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伊達政宗と真田信之。太平の世を柔軟に生きた戦国武将の話をしよう

さんたつ

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皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。これよりは前田利家の戦国がたりの刻である!!本年は大河どらま『べらぼう』にあわせ、江戸時代の話を中心に様々な話を致しておる。此度の戦国がたりでは、江戸時代を生きた戦国武将の話をしてまいろうと思う!現世においては江戸幕府の成立以降を江戸時代、それ以前を戦国時代と分けられることが多いであろう。じゃが、いわゆる戦国乱世が終結したのは秀吉による天下統一と惣無事令の発令がなされた天正18年(1590)である。惣無事令とは勝手に戦をしてはならんという取り決めで、これによって群雄割拠の戦国時代は終わりを告げたのじゃ。徳川殿は、この秀吉が作りし泰平の世の雛形を引き継ぎ、改良したことで260年の安寧の時代を生み出したわけじゃな。

惣無事令と戦国の終わり

して、惣無事令が発令された後、大きな戦が起きたのは慶長5年(1600)。無論その戦とは関ヶ原の戦いであるわな。

この時点で、日ノ本での戦が無くなってから10年が過ぎておって、さらに関ヶ原の戦いから徳川家の天下の憂いがなくなる豊臣家滅亡までは15年の月日が流れておる。

この頃には政を行う者たちも世代交代が進み、戦国をよく知る者たちはだんだんと表舞台から退いていった。

のじゃが!

だからこそ数少ない戦国の生き残り達への畏敬の念は強く、江戸幕府や各藩で重用されたのじゃ!

江戸時代の黎明期を支えた若き者達からすれば、戦国の難局を戦い生き残った者達はまさに生ける伝説。

戦国武勇伝を聞きたいが為に、公務と称して呼び寄せられたなんて逸話も残っておるくらいじゃ。

ではこれより、江戸幕府において重宝された戦国武将達を紹介してまいろうかのう。

3代将軍からの信頼も厚かった伊達政宗

先ずは生まれるのが遅すぎた英雄こと伊達政宗を紹介いたそう。

現世でも人気の高い伊達家は戦国の末期に大きく勢力を伸ばしておる。

中でも政宗が当主になってからはその勢いは凄まじかったのじゃが、そんななか起こったのが秀吉の北条征伐と奥州仕置、そして先に申した惣無事令の発令である。

これにより伊達家はこれ以上の勢力拡大が叶わなくなってしもうたのじゃ。

その口惜しさを消化できなかった政宗は、秀吉に降った後も東北情勢へ絡み、時には一揆を煽動するなどしてなんとかバレぬように自らの版図を拡げようとしておった。

関ヶ原の戦いの折には徳川方として活躍したのじゃが、野心家の政宗を警戒した為か、加増は限定的なものに留まっておる。

このように戦国乱世の終結の割を食った伊達家であるが、豊臣家が滅び徳川家の世が盤石となると、野心的であったその振る舞いを改め、幕府からの信頼を勝ち取っていくこととなるのじゃ!

特に三代将軍・家光殿からの信頼は厚く、幾度も酒宴や茶席に招かれては戦国の世の話をせがまれておったようじゃ。

若き家光殿からしたら戦国の威風と茶目っ気を合わせ持つ政宗の人柄は話し相手として誂え向きであったのであろう。

両者の関係の良さを示す逸話がある。

家光殿が将軍職を継ぐこととなった時、集まった諸大名に対し、

「我は生まれながらの将軍である。もし自分に代わりたいものがいたら、国に帰って戦の準備をするが良い」

と啖呵をきったのに対し、政宗が

「万一兵を起こす者があらばこの政宗が征伐しましょうぞ」

と答えたのじゃ!

新たな将軍の威風堂々たる姿と、政宗殿の姿勢に感嘆し幕府への忠誠がより高まったとされる良い逸話であるわな。

他にも酒宴の席にて政宗には帯刀を許しておったとか、家光殿は父・秀忠の死よりも政宗の死を悲しんだとか、良い関係性を示す話は多く残っておる。

何より政宗の死の3日前に家光殿は自ら伊達家の屋敷に向かい、政宗を見舞ったそうじゃ。

現世においては戦の印象が強いかもしれんが、武勇よりも内政において才を発揮したのが政宗じゃ!

