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「スカートをはく男子はいませんけどね」と笑う教師。選べる制服は多様性アピール?教室のジェンダーを考える

OTEMOTO

先生と保護者。こどもを介して知ってはいるものの、じっくり話したり、互いを理解したりする機会はなかなかありません。そこで、お互いの疑問やモヤモヤをぶつけ合う【先生と保護者のチャット】を連載。元小学校教員の星野俊樹さんと、小中学生のこどもがいる漫画家の田房永子さんの対談の2回目は、学校の中のジェンダー(文化的・社会的につくられた性差)について考えます。

【先生と保護者のチャット01】「保護者会の自己紹介が苦手です」 先生と親、ベストな距離感は?

高圧的なほど「指導力がある」

田房永子 前回の対談で、保護者が先生を仕事人として厳しめな評価をしたりすることもあるという話をしました。若い女性教員より男性教員のほうが「指導力がある」というイメージがあったり。これって象徴的なジェンダーバイアス(男女の役割の固定観念)ですよね。

星野俊樹 あるあるですね。徐々に変わりつつありますが、一般的には「指導力がある」と評価される男性教員がこれまでどんな指導をしているかというと、高圧的に叱りつけて言うことを聞かせたり、問題行動を起こした子を力で押さえつけたりする指導ですよね。そして、そういう男性教員が生活指導主任をしているのが一般的です。

田房 教員をやっている知人から聞いたのですが、学校の指導にいわゆる「男性性」を求める保護者も少なからずいると。学校行事に参加するのは主に母親なので、家庭では「母性」をもって優しく育てるから、学校の先生は「父性」をもって厳しく叱ってもらえるとありがたい、と。

星野 僕は「男の先生なのにきめ細かいですね」などと言われることがよくありますが、学校の指導に「男性性」を求める保護者が僕に期待しているのは、どちらかというと毅然とした厳しい指導だったりします。

確かに「効果」はあるんですよ。強く叱ると粗暴なこどもは服従し、懐いてくることもあります。

星野俊樹(ほしの・としき) / 1977年生まれ。京都大学大学院教育学研究科修了。出版社勤務を経て小学校教員に転職。公立小学校と私立小学校の勤務経験があり、教員歴は20年。2025年3月末で退職し、独立。社会的排除に向き合う人権教育に関心があり、教員時代は主に包括的性教育の実践に取り組んだ。6月に単著『とびこえる教室—フェミニズムと出会った僕が子どもたちと考えたふつう』(時事通信出版局)を出版予定。
Akiko Kobayashi / OTEMOTO

これは教員として本当に恥ずかしいことなのですが、以前クラスに荒れている男子たちがいて、他の子たちが彼らの狼藉に対して鬱屈を抱えていたときに、僕が激怒してしまったことがあります。教員は教室の中では絶対的な力を持っていますから、権力を振りかざすと荒れていた男子はおとなしくなりました。

ただ、それは「有害な男性性」を再生産することに他なりません。

押さえつけるような関わりをしたくなくて、苦肉の策として、男子の肩を手を回して「同じ男だし、わかるだろ?な?」といったホモソーシャルなノリでやり過ごしてしまったこともあります。「男性性」を持ち込まない指導をどう進めるべきか、模索し続けてきました。

男子校でサバイブするために

田房 星野さんは私立小学校で多様性教育を実践してこられたんですよね。

星野 はい。2017年に「生と性の授業」を始めました。その背景には僕の生い立ちが関わっています。

僕は「家父長制」の抑圧の強い家庭で育ち、失敗すると父親から「女の腐った奴だ」などと罵倒されてきました。

性的指向が同性であることに気づいたのは、私立男子校に通っていた中学生の頃でした。当時は「ホモ」が笑いのネタとして消費されていたので、同級生にバレていじめの対象になることを恐れました。そこでいわゆる体育会系の内輪ノリに参加し、女性や性的マイノリティの差別に加担することで、男子校コミュニティでサバイブしようとしたんです。

大学で共学となり、ジェンダーを学んで初めて、自分が「男らしさの規範」に縛られていたことに気づきました。

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田房永子(たぶさ・えいこ) / 漫画家、エッセイスト。1978年生まれ。代表作は過干渉な母親との確執、葛藤を描いたコミックエッセイ『母がしんどい』、家族にヒステリックにキレてしまう加害をやめる方法を記した『キレる私をやめたい』。竹書房コミックエッセイwebにて『喫茶 行動と人格』、&Sofaにて『昭和ママと令和キッズ』を連載中。
illustration by Eiko Tabusa

田房 学校でオラついている男子は、どうしてそうなっちゃうんだろうと思っていたんですが、「男らしさの規範」が影響しているんでしょうか。

星野 ケースバイケースですが「男の子だから元気なほうがいい」と、幼い頃から粗暴さを期待されたり、許容されたりしてきたというのはよく聞く話です。保護者だけでなく、周りの大人との関わりも大きいです。

「男らしくあれ」と言われて育ってきた男性保育士や男性教員が、同じように男子に「男らしくあれ」と言い続けるかどうかが、この先の学校での人間関係を規定するのではないかと思います。男子がオラついて「有害な男性性」を発露しかけたとき、ノリや笑いで済ますのではなく、「その行為はまずい」と介入することで断ち切っていくしかないですよね。

下ネタを禁止する理由

田房 そうですね。私は、小学校低学年の息子が下ネタを言ったとき、「それね、今は友達にウケるかもしれないけど、これからだんだんウケなくなってくるからね。『ちんこ』『うんこ』以外のおもしろい言葉を見つけるんだよ、がんばれ」と真顔で言っちゃったんですね。

