共学なんてバカじゃないの! お受験妻の暴走。聡明な娘からの反抗でようやく気付けたこと【横浜の女・林 愛子33歳 #3】
【何者でもない、惑う女たちー小説ー】
【横浜の女・林 愛子33歳 #3】
横浜に暮らす経営者の妻の愛子。小学生の長女・美愛と横浜山手御三家と呼ばれる女子校に狙いを定めて、中学受験に臨んでいる。塾に入った美愛は順調に偏差値を伸ばし、合格圏内に入るも、突然受験はしたくないと言い出して…。【前回はこちら】【初回はこちら】
◇ ◇ ◇
美愛の目はしっかり愛子を捉えていた。
『受験はしたくない』――彼女が放った言葉と共に、愛子の頭の中に、今まで支払った塾の費用が数字として押し寄せてきたのが、母親として情けなかった。
合格のためと思えば気にならなかった金額。しかし、それが無駄になると思うと、途端に数字の意味が重くなる。
「どうして? さっき、受験はするって言っていたばかりでしょう」
「お風呂でよく考えたの。何でわたし女子校、なんだろうって。行きたい理由もないし、なら近所の中学でもいいかなって」
彼女曰く、SAPIXで様々なお友達と切磋琢磨することによって、中学に行っても、男女関係ない環境で自分を試してみたいと考えるようになったそうだ。
「美しくおりこうな美愛」でいて欲しい
「あと、女子校って、窮屈そうで、なんか…」
「イメージだけよ。行けば慣れる。サピだって、最初は気乗りしていなかったでしょ」
「最初はただ、緊張していただけで――」
今はSAPIXの先生とも気軽に離せる関係性だという。慕っている先生から、共学の難関校も視野に入れてもいいのではないかと勧められたのも理由だと語る。愛子の脳裏には面談で会った押しの強そうな男性講師の顔が思い浮かんだ。
「先生は、実績作りたいからそう言っているの。騙されちゃダメ。ママはね、あなたのためを思って言っているのよ」
あなたのため――その場の出まかせだとはわかっている。本当は、自分の希望なのに。最低でも私立中学にはいって欲しい。美しくおりこうな美愛は、存在意義なのだから。
思わず金切り声で叫んでしまった
ただ、数十分前、「受験はしなくてもいい」と言ったにもかかわらず、考えた末の答えを受け入れようとしない母親に、美愛は困惑している。声が震えていた。
「と…とにかく女子校はイヤ! 塾代かかるし、辞めるなら志望校別特訓が始まる前の今だと思う。ママがそれでもダメだって言うなら、受験当日は試験受けないで中華街に遊びに行くもん」
彼女なりに考えた末の言い分はもっともで、愛子は反する正論が思いつかない。つい、感情で金切り声を発していた。
「バカじゃないの!!!」
娘の「初めての反抗」だった
初めてのことだった。今までは、大声を出すまでもなく、美愛は言うことを聞いていてくれていたのだ。
目の前の大きな瞳から涙が噴き出してきた。
まるで赤ちゃんの頃に戻ったかのようなそれは、愛子の心を締め付ける。それだけ、彼女が訴えたい意志だったのか。
「お、どうしたんだ~」
晴信が呑気に仕事から帰宅してきた。美愛は咄嗟に抱き着いて、彼の胸を濡らした。
夫の存在には、正直助かった。
美愛の訴えは、愛子にとって頭では理解できていることだったから。
慶応ブランドの何がいいの?
