奈良の名僧、若き僧侶への嫉妬で地獄行き「なぜあいつばかり…!」
元興寺とは
元興寺(がんごうじ)は「古都・奈良の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されている、奈良市にある寺院である。
場所は奈良の観光スポットとして人気の「ならまち」に位置しているが、かつてこの一帯は広大な元興寺の伽藍が広がっていた。
そもそも元興寺は、日本最古の本格的仏教寺院である飛鳥寺(法興寺)が、710年の平城京遷都に伴い飛鳥寺の僧坊の一部が奈良へ移され、その際に元興寺と称された。
当時の元興寺は、東大寺や興福寺とも肩を並べる大寺院であり、南都七大寺(なんとしちだいじ)のひとつとして興隆を極めていた。
しかし、平安時代に入ると律令制度の衰退とともに、興福寺の台頭や仏教界の変化が影響し、元興寺は次第に衰退していったのである。
僧・智光と僧・行基のエピソード①
そんな元興寺の歴史の中で、智光(ちこう)と、行基(ぎょうき)という僧侶の興味深いエピソードがあるのをご存じであろうか。『※日本霊異記』
智光は元興寺の僧で、三論宗(さんろんしゅう…大乗仏教の一宗派)の学僧として、多くの書物を著したことで知られる。
あるとき智光は、位の高い僧として河内国(大阪府)で開かれた法会で説法を行った。
説法が終わり、智光が高座から降りようとしたとき、堂の後ろから論議を求める声が上がった。
その声の主は若き少僧である、行基であった。
智光は「この私に対して若い田舎法師が論議などありえないことだ。」と怒って会場を去っていったという。
行基の社会事業活動
後に行基は、広く民衆に対して布教活動を行うだけでなく、貧しい人々に食糧や宿を提供するための布施屋を建設したり、さらには道路、橋や新田開発などの土木工事にまで携わるようになった。
しかし、当時の朝廷は「僧尼令」によって、国家公認の官僧以外の僧(私度僧)に厳しい規制を課しており、僧が民衆に直接布教することは禁じられていた。このため、行基の活動は朝廷の方針に反するものとみなされ、何度も弾圧を受けることとなった。
それでも行基は、彼を支持する僧や民衆とともに「行基集団」と呼ばれる組織を形成し、民衆の支持を得ていった。
やがて朝廷も行基の事業が単なる布教活動ではなく、公共の利益につながることを認めるようになった。
そして最終的には、聖武天皇の信任を得て、奈良の大仏造立を託されるまでに至ったのである。
僧・智光と僧・行基のエピソード② 智光の嫉妬
こうして行基が人々から称賛を集め、広く活動するようになると、智光は「なぜわしのように学識ある者ではなく、浅学の小僧、行基ごときがチヤホヤされるのか」と嫉妬の念を募らせた。
このような嫉妬心からか、智光は河内国の椙田寺(すぎたでら)に引き籠り、やがて病を患い、そのまま息を引き取った。
しかし、死後十日が経った頃、智光は奇跡的に蘇生し、弟子たちを集めてこう語った。
「わしが閻魔王の使いに連れられ歩いていた道中、黄金でできた宮殿があったので、これはどういう宮殿ですかと尋ねたところ、『行基菩薩が生まれるところだ』と答えた。
さらに進むと先の方に炎が燃え盛る山が見えたので、あそこはどういうところか尋ねると『おまえが堕ちる地獄だ』と答えた。
驚いたわしは閻魔王に、なぜわたしが地獄に堕ちなければならぬのか?と尋ねたところ、『お前は醜い心で行基を妬み、誹謗した。当然の罰じゃ』というではないか。
そしてわしは地獄の業火に焼かれ苦しまなければならなかった。そうしてやっと罪を償い赦してもらい生き返ったのじゃ…」
智光は涙を流しながらそう語り、深く後悔の念を抱いたという。
智光と行基の和解
その後、智光は自らの罪を謝るため行基のもとを訪ねた。
行基はその頃、摂津国の難波の江の橋を造り、江を掘って船着き場を造っているところであった。
行基は智光が訪ねてくることをなぜか知っており、智光を見ると、笑顔で迎えたのであった。智光は杖にもたれて、恭しく礼拝して、涙を流して赦しを乞うたという。
この逸話は智光の嫉妬や謝罪、行基の慈悲深い対応を通じて、人間の弱さと仏道の寛容さを示したものである。
智光ほどの身分の高い学僧であっても、このような醜い心を抱いてしまうというところに人間味が感じられる。
現在の元興寺
現在の元興寺は、奈良市の観光スポット「ならまち」の一角に位置し、境内には多くの歴史的建造物が点在している。
なかでも境内の中心部にある極楽坊本堂は、鎌倉時代に再建されたものではあるが、平安時代の建築様式を伝える貴重な遺構である。
この極楽坊には、元興寺の本尊として、智光が感得した浄土の姿を描いたとされる「智光曼荼羅図」が安置されている。
奈良を訪れた際には、是非元興寺に足をのばし、僧・智光の魂に想いを巡らせてみてはいかがだろうか。
参考 : 『今昔物語』『日本霊異記』他
文 / 草の実堂編集部