『ラストエンペラー溥儀』なぜ異例の火葬に?清朝最後の皇帝の終焉とは
ラストエンペラー
清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)。
その本名よりも、「ラストエンペラー」という呼び名のほうが、世界では広く知られているだろう。
幼くして皇位に就きながら、時代の激流に翻弄され、最後は一市民として生涯を終えた彼の人生は、まさに波瀾万丈であった。
古来より、中国の皇帝たちは、王朝を問わず土葬を受けるのが常だった。
しかし、溥儀は異例にも「火葬」という道を辿ることになる。
清朝最後の皇帝として、伝統を重んじられる立場にあったにもかかわらず、なぜ彼の最期は土葬ではなく火葬となったのか。
今回は、溥儀の波乱に満ちた生涯をたどりながら、彼が「火葬」へ至った背景をひもといていく。
愛新覚羅溥儀の人生
1906年、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)は清朝の皇族に生まれた。
わずか2歳の幼子であった彼は、1908年、西太后の命によって皇帝に即位し、「宣統帝(せんとうてい)」と称された。
しかし、当然ながら幼児に国家を治める力量はなく、実際の政権運営は父親ら周囲の大人たちが担った。
1911年、清朝の支配に対する反発から辛亥革命が勃発すると、清朝の支配体制は急速に崩壊していく。
翌1912年、わずか6歳の溥儀は退位を余儀なくされ、清朝は名実ともに滅亡した。
その後、成立した中華民国では孫文が臨時大総統に就任するが、袁世凱との交渉により、溥儀は紫禁城(しきんじょう)に留まることを許され、名目的ながら皇帝の称号も維持された。
しかしこの時点で、清朝はすでに滅亡しており、溥儀もまた国を治める存在ではなく、形式だけの象徴にすぎなかった。
紫禁城での幽閉生活
清朝滅亡後も、溥儀は紫禁城に留まり、名目上の「皇帝」として暮らしていた。
しかし、その生活は外部との接触を厳しく制限された、実質的な幽閉生活だった。
華やかな宮廷に身を置きながらも、溥儀には自由がなく、国を動かすことはもちろん外の世界に関わることすらできなかったのである。
だが、この隔絶された生活も長くは続かなかった。
1924年、軍閥のひとりである馮玉祥(ふうぎょくしょう)が、政情不安に乗じてクーデターを起こし、北京を占領した。
馮は清朝の残滓を一掃するべく、紫禁城に残っていた溥儀にも退去を命じたのである。
追放された溥儀が向かったのは、北京の南東に位置する港湾都市・天津だった。
天津は外国勢力の租界地が広がり、軍閥の直接的な支配が及びにくい地であったため、国外への脱出も視野に入れた避難先として選ばれたのだ。
かつて帝位にあった者が、列強の勢力が渦巻く租界地に身を寄せざるを得なかったことは、まさに歴史の皮肉といえよう。
満州国 皇帝時代
天津での生活は、かつての皇帝だった溥儀にとって、決して安穏なものではなかった。
列強各国の租界がひしめくこの地で、彼はかろうじて生き延びていたものの、政治的な影響力など微塵もなく、過去の栄光とは程遠い日々を送っていた。
そんな中、彼に再び運命の波が押し寄せる。
当時、満州地域では日本の関東軍が勢力を拡大しており、自らの傀儡政権を樹立するため、名目上の「皇帝」が必要とされていた。
そして目をつけられたのが、かつての清朝最後の皇帝・溥儀だった。
1934年、満州国の建国とともに、溥儀は「皇帝」として担ぎ上げられる。
だがその地位は名ばかりであり、実権はすべて日本側に握られていた。
溥儀は再び「表向きの皇帝」という空虚な存在に押し込められたのである。
やがて第二次世界大戦が終結し、日本が敗戦すると、溥儀は日本へ逃れようと試みた。
しかしその途中でソ連軍に捕らえられ、シベリアの収容所へと送られる。
そこでも彼は約5年間、冷たい異国の地で囚人として過酷な日々を送ることを余儀なくされた。
戦犯から「普通の市民」へ
1950年、中華人民共和国が成立すると、溥儀は戦犯として中国に引き渡された。
もはや皇帝としての特別な扱いはなかった。
中国共産党の指導のもと、「思想改造」と呼ばれる厳しい再教育を受けることになる。
当初は激しく抵抗したものの、やがて溥儀は共産主義思想を受け入れ、一般市民として生きる道を選んだ。
1959年、毛沢東の恩赦によって釈放された後は、北京市内で植物園の職員として静かな生活を送り始める。
そして1967年、心臓病と腎臓癌を併発し、61歳でこの世を去った。
なぜ「火葬」されたのか?伝統を断ち切った最後の皇帝
冒頭で触れたように、かつて中国の皇帝たちは、豪奢な陵墓に葬られることが常だった。
歴代王朝では、土葬によってその権威と伝統を後世に刻むことが当然とされてきたのである。
しかし溥儀の最期は、その長い歴史に異例の一石を投じるものだった。
1967年、溥儀は一介の市民として、ひっそりと北京で生涯を終えていた。
そのため、葬儀にあたっても特別な祭礼や王朝の儀式は一切行われなかったのである。
当時の中国では、国家政策により火葬が奨励されていた。
周恩来首相は、溥儀の特別な境遇を考慮し、土葬を選ぶことも許可したと伝えられているが、結局かつての皇帝も例外とはならなかった。
こうして溥儀は火葬され、その骨灰は北京市郊外の八宝山革命公墓に納められることとなった。
古来より神聖不可侵とされた「皇帝」という存在も、時代の奔流に呑み込まれ、ついには灰となって空へと還った。
後年、火葬された皇帝を象徴するかのように、溥儀は「火龍」と呼ばれるようになった。
参考 : 『わが半生(我這一輩子)』他
文 / 草の実堂編集部