命を賭けて初めて世界に真実を伝えた男。映画化「アウシュヴィッツ・レポート」証言者の数奇な人生
1944年4月、19歳でヴァルター・ローゼンベルク(ルディ・ヴルバ)はユダヤ人として初めてアウシュヴィッツ強制収容所からの逃亡に成功。彼の正確な証言により作成された60ページに及ぶ「アウシュヴィッツ・レポート」はユダヤ人解放への道筋をつけ、結果的に20万の命を救いました。
歴史を動かし、自身も時代に翻弄されたローゼンベルクの功績を描く『アウシュヴィッツ脱出――命を賭けて世界に真実を伝えた男』(ジョナサン・フリードランド/羽田詩津子訳)が、NHK出版より4月25日に発売されます。アンネ・フランクやオスカー・シンドラーらに比肩する男の数奇な人生をはじめて明らかにしたノンフィクションです。
*本記事は、本書から一部抜粋・再構成したものです。
荷下ろし場で
ヴァルターは駅の荷下ろし場で働くことになったが、当初そこは使われていなかった。当時のプラットフォームはヴァルターにもなじみがあったが、彼が派遣されたのは最近使用されるようになった別のプラットフォームだった。そこはオシフィエンチムで以前に使われていた貨物列車の駅で、アウシュヴィッツ収容所と、そのすぐ後に建設されたもっと大きなビルケナウ、別名アウシュヴィッツ第二収容所にはさまれていた。最近、大量のユダヤ人がそこに移送されてきており、「古いユダヤ人荷下ろし場」と呼ばれていた。
ヴァルターの仕事は到着した列車から降りてきた乗客の荷物を取り上げ、彼らを運んできた列車を空にすることだった。
移送者たちは、自分たちの運命を決める審査団の方へ近づいていく。移送者たちは知らなかったが、そこで選別を受け、右に行かされれば被収容者として登録され労働をさせられ、たとえわずかな期間でも生き延びるチャンスを与えられた。左側へと指示されたら、すぐ先に死が待っていた。
それでもヴァルターは屈せず、正気を失うことはなかった。反対に、化学の教科書から独学で学んだ頭脳を使って、自分の目にしたものを理解しようとした。それが彼の対処の仕方であり、意図的に現実と距離を置く方法だった。他の者たちが目を逸らそうとしていたとき、ヴァルターはより緻密にすべてを観察していた。
さまざまなことにヴァルターは気づいた。親衛隊員はある夜は親切にふるまうが、翌晩にはステッキやブーツで暴力をふるった。ある晩は1回しか移送がないのに、翌晩は5回、6回と移送があった。新着者の75パーセントがガス室送りになることもあれば、95パーセントのときもあった。
しかしヴァルターはパターンを観察することが大切だと知っていた。まもなくパターンを発見した。いったんわかると、あとは確認するだけでよかった─ それによって新たな固い決意がわき上がった─今起きていることを世の中に知らせよう。
黒と白
何時間も続く聞き取りで、ユダヤ評議会の最高位の一人クラスニャンスキーはいくつも質問をし、答えを聞き、詳細を速記した。結論としては、ユダヤ人が大量虐殺されているという証言だったが、どんな感情を抱いたとしても、彼は顔に出さなかった。ただ次々に質問をして、記録していった。
ヴァルターはよどみなく、早口で話すかと思うと、言葉を探しているかのように、ゆっくりと話すこともあった。正式な聞き取りの前でも、法廷でのように事実をもとに証言していたが、感情を抑えられず、語りながら過去が甦った。細胞や毛穴にいたるまでアウシュヴィッツに戻ったかのように感じられた。1時間後、ヴァルターは消耗していたが、まだ最初のほうしか話していなかった。
ヴァルターは紙とペンを受け取り、話を始めた。彼は地図を描いた。わかるかぎり実物の寸法に忠実に。まず、アウシュヴィッツ強制収容所の内側をスケッチした。それからもっと複雑だったが、ふたつの地区とA、B、Cなどたくさんの区画を含めてビルケナウ強制収容所を描いた。その中間に荷下ろし場を描き、そこで見たものと、自分がしていたことについて説明した。巨大なドイツの軍事産業─―I・G・ファルベン、シーメンス、クルップなど─―がどこに工場を持ち、奴隷労働者を働かせているかを示した。ビルケナウのはずれで大量虐殺がおこなわれていることを伝えた。四つの死体焼却場それぞれに焼却炉が設置され、ガス室とつながっていることも。
真実の発信
「作業部会」は脱走者の証言がナチスと戦っている連合軍に伝わることを期待していたが、どうやって伝えたらいいのか考えあぐねていた。そこで、しかるべき相手に届くことを期待して、海外に報告書をばらまくことにした。
遠回りはしたが、最後には報告書は正しい相手に届けられた。報告書を読んだトランシルヴァニア出身のマンテッロは、この報告書を広めるために、すぐに行動を起こすべきだと決意した。
マンテッロの報告書はハンガリー語の5ページの要約で、スロヴァキアの正統派のラビによって作成された。そこで彼はさまざまな学生や専門家の力を借りて、この要約版をスペイン語、フランス語、ドイツ語、英語に翻訳した。1944年6月22日、彼は要約版をイギリス人ジャーナリスト、ウォルター・ギャレットに渡した。ロンドンに打電されるとすぐに、ギャレットは記事を広めるために行動に移った─―世紀のスクープはできるだけ広く配信しなくてはならない。こうしてヴルバ=ヴェツラー報告書が、その日の午後、初めて新聞記事になった。
ルドルフ・ヴルバとアルフレート・ヴェツラーの言葉が初めて正式に英語で活字になったのは、1944年月11月15日、ワシントンでのマスコミ向けの会見だった。ヴァルターたちが証言をしてから7か月がたっていた。まさにその11月25日、ナチスは最後の13人を殺したあとで、第二死体焼却場とそのガス室を取り壊すのに懸命になっていた。
やがてヴルバ=ヴェツラー報告書はロンドンにたどり着いた。今回はエルサレムでシオニストの指導をするユダヤ機関の職員によるメモがつけられていた。「今、何が起きているか、どこで起きているかを正確に知った」とあり、報告書の重要性が強調されていた。メモは外務省に届けられ、そこからイギリス首相チャーチルの手元に送られた。
首相は報告書を読み、大量殺戮の手法の詳細について知った─―シャワー室に見せかけたガス室、選別、死体焼却場。そして、線路と「死の工場」を爆破という請願。そこで、外務大臣のアンソニー・イーデンに走り書きのメモを送った。大帝国の権力を大戦にふるっていた男にしては、チャーチルの口調は悲しげで、絶望がにじんでいた。「何ができる? 私に何が言えるんだ?」
アウシュヴィッツ・レポートがアメリカ政府の迷路をのろのろと移動しているあいだ、イギリスではたちまちトップの手に渡り、大きな効果を上げたように思えた。
著者
ジョナサン・フリードランド Jonathan Freedland
英国ガーディアン紙コラムニスト、同紙元ワシントン特派員。BBCラジオ4で歴史番組のプレゼンターも務める。2022年に刊行された本書は「タイムリーかつ普遍的な教訓を与える」「もっと評価されるべき真の英雄の物語」など絶賛された。サム・ボーン名義で、英国サンデー・タイムズ紙ベストセラー第1位などのミステリー小説を刊行。2014年にジャーナリストとしてジョージ・オーウェル賞を受賞。ロンドン在住。