伊達家石高の表高は60万石と少しじゃが、実高は100万石近かったとも言われておって、政宗の優れた内政手腕によって築かれた仙台の街は今も東北一の大都市として栄えておるわな!

無論はじめは戦国の世の終焉を口惜しく思うておったじゃろうが、泰平の世でも十二分にその才を生かし、江戸時代に順応していった武将といえよう!

真田信之殿のすごさは経歴だけではない

江戸幕府で重用された戦国武将と言えば、この者を忘れることはできんわな!

真田昌幸殿の嫡男で真田幸村こと信繁を弟に持つこの人物は、戦国時代に憧れる江戸時代の武士にとって、正に尊敬の的であった!

幼き頃は武田信玄に可愛がられ、若き頃には上杉や北条を相手取って一歩も引かず、どころか徳川家康の大軍を前に寡兵で打ち破る。

さらに、かの本多忠勝を義父に持ち、江戸幕府最後の強敵、真田幸村の実の兄。

と戦国の名だたる面々と関わりを持つ信之殿であるが、この者の凄さは経歴だけにとどまらぬ。

非常に長生きだったんじゃ!

信之殿が生まれたのは永禄9年(1566)。先に紹介した政宗より1歳年上にあたる。

じゃが、信之殿が亡くなったのは万治元年(1658)。93歳の大往生であった!

江戸時代のはじめは父親や弟が敵方となったことで肩身の狭い思いをしておって、とくに秀忠殿が将軍の時代にはかなりの苦労をした事が見受けられるのじゃが、家光殿や四代将軍・家綱殿の時代には重用されることとなる。

家康殿の十男・徳川頼宣殿(後の紀伊藩主)にも偉く懐かれておったとも伝わっておるわな。

老齢となった信之殿は何度も隠居を試みるのじゃが家綱殿がまだ幼く、信頼の厚かった信之殿の隠居はなかなか許されず、ようやく隠居が叶ったのは91歳となった頃じゃった。

このせいで真田家では跡目をめぐって揉め事が起き、幕府も巻き込んだ大騒動に発展してしもうたりもしたのじゃがな。

因みにこの騒動をきっかけに、それなりの年齢で隠居させてやらねばならんと取り決めがなされたそうじゃ。

終いに

此度は二人の戦国武将の江戸時代について紹介致したがいかがであったか!!

武勇や豪胆さが評価された戦国時代と、内政手腕や堅実さが評価された江戸時代。その突然の切り替わりには戸惑う武将たちも少なくはなかったであろう。

そもそも、豊臣家臣における武断派と文治派の対立もこういった時流の変化に対する問題の顕在化が原因であると言えるし、徳川殿が天下をとったのちにも平和な時代に迎合できない者たちが烏合し起きたのが大坂の陣とも言えるであろう。

そんな中でかつて武勇を誇っておった者の中でも、うまく時代に合わせ、家のあり方を整えることができた者たちの代表的な存在が此度紹介した二つの家である!

どちらも幕府には随分と気に入られておったけれども、自らの家の流儀は捨てず、260年の江戸時代を生き抜き、現世においては真田家にせよ伊達家にせよ大人気の戦国武将として皆の記憶に残り続けておる。これは政宗や信之殿の手腕あってのことであると儂は考えておる。

無論、我が前田家も時代の転換期を見事乗り越えた大名家じゃからな、忘れてはならぬぞ!

日ノ本の物語では、時代に敗れて儚く散っていった者たちが主軸に描かれることが多いが、生き残った者たちの苦労や知恵などもたどっていくとまた新たな学びが得られるであろう!

といった次第で此度の戦国語りはこれにて終いといたす。

江戸時代にはやはり我らの時代から繋がる話も多くあるがゆえに、戦国武将の話も時折出て参るであろう!

楽しみに待っておるが良いぞ!

それではまた会おうさらばじゃ!!

写真・文=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)

前田利家
名古屋おもてなし武将隊
名古屋おもてなし武将隊が一雄。
名古屋の良き所と戦国文化を世界に広めるため日々活動中。
2023年の大河ドラマ『どうする家康』をきっかけに、戦国時代の小話や、戦国ゆかりの史跡を紹介している。

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