大阪・関西万博の今、55年前の大阪万博の年に大ヒットした日吉ミミの「男と女のお話」は、なぜかなげやりで悲しげで心の琴線に触れた
2025年大阪・関西万博、ぐるりと木造の大屋根リングにした会場のデザインプロデューサー、建築家・藤本壮介の初の大規模な個展を見に、東京・六本木ヒルズにある森美術館に行ってきた(『藤本壮介の建築 原初・未来・森』11月9日まで開催中)。「多様でありながら、ひとつ」という万博の理念を具現化した、巨大な大屋根リングが話題となって、今最も注目されている建築家であり、アーチストでもある。大屋根リングの一部も個展会場に設営されていてその組み立てられた木造物を仰ぎ見ながら、突然、何の脈絡もなく55年前の大阪万博の「太陽の塔」を仰ぎ見ることができなかった悔しい思い出に連想した。同時にその1970年(昭和45)という、我が人生のエポックメーキングの年がよみがえったのである。アルバイトの〝坊や〟が出版・雑誌編集部の片隅で仕事に向かった記念すべき年であり、社会の一歩を踏み出したともいえるのだ。
ちょうど佳境に入っているNHKの朝ドラ『あんぱん』の〝のぶ〟が地方新聞社で「月刊くじら」の編集部員になったのと同じように、雑誌創刊のために俄仕立ての編集部が1970年の6月に発足し、ボクは一員になった。社長と長年の友人だった編集長だけが雑誌の編集に携わってきた方で、ボクはアルバイト先の出版社から〝金魚のフン〟といわれながらくっついていったのだった。秋の創刊に向けて、てんやわんやの日々がつづいていたが、しばらくして編集部に一人の女子部員が加わった。まさに〝のぶ〟のような存在だが、速記ができるわけでもなく編集のへの字も知らなかった。ただ漠然と新聞広告の社員募集に応募してきた彼女は、社長の鶴の一声で入社が決まった。なんでも面接で、「男との付き合いにくたびれて、仕事がしたくなった」という答えに社長は意気に感じたそうだ。腰を据えて仕事に励むだろうと期待している、と付け加えて皆に得意げに紹介した。二十歳を過ぎて間もないのに、どこかやつれたような世馴れした雰囲気が彼女には漂っていて、ずっと年上のように見えた。肩を被うほど長い真っ直ぐの髪が大人の色気を感じさせ、鼻筋が通った女優の江波杏子に似た美人だがいつも不機嫌な顔つきで、社長の異例の紹介の仕方にも本人はニコリともしなかった。酸いも甘いもかぎ分けたような頽廃的な彼女は、行きつけのバーの止まり木で肘をついてウイスキーを呷っているほうが似合っているように思えた。世は大阪万博で浮足立っているというのに、不機嫌にも程がある、とボクは知らんぷりを決め込んだものだった。
皮肉にもこの年にリリースされた「男と女のお話」が大ヒット中だったが、間違っても彼女の前で口ずさんではいけない、とボクは密かに戒めていた。失恋した荒んだ心を逆撫でするような詞だったからだ。
男が女に声をかけて慰めている。
「恋人にふられたのか、よくある話だな、よかったら、この俺が付き合ってやるよ。涙なんか見せるなよ、恋はゲームみたいなものなんだからさ。昔を忘れてしまうには、また素敵な恋をすればいいさ、スマートな恋をしてな、気ままに暮らしていけよ、誰かに悪い女と言われようと、それでいいのさ、恋なんて」
こんな慰め方に、女は渇いた心がゆるりとするのだろうか。それとも逆上して男の横っ面をひっぱたくのではないだろうか、触らぬ神に祟りなし、そう思っていた。
「男と女のお話」は、作詞:久仁京介、作曲:水島正和。作詞の久仁京介は演歌の第一人者として知る人ぞ知る作詞家協会の重鎮でもある。渥美二郎、石川さゆり、五木ひろし、北島三郎、新沼謙治、福田こうへい、藤あや子、森進一、三山ひろしといった演歌のトップ・スターたちに楽曲を提供しているが、ことに島津亜矢に提供した「独楽」は、2015年第48回日本作詩大賞・大賞受賞楽曲だ。本欄前回に紹介された黒沢明とロス・プリモスの「東京ロマン」(1967年)が作詞家デビューというが、後の「男と女のお話」の大ヒット(オリコンシングルチャート最高6位)は、作詞家としてのいわば出世作といえる。
