3.11孤立集落救出「命の道」をふるさとへ――6日間の闘い【新プロジェクトX 挑戦者たち】
東日本大震災の発災直後、幹線道路や国道が津波による大量のがれきで塞がれ、数多くの孤立集落が生まれた。その中の一つ、岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)日向(ひかた)地区では、地元の建設業者たちによる必死の復旧作業が被災当日から始められ、多くの命が救われた。ライフラインが寸断される中、どのようにして命の道はつなげられたのか?『新プロジェクトX 挑戦者たち 4』の第三章「孤立集落へ 命の道をつなげ――東日本大震災 6日間の闘い」より、冒頭を特別公開。
孤立集落へ 命の道をつなげ――東日本大震災 6日間の闘い
発災当日 孤立したふるさと
岩手県釜石市鵜住居 日向地区
「海から霧のような、白い飛沫しぶきのようなものを吹き上げながら、すごいスピードで水が押し寄せて来るんです。あらゆるものが飲み込まれていって……。この町はこれで終わりだ、そう思いました。……ものすごいがれきの量で、それを見たら、これはもうどうにもならないなって」(二本松誠)
「家屋、スーパーマーケット、神社、そして船までもが、どんどんどんどん目の前を流れていくんですよ。もう怖さのあまり体が震えて、声も出ませんでした」(小笠原津多子)
「それまで津波なんて経験したことがなかったので、どれほどのものなのか、正直ぜんぜんわかっていませんでした。でも、とにかくひどかった。津波で、町がこんなにも壊れるものなのかと……」(藤原利一)
「これは地獄だな、って。まさかこんな光景を、自分が生きている時に見るなんて思ってもみなかった。とにかく大変だ、と。いや、『大変』だなんて言葉も当てはまらないくらいの、想像を絶する惨さん状じょうでした」(藤原善生)
「こんなことは経験したことがない、初めて見る光景でした。何人の人が流されたのか、何人の人が亡くなったのか。とにかくみんな逃げてくれていたらいいなと、そればかりを祈っていました」(小笠原保)
2011(平成23)年、東日本大震災の発災直後。東北の沿岸部を南北に走る大動脈たる幹線道路、国道45号線が津波による大量のがれきで塞がれ、数多くの孤立集落が生まれた。そんな寸断された土地の中の一つに、岩手県釜石市鵜住居があった。同地には、震災前6600人が住んでいたが、震災で住民の1割が亡くなり、7割もの住宅が被災した。
この時、多くの住民が閉じ込められたのが日向地区。三方を山に囲まれた集落の入り口は、大量のがれきに塞がれてしまい、ライフラインが絶たれた。けが人や病人もいる中で、食料や薬などの物資が何も手に入らなくなった。人々は命の危機にさらされた。
そんな孤立した地区を救うため、立ち上がったのは、地元の建設業者たちだった。道を切り開くため、誰に頼まれるでもなく、がれきの山に突入した彼らもまた被災者だった。しかし、愛するふるさとを守るため、そして、助けを待つ大切な人たちのために、彼らは変わり果てた世界へと足を踏み出した。
一方、集落に閉じ込められた人々もまた、手を取り合い生きるために闘い抜いた。女性たちはわずかな食料を出し合い、温かいご飯を届ける炊き出しを始めた。消防団の若者たちは、自分たちの誇りでもある半纏を羽織り救護活動に奔走した。
これは、ある孤立集落を救うために命の道をつなげた人々の、知られざる6日間の物語である。
地域で紡がれてきた平穏な日々
山あいの集落に200世帯、400人ほどが暮らす日向地区。その東の端には、住民たちが手作りした大切な場所がある。1979(昭和54)年に造成された野球のグラウンドだ。中心になって作ったのは、地区の盛り上げ役だった小笠原清二。地元の建設業者だった。「子どもたちのためのグラウンドを作ってくれないか」と頼まれた清二は、仕事に行く前、朝4時から連日ボランティアで作業をした。こうしてできたグラウンドのまわりには、やがて集会所や公園も作られ、夏には盆踊り、秋にはお祭りと、住民たちの結び付きを育む場所になっていった。
そして、事故により若くしてこの世を去った父・清二の思いを受け継ぎ、23歳で建設業者になったのが息子の小笠原保。彼は、大きな重機に乗って働く父親に憧れを抱いていた。しかし跡を継いで以降、その仕事は決して楽なものではなかったという。