美愛は熟考の末、共学の難関校・慶應義塾大学湘南藤沢中学を第一志望にすることとなった。
慶応という響きは、学歴コンプレックスのある晴信の心を捉え、彼からの強い後ろ盾を得た。美愛はさらに勉強に励むようになった。
「俺に似て、目標があるとまっすぐなんだな~、美愛は」
2025年1月――受験の2月も迫り、美愛の成績も相変わらず上位をキープしている。感染症対策で今は小学校も自主休校し、毎日机に向かうだけの日々だ。
2人の子供が既に寝た、夫婦の晩酌の話題は、やはり子供のことしかない。晴信は、美愛から受け取った模試の結果を誇らしげに眺め、それを肴に芋焼酎を傾けた。
「美愛は、女子校が合うと思うのに…」
愛子もその夜はビールを開けた。3.5%ではあるが、本音を語る程度にはちょうどいい。愛子の呪文のような吐露に、晴信は笑顔で柔らかに反論した。
「そうかな。美愛はむしろ共学向きの性格だと思っていたよ。フランクで負けず嫌いだし、女子校が窮屈そうだって思う気持ちもわかる」
「そんな…」
それはきっと、自分が彼女に慶応ブランドを背負って欲しいがための思い込みなのだ――晴信に心の中で反論する。愛子は美愛に対し、そんなことは一切感じていなかったから。
放った言葉が自分に刺さる
「あ…」
しかし、その言葉はすぐに自分に対して返ってきた。
もしかして、これも、思い込みなのだろうか? 自分の理想通りに育ってもらうための。
「俺はさ、なにより美愛がしっかりと自分の言葉で希望や夢を語れるようになったことに感動しているんだよ。受験、させてよかったな」
晴信の言葉に、愛子は何も言えなかった。
――自分の言葉で…自分の意志を…。
清涼飲料水のように、スッと染みる言葉はきっと正しい。
美愛は、自分のリベンジのための存在ではない。結果的に、自分と同じく誰かに流される人間にしようとしていた。
愛子は思い知らされた。当たり前のことなのに――。
3月、娘の受験結果は…
3月。
めでたく第一志望に合格した美愛は、入学式はまだ先にもかかわらず、毎日のように制服に袖を通し、一日を過ごしている。
はじけるような、美しい笑顔。
長いまつ毛の先まで嬉しそうな美愛の様子に、こちらもなんだか顔がほころぶ。
やはり自分は母親なのだ。
これでよかった、のだ。
結局は、彼女の選んだ幸せを祝福できることにホッとした。不完全燃焼を肯定するための自己暗示ではなく、素直に感じる。
毒に染まる前で踏みとどまれた自分を褒める。
どこかで聞いたような進路だけど…
「ママ、ありがとう」
姿見の前で誇らしげに制服姿の自分を見る美愛に、針を持つ手がとまった。
相変わらず、刺繍は続けている。志望校を決める際の一悶着があってから、傷ついた自分の心のほころびを縫うように、沼に嵌っていった。
「ママが『受験しよう』って誘ってくれなきゃ、今の嬉しい私はないから」
「そうかしら? 私が言わなくても、あなたは結局受験していたかもよ」
「してないよ。クラスの仲いい友達はみんな近くの中学行ったもの」
血は争えない。周囲に流されやすい資質があることは違いないのだ。
聞けば、数ある難関校の中で合格した第一志望を選んだのは、アナウンサーになりたいからだという。中学・高校からそのままあの大学に行って、ミスコンに出るのだそうだ。
どこかで聞いたような王道ルートをトレースしているよう。…だとしても、目の前にある多くの選択肢の中から、美愛自身が能動的に選んだひとつだ。
私も能動的に始めよう
「受験も終わったし、私もなにか仕事とか始めようかな」
呟くと、美愛は即答した。
「いいじゃん! 刺繍屋さんで働きなよ」
刺繍屋さん。子どもの発想だが、よく考えてみれば、それもアリだと感じる。趣味を生かして、ハンドメイドのネットショップなどできるかもしれない。
「そうねぇ…」
お茶を取りに立ち上がると、彼女の笑顔が自分の顔のすぐそばにあった。
いつの間にか娘の身長も自分に迫ってきている。追い越されるのも時間の問題だ。
Fin
(ミドリマチ/作家・ライター)