『家出に自殺未遂』やなせたかし氏の陰キャな中学時代 〜弟・千尋を何度も投げ飛ばす
朝ドラ「あんぱん」で、のぶ(今田美桜)と良い雰囲気の千尋(中沢元紀)を見て、ジェラシーを感じる嵩(北村匠海)。
兄弟というのは、時として一番身近なライバルになってしまうものなのでしょうか。
劇中、嵩が弟を指して「出来過ぎだよ」と言うセリフがありましたが、史実でもやなせたかし氏(本名・柳瀬嵩)は、勉強もスポーツも万能な弟に劣等感を抱き、自暴自棄になった時期がありました。
伯父夫婦に溺愛されている弟への強い嫉妬は劣等感へと変わり、中学に入ると反抗期と相まって卑屈さは一層加速。やり場のない気持ちから自殺を考え、ドラマと同じように線路に横たわったこともあったそうです。
モヤモヤとした中学時代を、やなせたかし氏は「暗黒時代」と語っています。
今回は兄弟のエピソードを交えながら、やなせ氏の中学時代を深掘りしてみたいと思います。(以下敬称略)
弟と比べられ傷つく嵩
「お兄さんは父親に似ておとなしいが、器量が悪い。弟さんはお母さんに似てハンサムだし愛嬌がある」
不細工で陰気な兄と、美貌の母親の血を受け継ぎハンサムで快活な弟。
幼い頃から嵩は弟と比べられることが多く、その度に胸をえぐられるような痛みを感じていました。
昭和6年(1931年)、嵩は高知県立高知城東中学校(現・県立高知追手前高校)に入学します。
思春期を迎え、容貌に対するコンプレックスや孤独感から、嵩の精神状態はとても不安定になっていました。
優しく接してくれる伯父夫婦が疎ましく、そのくせ寂しさや孤独を感じては、こんなに涙が出るのかと思うほど泣けてしまう。
陰気で強情でひねくれていて、とにかく扱いにくい中学生でした。
この頃、嵩は初めて恋をします。お相手は通学の汽車で見かけた女学生で、日がな一日、考えることといえば彼女のことばかり。
想いはどんどん強くなり、勉強が全く手につきません。
小学校を首席で卒業した嵩でしたが、成績は急降下し始め、200人中70番あたりをウロウロし出すようになります。
特に数学が致命的で0点に近い点数を取ることもあり、すっかり勉強への自信を無くしてしまったのでした。
ちなみに初恋のほうはというと、嵩は変名でラブレターを彼女に送ったのですが、待ちに待った返事には、彼女の父親の字で「次にこんなことをしたら学校に報告する」と書かれていました。
中学1年生の淡い恋は、成就することなく終わったのでした。
「なんのために生まれてきたのか」自殺未遂と家出
優しい伯父夫婦の家で何不自由のない生活をさせてもらっている一方、厄介者と思いこみ小学生時代から肩身のせまい思いをしていた嵩。
本当は行きたい修学旅行も費用を出してもらうのが心苦しく、伯父に「行きたくない」と嘘をついていました。
思春期に突入し、伯母の優しさにも素直になれず、つい冷たい態度をとってしまう自分に嫌悪する毎日。
学業にも身が入らず、これまで以上に鬱屈した日々を送っていたある日、嵩は突飛な行動に出ます。
それは中学2年の夏でした。夜遅く、行くあても無いまま、ふらふらと家を出た嵩は、ふと気づくと線路に身を横たえていました。
汽笛が鳴り、はっと目を開けると、すぐ近くまで煙を濛々とあげた汽車が迫っています。
とっさに我に返り、転がるようにして線路の外へ転び出ると、間一髪で轟音とともに列車が通り過ぎました。
なんのために生まれてきたのか分からず、モヤモヤした気持ちを抑えきれなくなった嵩は、家出を考えたこともありました。
製材所の木材の中に隠れていると、伯父と伯母が手配した捜索隊なのか、大勢の人間が嵩の名前を呼びながら探し回る大騒ぎとなっていました。
出るに出られず、嵩は息を殺し、ひたすら隠れているしかありません。
しばらくして辺りが静かになり、夜中の3時を過ぎた頃、嵩は家に戻りました。
「よく帰ったな」
伯父は、それ以外は何も言わず、伯母はただただ泣いていました。
弟が立てなくなるまで投げ飛ばした嵩
嵩が悶々とした日々を送る中、2年遅れで弟の千尋も同じ中学に入学します。
嵩は中学の柔道部に入部してまもない頃、小学生の千尋相手に技をかけてよく遊んでいました。
千尋も面白がって、兄弟は毎日のようにドタバタと柔道ごっこに興じていました。
しかし、嵩と同じ柔道部に入部した千尋に、嵩の技は通用しなくなっていきます。
ある日、いつものように二人で柔道をしていると、千尋のしかけた技がみごとに決まり、嵩は盛大にしりもちをつきました。
千尋が得意そうに笑ったその瞬間、嵩の中で何かが弾けました。
頭の中が真っ白になり、嵩は背負い投げで弟を投げ飛ばしました。まるで狂気にとりつかれたように、何度も何度も投げ飛ばし、弟が立てなくなるまで痛めつけたのです。
涙を浮かべた千尋に「兄ちゃん、なんでそんなひどいことするの」と言われたとき、嵩の頭をよぎったのは、「弟には一生かなわない」という予感でした。
その後、初段に手が届かない嵩を尻目に、千尋はあっという間に二段に昇進。嵩は柔道部を退部し、陸上部も挫折した後、バレーボール部のマネージャーに落ち着きました。
嵩の予感は的中し、勉強も運動もあっさりと自分を追い越してしまう弟への劣等感は、より一層嵩を苦しめることになるのでした。
弟へのわだかまりを解いてくれた父の写真
ある時、嵩は千尋の教科書のなかに一枚の写真を見つけます。
誰にも気付かれぬように、こっそりと挟まれていたのは、父の写真でした。
新聞記者として赴任していた中国で、31歳という若さで父が亡くなった時、3歳だった千尋は子どものいない伯父夫婦に引き取られました。
幼い千尋は両親のことなど覚えているはずもなく、だからこそ伯父夫妻の本当の子どものように素直にスクスクと育ったのだと思っていた嵩は、千尋が実の父親を慕っていたことを知り、頭を殴られたような気がしました。
べそべそと泣いている時も顔いっぱいの笑顔の時も、その裏にいつも両親への思いを隠していた千尋。
遠ざかる母の白いパラソルを二人で見送ったあの日、千尋は二度も母親に捨てられたのです。
「兄ちゃんと一緒じゃなきゃイヤだ」そう言っていつも嵩にまとわりついてきたのは、これ以上別れを経験したくない一心だったのかもしれません。
何もかも分かっていながら、伯父夫妻のために甘えん坊を演じ、実の母と知りながら「おばさん」と呼ばなければならなかった千尋の悲しみを、一度だって自分は考えたことがあっただろうか。
千尋の胸の内を知った嵩は、弟が愛おしくてたまらなくなりました。
それと同時に、本当の両親への思いを断ち切れない自分たちに、愛情を注いでくれる伯父夫妻に心から申し訳なく思うのでした。
凝り固まった劣等感はほどけていき、嵩の暗黒時代には終止符が打たれました。
父親の写真によって平静を取り戻した嵩。黄ばんだ写真の発見は偶然ではなく、亡き父親の強い想いによる導きだったのかもしれません。
参考文献
やなせたかし『絶望の隣は希望です!』小学館
やなせたかし『おとうとものがたり』フレーベル館
文 / 草の実堂編集部