「今、振り返ると、震災前はどん底に近い状況でした。建設業全体が落ち込んでいる状態で、仕事の量は年々減り続けていて、ひどい時は通帳に500円しか残らない時とかもありました。毎月毎月、本当に綱渡りしているようなありさまで、考えることは『これからどうなるんだろう?』ということばかり。10年、20年先のビジョンなんて思い描けませんでしたし、常にやめ時はいつかと考えていました。土木の仕事は好きですし、建設業自体はなくならない仕事だと思ってはいましたが、とても生活していくことができないくらいの仕事しかないとなると、やはり無理だよなと。そろそろ潮時か……でも、もうちょっと踏ん張ってみるか……この繰り返しでした」
そんな保が家業を諦めることなく続けてこられたのは、父の代から続く地域のつながりが大好きだったからだ。鵜住居、そして日向地区に暮らす人たちの家族のようなあり方や、ここぞという時の団結力の強さをずっと見せられてきたし、見てきたという自負もあった。彼にとって、それは理想とする幸せな生活そのものだった。
しかし、父親の手によるグラウンドができてから33年目の2011(平成23)年3月11日。平穏な日常は、突然奪われることとなった。
巨大地震の発生、そして津波
午後2時46分。三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生、沿岸部を津波が襲った。
「高いところへ! 上だ上だ! 上に逃げろ!」
迫り来る危機を知らせる怒号が飛び交った。皆が、少しでも高いところへと向かって走った。
従業員を1人連れ、急な測量の仕事で海から50キロ離れた内陸部の遠野の市へと赴いていた小笠原保は、それまで経験したことのない大きな揺れに遭遇した。近くに停車されていた12トンクラスの重機が、止まっている状態にもかかわらず地面の上でバウンドしていたほどの揺れだった。
「これは、とんでもない地震だ」
「津波が来るぞ」
瞬時にそう悟さとった。
揺れが収まると、近くで働いていた人たちもみんな外に出てきた。現場の担当者に「津波が来ると思うから、俺はもう帰る」と伝え、保は測量機器をしまい、すぐさま釜石市に向かって車を走らせた。
車中でラジオをつけると、「津波警報が発令されました」というアナウンサーの声が聞こえてきた。
「『2メートルの津波が来ます』という発言のすぐ後に『3メートルの津波が来ます』、そのすぐ後に『4メートルの津波が』『5メートルの津波が』とどんどん伝えられる津波の規模が大きくなっていき、車が遠野バイパスに到達したあたりで『10メートル以上の津波が来ます。高台に逃げてください』という警告に変わっていました。家のある鵜住居はどうなってしまうのか、そんなふうに思ったのを覚えています」
地震発生から35分。保は祈るような思いで車を走らせていた。
この時点で、妻と小学3年生になる娘の安否がわかっていなかった。娘が通う小学校は、海のすぐそばにあった。電話をかけても通じず、いやが上にも不安が募り、焦る気持ちが強くアクセルを踏ませた。
その時、保の頭には「頼むから逃げていてくれ」という思いしかなかった。ただただ、そのことだけを祈りながら車を走らせた。
変わり果てたふるさと
午後4時、海から2キロの地点まで戻ってきた小笠原保。そこで、道路が水没しているのを目にした。ここまで水が来ているということは、もう鵜住居の町は全滅なのではないか。この分ぶんでは、おそらく自分の住むアパートも、実家も流されているだろう。いったい何人の人間が流され、命を失ったのだろうか。目の前の光景が、自分たちの置かれた状況が、信じられなかった。
保は車を乗り捨て、手がかりを求めて山伝いに歩き始めた。目指したのは、6日前に開通したばかりの高速道路・三陸縦貫自動車道(三陸道)。海沿いを走る国道45号線よりも内陸の、高架橋や高台の上に設けられていた。高さがあるために被害を受けず、多くの人たちが避難してきていた。
「誰かが、家族の行方を知っているかもしれない」
そう考えた保は、三陸道に集まっている人たちの中に知り合いがいないかと、周囲を見回しながら歩いた。言うまでもなく、妻と娘の行方を知りたい。生きていることを確認したい。しかし同時に、恐怖もあった。場合によっては、すでに亡くなっているという事実を、目の前に突き付けられる可能性もあったからだ。知りたいけれど、知りたくない。そんな相反する気持ちに引き裂かれそうになっていた。
そして、群衆の中に、見知った顔の小中学生とその保護者たちを見つけた。保は、妻と娘の行方を聞いた。すると、「一緒に上に逃げてきたよ」との返事──。聞いた瞬間、それまでピンと張っていた気が一気にゆるんだ。
「ああ、よかった」
妻と娘の無事を確認し、ホッとした保だが、安心したのも束の間のことだった。
