すると吾輩は元来地上の者であるから、自然の傾向から云えば吾輩が長く松樹の巓(いただき)に留(とど)まるを許さんに相違ない、ただおけば必ず落ちる。
(夏目漱石『吾輩は猫である』)
こんな風に松の木を戯れることは人間にはできない。猫ならではの語りだ。
もちろん、その眼差しは人間にも向けられる。
人間にせよ、動物にせよ、己(おのれ)を知るのは生涯(しょうがい)の大事である。己(おのれ)を知る事が出来さえすれば人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。その時は吾輩もこんないたずらを書くのは気の毒だからすぐさまやめてしまうつもりである。しかし自分で自分の鼻の高さが分らないと同じように、自己の何物かはなかなか見当(けんとう)がつき悪(に)くいと見えて、平生から軽蔑(けいべつ)している猫に向ってさえかような質問をかけるのであろう。人間は生意気なようでもやはり、どこか抜けている。万物の霊だなどとどこへでも万物の霊を担(かつ)いであるくかと思うと、これしきの事実が理解出来ない。しかも恬(てん)として平然たるに至ってはちと一(いっきゃく)を催したくなる。彼は万物の霊を背中(せなか)へ担(かつ)いで、おれの鼻はどこにあるか教えてくれ、教えてくれと騒ぎ立てている。それなら万物の霊を辞職するかと思うと、どう致して死んでも放しそうにしない。このくらい公然と矛盾をして平気でいられれば愛嬌(あいきょう)になる。愛嬌になる代りには馬鹿をもって甘(あまん)じなくてはならん。
(夏目漱石『吾輩は猫である』)
お前ら人間は、偉そうなことを言ってるくせに自分のことすら分かっていない。それなのに偉そうだ、せめてバカで愛嬌があるように振る舞え、と痛烈だ。
始終、この調子である。
日本近代文学の中でも指折りの有名作だが、意外なほどに何も起きず、舞台はほとんど家とその近所だ。
ただ猫の語りが面白い。目線を変えるだけで、近所でもこんな風に楽しめるし、「心の散歩」は実現できる。
人ならざる者の国に迷い込む/芥川龍之介『河童』
もう一つ、人ならざる者を軸に据えた小説に、芥川龍之介『河童』がある。
精神病院の患者が、河童の国に迷い込んだ頃の話をする、という体裁だ。哲学者や詩人、資本主義を徹底した河童など、個性豊かな河童たちとの交流で、言わずもがな人間社会の戯画であり、理想である。
男は河童の言葉を学びながら、河童の国の価値観に少しずつ染まっていく。
そんなある日、男は河童の国の宗教「生活教(近代教とも)」の施設へ案内してもらうことになる。
或生温い曇天の午後、ラツプは得々と僕と一しよにこの大寺院へ出かけました。成程それはニコライ堂の十倍もある大建築です。のみならずあらゆる建築様式を一つに組み上げた大建築です。僕はこの大寺院の前に立ち、高い塔や円屋根を眺めた時、何か無気味にさへ感じました。実際それ等は天に向つて伸びた無数の触手のやうに見えたものです。僕等は玄関の前に佇んだまま、(その又玄関に比べて見ても、どの位僕等は小さかつたでせう!)暫らくこの建築よりも寧ろ途方もない怪物に近い稀代の大寺院を見上げてゐました。
(芥川龍之介『河童』)
人間世界のあらゆる宗教様式が混ざり、さらにそこに祀られているのはトルストイ、ニーチェ、国木田独歩など人間世界の偉人たちだった。
面白いのはその長老だ。彼は妻の財布から金を盗んでいるし、自分の宗教について疑いを持っている。
どうしようもない奴が、それもそのはず、生活教は河童の言葉で「飯を食つたり、酒を飲んだり、交合を行つたり」を意味する。
宗教なんてそんなもんさという皮肉なのか、あるいはこんな宗教があってもいいじゃんという開き直りなのか。
しばらくして男は河童の国から人間の国に戻ってくるのだが、人間世界になじめなくなってしまい、事業に失敗し、ついには「河童の国へ帰りたい」と思うようにまでなる。
「行きたい」ではなく、「帰りたい」なのである。
結局、彼は精神病院へと入れられてしまうのだが、彼は病室で河童たちに出会い、電話帳に河童たちの詩を見出す。
頭がおかしくなってしまったとも捉えられるが、人間以外の言葉や価値観を身につけた喜びと苦しみとも捉えられるかもしれない。
くれぐれも人間以外の目線でも散歩はほどほどに。
出典一覧
南方熊楠「神社合祀に関する意見」青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/525_47860.html
夏目漱石『吾輩は猫である』青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/789_14547.html
芥川龍之介『河童』青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/69_14933.html
文=渡辺祐真/スケザネ 写真=PhotoAC
渡辺祐真/スケザネ
作家・書評家・YouTuber
1992年生まれ。東京と京都に二拠点生活中。作家、YouTuber、ゲームクリエイター。
毎日新聞「文芸時評」、共同通信社「見聞録」担当。TBSラジオ「こねくと」、「文化系トークラジオLife」。NHKラジオ「スケザネの古典は笑って読め!」。著書に『物語のカギ』ほか。プロフィール写真:©︎Kenta Koishi