星野難しい点ですよね。「うんこ」「おしり」といった言葉がもつ、無邪気で原始的なおもしろさはやはりあって、そのおもしろさを大人も一緒に笑い合うおおらかさはあってもいいと思うんです。

だから、文脈を無視して「うんこ」や「おしり」といった言葉に対して、大人が画一的に「取り締まる」のも、個人的には違和感があります。

田房 そうなんです。私も「うんこ」「おしり」の原始的なおもしろさがわかるし、テレビアニメなどではいつも流れているから、息子は「俺だけ禁止?」と混乱してしまったかもしれない、とも思いました。

星野 そういう言葉が、これまでどのような文脈で社会で用いられ、どういう場や状況において加害的になったり、不快なものになったりしてきたかを、面倒くさがらずに大人とこどもが一緒に考えることが大切なのではないでしょうか。その際は、こどもを加害者にも被害者にもさせないために、プライベートゾーン(性に関わる身体の部位)とバウンダリー(自他境界線)の話をすることも必要です。

「思いやり」だけ教えられる

田房 私たちが通っていた頃と違い、最近の学校では男女混合の名簿が採用され、制服の型が選べる学校も増えています。教室の中にはいまだにジェンダーロール(性別役割分業)があると感じますか?

星野 男子が散らかし、女子が片付けるというような構図は目立ちますね。

ある日、教室の読書スペースで本を読んでいた男子たちが、読み終えた本を片付けずにそのまま出しっぱなしにしていました。読書スペースはぐちゃぐちゃ。「散らかした人たち、片付けて」と言うと、関係のない女子たちが示し合わせたかのように立ち上がって片付けた。

その光景を見たときに、教室と社会のあり方はリンクしていて、性別役割分業が再生産されていると感じました。「ちょっと待って」と急きょ、算数の授業をジェンダーの話をする時間に変更しました。

【関連記事】男子は実験、女子は片付け? 小学校で女子が「お世話役」になる理由

写真はイメージです
Adobe Stock / milatas

もちろん男子全員が散らかしているわけではないのですが、こういう話をすると「片付けた子の善意によるものであって、ジェンダーの問題ではないのでは」とよく言われます。

僕は、こどもたちの言動は、ひとりひとりの性格や気持ちだけで決まるものではなく、社会的・文化的な背景や、学校の中でつくられる関係性の中で育まれていくものだと考えています。

けれども、学校ではときどき、こどもの行動が「気持ちの問題」「心のもちよう」として片づけられてしまう場面があります。そうしたとき、僕は「これは道徳教育の枠組みに引き寄せられているのかもしれない」と感じることがあります。

田房 「道徳教育の枠組み」とは、どういうことでしょう?

星野 道徳教育は、本来であればこどもが自分自身の考えを深めていく学びのはずです。でも、現実には「こう考えるのが正しい」とあらかじめ決められた価値観が用意されていて、感動的なエピソードや共感を通じて、それをこどもの内面に"身につけさせる"ようなかたちで行われてしまっている。その先にあるのは、「社会に従順な子」を育てる教育なのではないかと危惧しています。

例えば、道徳の授業では「思いやりのあるこども」が理想として語られます。もちろん、思いやりはとても大切なことです。でも同時に学校が育てるべきは、「おかしいな」「なんか変だな」と思ったときに、それを声に出せるようにする力だったり、不公平や理不尽さに気づいて、周りと一緒に考えたり、変えていこうとする力なんじゃないかと。

そのためには「もっと思いやりを持ちなさい」と言うだけじゃ足りなくて、そもそも社会や制度の側にどんな課題があるのかを一緒に見ていくような、人権教育の視点が必要だと思うんです。だからこそ、すべてのこどもが当事者であるジェンダーやセクシュアリティの学びが学校で必要なんです。

写真はイメージです
Adobe Stock

笑い一つで台無しに

田房 性別による固定観念や差別をなくそうという大人たちの意識がこの10年で急進したことを肌で感じます。

でもおそらくまだまだなところはあって、例えば中学校の説明会で「制服の型はスカートもスラックスも自由に選べます」と説明しながら、先生が「スカートをはいてくる男子はいまだにいませんけどね笑」と付け足し、保護者たちがドッと笑った、という話を聞きました。その笑い一つで、スカートをはきたい子もはけなくなってしまいます。

星野 本当にそうですよね。その笑いがすべてを台無しにしてしまいます。

制服の選択肢が増えたとしても、「笑われるかもしれない」「からかわれるかもしれない」という空気がある限り、こどもたちは安心して自分の意思を表明することができません。特に性的マイノリティのこどもたちにとって、「選べること」と「安全に選べること」はまったくの別物です。

学校が包括的性教育を行い、ジェンダーやセクシュアリティについて安心して話し合える土台をつくらないまま、「好きな制服を選んでいい」と言っても、それは自由のように見せかけた放任で、単なる「多様性アピール」でしかありません。本当の自由は、制度と、教育によって醸成された文化の両方が整ってはじめて生まれるものだと思います。

田房 ただ、学校も価値観をアップデートしている最中でしょうから、間違えることもあると思います。先生たちが「いつでも話してください」と呼びかけてくれて、何か懸念や不満があったときは聞いてくれる土壌があるとわかって、学校に協力したいと思えるようになりました。

性的マイノリティのこどもにどう配慮するのか。保護者としても学校の出方を遠巻きに見守って「採点」するのではなく、ともに考えていきたいと思ってはいます。ただ、なかなか難しいとも感じています。

▶︎ 次回の【先生と保護者のチャット】では、「インクルーシブ教育」について考えます。

※ ネウボラ = フィンランド語で「アドバイスの場」という意味。妊娠期から子育て期まで切れ目のないサポートを提供する自治体が日本でも増えています。
特集「6歳からのネウボラ」 / OTEMOTO

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