三陸道の上から町を見下ろすと、そこには変わり果てたふるさとの姿があった。川をさかのぼり、信じられない量のがれきが押し寄せていた。そして、道路の真ん中には、形を保ったままの家屋がいくつも流れ着いているのが見えた。津波は、鵜住居の中心部を飲み込み、海から2キロ離れた日向地区の入り口にまで達していた。
日向地区には取り残された約300人の住民に加え、多くの避難者が命からがら逃げ込んでいた。ひとまず、逃げてきた人たちは助かった。しかし、目の前には喫緊の大きな問題があった。大量のがれきが道という道を塞いでいるため、緊急車両も入れず、支援物資も届けられない状態になっていたのだ。迅速に障害物を取り除くことが必要だったが、保の会社の事務所も重機も、流されてしまっていた。それでも、わき上がる思いがあった。
「ふるさとを救えるのは、自分しかいない」
保の中で、スイッチが切り替わった瞬間だった。
自ら立ち上がった住民たち
建設業者たちの決意
被災した人々を助けるために自分ができること──それは、がれきを何とかして除去し、道路を啓開(通行路を確保)すること、そして緊急車両を通すこと。今のままでは、病人を運ぶこともできなければ、火事があっても消防車も通れない。もちろん食料だって運べないから、遠からず飢えの問題も出てくるはずだ。
道を開くことこそが「生存」への道だ。それをやってのける。これは「土木屋」としての使命であり、俺たちにしかできないことだ。
自らを突き動かした使命感について、のちに保はこのように語った。
「自分たちが動かなくても、誰かが助けに来てくれるんじゃないか──そんな考えはまったくなかったですね。助けてもらおうという感覚が希薄で、自分たちのことは自分たちがやらなきゃ、という思いの方が圧倒的に勝っていたように思います。さらに言えば、うまくいかないんじゃないか、なんてことも微塵も考えていませんでした。絶対にやり遂げられる、いや、必ずやり遂げるぞという思いしかありませんでしたし、それを疑う気持ち皆無でしたね」
がれきの向こうに、助けを待つふるさとの人たちがいる。助けられるのは、土木屋である自分たちしかいない。
そう決意した保だったが、目下の問題は、がれきを取り除くための重機をどう手配したらよいかだ。そこで思い出したのが、近くにある重機のレンタル業者の存在だった。急遽向かうと、そこには運よく整備をしている従業員が残っていた。自分のやろうとしていることを説明し、翌日からの使用許可を取り付けた。
午後10時。保は仲間を探しに内陸へと戻り、消防団の詰所を訪ねた。詰所には消防団員や市役所職員など、町を救いたいと考えた人たちが集まっていた。
保はそこで、頼りになる2人を見つけた。「藤倉建設」の藤原善生と「藤原土木」の藤原利一。藤倉建設は保の学生時代のアルバイト先で、卒業後も保の会社からの出向というかたちをとって2年間ほど在籍した建設業者だ。保はここで土木のイロハを学んだ。そして、藤原土木の利一と保は中学校の同級生。ともに古くから知る仲間だった。
「各地で孤立集落が発生している。自分たちの手で道を切り開こう」
3人はこの思いを共有した。あとは夜が明けるのを待つのみだ。
一刻も早く、救助や物資を孤立した人々に届けるための闘いが、こうして幕を開けた。
生存者を死なせないように
3月12日、午前5時。小笠原保たちは、動き出した。まずは沿岸部に向かって東西方向に走る県道35号のがれきを取り除きながら、国道45号を目指す。そこから孤立した日向地区まで、合計2.5キロの道のりを切り開く計画だ。
午前5時30分、作業を開始した3人は思わず息をのんだ。想像を絶するがれきの山が行く手を阻んでいた。家の柱、屋根、車……かつて住民たちの生活を支えていた物が、ぐちゃぐちゃになって重なっていた。そして、現場にいた誰もが同じことを感じていた。
「このがれきの中に、生存者がいるかもしれない」
保たちは、がれきを一かきする度にエンジンを切り、人がいないか大声で確認をした。彼は、当時の作業をこう振り返る。
「普段も台風や豪雨といった災害時には、土砂を取り除いたりする作業はしているので、ことさら珍しい仕事内容ではありませんでした。でも、対象ががれきとなるとやはり勝手は違いましたし、何より、この下に人がいたらどうしようという怖さが常に付きまといました。重機というのは非常に力が大きいものなので、一瞬で人を殺してしまい得る。せっかく一命をとりとめていた人の命を、自分が奪ってしまうかもしれない──そうした緊張感の中で、すごく気を遣いながらの作業となりました。精神がジリジリとすり減っていく感覚があり、普段重機を扱う時の何倍も疲れたのを覚えています」
非常に慎重な作業が求められるため、1時間に進めるのは、わずか100メートルほどだった。
