【「昭和歌謡史」の日本大教授・刑部芳則さんインタビュー】 「世代を超えた良い曲」の系譜をたどる
静岡新聞教育面で「近現代学校制服考」を連載(毎月最終日曜付)する日本大商学部の刑部芳則教授(日本近現代史)は、昭和歌謡史の研究でも知られる。NHK連続テレビ小説「エール」「ブギウギ」では風俗考証を担当した。新刊「昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで」(中公新書)は、アジア・太平洋戦争をまたいだ昭和期の歌謡曲の変遷を、膨大な資料の分析で解き明かした一冊。激動の時代に響いた昭和歌謡の魅力を、著者に聞いた。(聞き手=論説委員・橋爪充)
古賀政男、江口夜詩、古関裕而らの活躍
-この本を書くに至ったいきさつを教えてください。あとがきに「歴史学の専門的な研究手法により日本史研究者が書いた昭和歌謡史は一冊も存在しない」と書かれています。長く感じてきたフラストレーションが原動力になっているようにも感じますが、いかがでしょうか。
刑部:子どもの頃から歌謡曲が好きでした。昭和の時代には良い曲、良い歌詞があり、良い作曲家がいて、一昔前はみんな知っていたのに、時代が変わり、世代が変わると全く注目されない。メディアにも取り上げられない。そんな曲たちを自分の世代、若い人たちに伝えたかったのです。世代を超えた良い音楽、良い曲は確かにあります。それを伝えなくてはという、歴史研究者としての強い気持ちがありました。
-そもそも歌謡曲との接点はどう生まれたんですか? 著書には同級生にあらがうように昔の曲に引きつけられていく著者の姿が書かれています。中学生で古賀政男全曲集を選び、日本の軍歌で古関裕而の魅力にはまったそうですね。
刑部:小学校時代は、テレビを通して歌謡曲を聴いていました。特定な歌手のファンというわけではなく、歌謡曲そのものがいいと思っていたのです。古関裕而も、本人が出演する姿をテレビで見ていました。ところが中学校に入ってから、(流行歌の)メロディーが変わってきたんです。周りのみんなは乗り換えたけれど、私は違和感を感じました。大衆が愛してきた昭和の歌謡曲の路線は、その前の時代の音楽とは違う何かがあるはずで、それを探ってみたいと思い始めました。
-新著は「歌謡曲とは何か」を探る旅のような本ですね。昭和3年をスタート地点にして、元号が平成に変わるまでの状況を書いています。「流行歌手第1号」として「東京行進曲」を歌った佐藤千夜子を挙げ、昭和10年代の記述では作曲家の古賀政男、江口夜詩、古関裕而らの活躍に言及します。
刑部:この時代の歌謡曲は歌手はもとより、メロディーや詩を創り出した作曲家、作詞家の功績が大きいと思うんです。古賀たちは「流行歌、歌謡曲とはこういうものだ」というパッケージを作りました。
戦争と歌謡曲の知られざる関係
-歌手の出自も多様化が進みますね。
刑部:当初は藤山一郎や松平晃のようなクラシックの歌手を目指していた人が流行歌の歌い手になっていましたが、昭和10(1935)年前後になると東海林太郎のような専門教育を受けていない人も出てきます。レコード会社も(歌が)うまければ歌手として売れる可能性があるという認識に変わっていきます。
-昭和12(1937)年に始まった日中戦争について「昭和モダニズムで売れなかった作曲家や歌手に光を当てる一方で、それまでの人気であった作曲家や歌手に陰りをもたらす分岐点」と書いています。戦争が歌謡曲にもたらす影響というのはどんなものだったのでしょうか。
刑部:流行歌は、時代に沿った、大衆に根付いた歌なんですね。だからレコード会社は、戦前までのただただ平和でモダニズム的な曲より、戦場と銃後を結びつけるような曲の方が売れるだろうと考えたのでしょう。大衆もそうした曲を買い求めていました。
-太平洋戦争開戦後の戦時歌謡は、戦局と裏腹に明るい旋律が多かったそうですね。
刑部:日中戦争の頃は哀調を帯びた暗い曲が多いのですが、太平洋戦争に突入するとそういう音楽を聴かせる余裕がなくなったのでしょう。戦局が悪化すればするほど明るくなっています。大衆に活力を与え、絶望を避けさせようという狙いだと思います。
西條八十から阿久悠へ。古賀政男から筒美京平へ
-太平洋戦争終了後では、阿久悠についての記述が印象に残ります。昭和45(1970)年8月12日に西條八十が78歳で亡くなりましたが、ちまたではやっていたのが森山加代子が歌う阿久の作詞家デビュー作「白い蝶のサンバ」だったそうですね。「襷が渡された年であったと見なせる」と書いています。
刑部:昭和を半分にすると大きな川は西條八十と古賀政男ですが、その流れは阿久悠と筒美京平に受け継がれます。多くの人は古賀は演歌の源流だと思っていますが、そうではない。幅広い目線でヒットチャートを見たら、ヒットメーカーとして古賀と筒美の右に出る人はいない。彼らの分岐点もちょうどこの頃なんです。
-平成に入ると昭和歌謡を扱っていた三つの番組(夜のヒットスタジオ、ザ・ベストテン、ザ・トップテン)が終了し、音楽の世界をJ-POPが席巻します。昭和歌謡の終焉(しゅうえん)とJ-POPの隆盛は、大衆の耳を変えてしまったのでしょうか。
刑部:私からすると、平成以降の曲は歌いづらくて仕方がなかった。歌えなくなったから聴かなくなったんです。藤圭子は歌えるけれど、宇多田ヒカルにはついていけない。実は歌うための曲じゃないような気がするんですよね。
-最近は昭和を知らない若者の間で、昭和歌謡が見直されています。古賀メロディーに代表される「日本人が好む旋律」を、消し去ることはできないようですね。
刑部:大学の講義で昭和歌謡史について話していますが、今の学生に古賀メロディーが嫌いな人はいません。「藤山一郎がいい」「霧島昇がいい」という学生もいます。彼らは生まれながらにして明るいJ-POPを聴いていて、哀愁の歌謡曲は聴いたことがなかったはず。でも聴くと同調できるんです。日本人特有の音感みたいなものがあるのでしょうね。