1970年5月5日にリリースされたが、前年に「池和子」から「日吉ミミ」と改名して再デビューした第2作が「男と女のお話」(ビクターレコード)だった。ヴィブラートを多用せず抑揚を抑えたストレートな甲高い嬌声、人なつっこい丸顔のぱっちり開いた眼、口をニッと開けて歌っている独特のボーカルスタイルが、いかにも投げやりに聴こえる歌唱とはアンバランスで、世を捨てた淋しげな女の厭世的な嘆き節のようだった。
当時、業界では〝やさぐれ歌謡〟といい、アングラ・ポップスとも呼ぶ歌謡曲のジャンルがあった。地方からドッと押し寄せてきた若者は、大都市に生きることの理不尽さから厭世観に苛まれていて、歌謡曲の世界も彼らの荒んだ心に寄り添い慰めようとしていた。藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」のヒットは代表例といえる。また、劇団・天井桟敷を主宰していた青森県出身の寺山修司は地方出身者に興味と共感を寄せて、劇中歌として日吉ミミや浅川マキを歌わせたという。日吉ミミのどんな楽曲も淋しげに聞こえる声質が、大都会の片隅に生きる若者たちの心の琴線に触れたのだった。この年の第21回NHK紅白歌合戦に選出されていた江利チエミが出場辞退したため、代替ながら初出場できたほどの大ヒットだった。
日吉のユニークな声が、演歌ともフォークともどこか違う独自の世界をかもし出していた。「男と女のお話」の大ヒットでスター歌手になった勢いで、ファースト・アルバムには、加藤登紀子の「ひとり寝の子守唄」、岡林信康「山谷ブルース」などのフォークをカバーしているかと思えば、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」や坂本九の「見上げてごらん夜の星を」などもカバー、オリジナルとは異質な日吉ミミだけの世界が聴く者を揺さぶった。
ただ、その後日吉ミミは忘れ去られていった。シングル数十曲に及ぶリリースもヒットに恵まれず一発屋呼ばわりされながら、沈んでいった。1978年10月発売された「世迷い言(よまいごと)」(作詞:阿久悠、作曲:中島みゆき)まで待たなければならなかったのだ。これはTBSドラマ「ムー一族」の劇中歌で、日吉ミミ自ら出演して歌唱、スマッシュヒットした。ドラマを演出した久世光彦のアイデアで、歌詞に回文「ヨノナカバカナノヨ(世の中馬鹿なのよ)」と織り込んだことも話題を呼んだ。1980年代に入ると、フジテレビで大ヒットしたお笑いバラエティ番組「オレたちひょうきん族」に、山本リンダ、安倍律子と「ごっくん娘」と称してレギュラー出演。他の出演者が皆そうだったように、日吉ミミもすっかりお笑いタレントの〝いじられキャラ〟になってしまったように記憶している。
テレビの歌謡番組の衰退とともに、いつの間にか大人の歌手としての日吉ミミの存在はふたたび遠くなっていった。厭世的な歌手としての個性が鳴りを潜めていったというより、アイドル歌手競合時代が凌駕したというべきか。芸能界の浮き沈みをそのまま表しているような生き様を思うと一層悲しみ誘うが、55年前、日本が高度経済成長を旗印の下にまっしぐらだった時代に、日吉ミミのクールな歌唱が我らの世代の胸に響いたのは何だったのか。64歳でガンに斃れたのは、2011年8月10日、間もなく没後14年の命日を迎える。かつて編集部の一員になった同僚女性は、仕事に身が入らず数カ月して辞めていったが、彼女のその後の転変の人生も知るべくもない。
文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