また藤原善生によれば、現場では、こんな問題も発生していたという。
「がれきを取り除く作業をしていたら、その場にあったガスボンベからプロパンガスが漏れていることがわかったんです。空気がこもるような場所ではありませんでしたが、引火したら危ないので、作業をしている従業員たちに重機でガスボンベを潰さないように注意すること、火を使わないこと──特にタバコを吸うのは我慢してほしいと伝えました。こんなストレスフルな状況なので、タバコくらい好きに吸わせてあげたかったのですが、万が一ということがありますからね」
他にも懸念材料があった。燃料の問題だ。がれきによって交通が遮断されているため、補給の道は断たれていた。今入っている軽油だけで重機を動かし、何とか道を啓開しなければならない。予想では、一日フルに稼働させ続けて、もって3日がいいところ。燃料を節約すべく、できるだけエンジンの回転数を上げないように努めた。
押し流された「当たり前」
一方、孤立した日向地区では、夜が明けると、住民たちが閉じ込められた深刻な状況を理解し始めていた。
日向地区の中で救護活動の先頭に立ったのは、地元の消防団員・二本松誠。10歳年下の小笠原保とは町内会の青年部「葉月会」のメンバー同士であり、地区の祭りなどを取りしきるうちに仲を深めた、兄弟同然の関係だった。彼もまた、目の前の想像を絶する現実を前に、途方に暮れていた。
「がれきの量を見たら、もうとんでもないというか、言葉を失いましたよね。とてもうちら消防団でどうにかできるような状態じゃない。お手上げだ、という気持ちでした」
誠の所属する釜石消防団第6分団第1部のメンバーは総勢15名。そのうちの10名以上が津波で家を流され、避難所生活を余儀なくされていた。この状態では、いくら消防団員だとしても、すぐに活動することは不可能だった。誠を含む今すぐに動ける残りのメンバーで、生存者を探したり、生活スペースのがれきを取り除くなど、目の前のできることから始めていくしかなかった。しかし惨状は、彼らの想像をはるかに超えていた。彼は当時を思い返し、こう話す。
「自分が想像していたよりも、身の回りの『当たり前』にあったものがなくなっていて……。さすがに、もうちょっとは何か残っていると思っていたのですが、本当に全滅状態でした。だって、頑丈だと思っていた建物──コンクリートや鉄骨の構造物すらも残っていないんですよ。これには絶句するしかありませんでした」
日向のおにぎり部隊
日向地区は、電気も水道も寸断されていた。この地区にスーパーはなく、食料は各家庭のわずかな備蓄だけ。電話も通じないため、助けが来る気配もなかった。そんな中、あのグラウンドの脇の集会所に、人が集まってきていた。炊き出しが行われていたのだ。配られていたのは温かいおにぎりだった。
炊き出しに立ち上がったのは地区の女性たち。通称「日向のおにぎり部隊」。中心になったのは、小笠原津多子だ。当時、町内会長である夫は仙台にいて不在。残った自分が、責任を持って、この地区を守らねばならないと思ったという。
山の沢水を交代で汲くみ、木の枝を焚き木にして火を起こした。そして、農家から譲ってもらった米を、備蓄していた防災グッズを利用して炊いた。
こうした作業がスムーズにいったのには、ある偶然も関わっていた。震災の2週間ほど前、たまたま同地で防災訓練として日本赤十字社による炊き出し研修が開催されていたのだ。その際に防災グッズのストックもチェックし、各家庭にも配れるよう、簡易的に米を炊くことのできる炊飯袋を2000枚注文していた。それが震災の前日に届いていたのだ。
津多子は、90歳になる母親を連れて集会所に赴き、自ら中心となり炊き出しを行った。
率先して活動する津多子だったが、彼女も決して心に余裕があったわけではなかった。高齢の母親の面倒を見る必要があったことに加えて、娘や息子など自分の家族の安否もわかっていなかったのだ。しかし、考えている暇はなかった。彼女は言う。
「鵜住居の町が津波で消えてしまったけれども、自分は生き残った。そして、まわりには困っている人たちがたくさんいる。町内会長の妻として、やれることはやらなきゃいけないという強い思いがありました。もちろん、大変でなかったと言えば噓になります。まるで経験のない事態で、とにかく混乱することばかりでした。何をしたらいいか、何から手をつけたらいいのかまるでわからない──だから、とにかく目の前のできることを一つ一つやっていくしかありませんでした。あの時は、ただただ自分ができることに専念していたのだと思います。今ここにいる困っている人たちのために、自分ができることに。それは私だけではなく、誰もが皆そうだったと思います」