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【第十代崇神天皇】神の祟りによる疫病とタケハニヤスノミコの謀反とは?【眠れなくなるほど面白い 図解プレミアム 古事記の話】

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【第十代崇神天皇】神の祟りによる疫病とタケハニヤスノミコの謀反とは?【眠れなくなるほど面白い 図解プレミアム 古事記の話】

第十代 崇神天皇

大和国の統一と徴税

【神の祟りによる疫病とタケハニヤスノミコの謀反】

天皇の位は綏靖、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)、孝昭(こうしょう)、孝安(こうあん)、孝霊(こうれい)、孝元(こうげん)、開化(かいか)と受け継がれ、開化天皇崩御の後、第三子のミマキイリヒコイニエノミコト(御真木入日子印恵の命)が*¹師木(しき)の水垣(みずかき)で天下を治めました(第十代崇神(すじん)天皇)。崇神天皇には12人の子がありましたが、ヤマトヒコノミコト(倭日子の命)を亡くすと、埋葬のときにはじめて*²人垣(ひとがき)を立てた(殉死者を埋めた)とあります。

崇神天皇の時代には疫病が大流行しました。困り果てた天皇は夢に神託(しんたく)を得るため、*³神牀(かむどこ)を整えて横になりました。するとオオモノヌシノカミが現れ、こう告げたのです。

疫病はわが意思である。意富多々泥古(おおたたねこ)にわれを祀(まつ)らせれば祟りはやむだろう

天皇は四方に使者を送り、河内(かわち)の美努(みの)でその男を発見しました。すると男はオスエツミミノミコトオモノヌシノカミと(陶津耳の命)の娘、イクタマヨリビメ(活玉依毗売)の間に生まれたクシミカタノミコト(櫛御の命)の曾孫(ひまご)であることがわかったのです。すぐさま意富多々泥古を神主として御諸山(みもろやま)に行かせ、オオモノヌシを祀る神事を執り行なわせました。そして、あらゆる天つ神・国つ神の社(やしろ)を定め、自然界の神々に供え物を捧げました。すると、疫病が治まり、国は平和をとり戻したのです

*1 奈良県桜井市金屋のあたり。
*2 『日本書紀』にはこれ以降殉死は禁じた、とある。
*3 神牀とは、神託を受けるための専用の寝床。

意富多々泥古の曽祖父、クシミカタノミコトの出生には次のような秘密がありました。母のイクタマヨリビメは輝くような美少女で、そこに音も立てずに夜な夜な訪ねてくる見目麗(みめうるわ)しい男がいました。二人は共寝をし、イクタマヨリビメは身ごもります。

男の素性を知るため両親は床の前に赤い土を撒き、麻糸を針に通して、男の着物の裾(すそ)に刺すよう娘にいいつけました。

翌朝、その糸をたどっていくと、なんと美和山(みわやま)の神の社に続いていました。これにより、男がオオモノヌシノオオカミであり、お腹の子が神の子だとわかったのです

さて、崇神天皇は、伯父のオオビコノミコト(大毗古の命)と、その子タケヌナカワワケノミコト(建沼河別の命)を東方に遣わし、従わない人々を平定するよう命じました。

オオビコノミコトが山代(やましろ)(京都府南東部)の国の坂道にさしかかったときのこと、腰裳(こしも)をつけた少女が現れ、謎めいた歌を口にし、忽然(こつぜん)と姿を消しました

奇妙に思ったオオビコノミコトは都へ引き返し、天皇に報告すると、

「山代にいるそなたの異母兄、タケハニヤスノミコ(建波邇安の王)が邪心を起こしたに違いない。ただちに討伐なさい」

天皇はそういって、丸邇(わに)の臣(おみ)の祖先であるヒコクニブクノミコト(日子国夫玖の命)を加えて、討伐に遣わしました。出陣にあたり、ヒコクニブクノミコトは*忌瓮(いわいべ)を用意して、旅の安全を祈願しました。和訶羅河(わからがわ)(木津川)に着くと、タケハニヤスノミコの軍勢が待ち構えていました。合戦は双方一本ずつ忌矢(いわいや)(神聖な矢)を放つことではじまります。

* 忌瓮とは神に供えるための忌み清めた容器。

ヒコクニブクノミコトが放った矢は見事にタケハニヤスノミコを射抜き、その命を奪いました。これを見て、タケハニヤスノミコの軍勢は一気に戦意を喪失し、総崩れとなって壊滅させられたのです。

オオビコノミコトは高志(こし)の国を平定し、なおも東に進み、東方の12カ国の平定を終えたわが子の軍と合流しました。ゆえに、その地を相津(あいづ)(福島県会津)といいます。

天下は太平になり、人々は富み栄えました。そこで天皇は男には猟の獲物を、女には織物を税として課することにしました

天皇の享年は168歳。陵墓は、*山の辺の道の勾の岡(やまのべのみちのまがりのおか)のあたりにあります。

* 奈良県天理市柳本町の地。

謎の少女の歌で謀反計画を察知できた。

イクタマヨリビメのもとに通う、美和山の神オオモノヌシノカミ。

実在した?しなかった?「欠史八代」の謎

『古事記』では、第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの8名の天皇について、詳細な記載がないことから「欠史八代」と呼び、さまざまな議論がなされています。代表的なものは、これらの天皇は存在せず、天皇家の歴史をより古く長くするために足したという説。その根拠の一つが、天皇たちの崩御の年齢にあります。神武天皇をはじめとして100歳を超える長寿はこの時代にあり得ないだろう、というのです。神武天皇も第十代崇神天皇も実在しなかったという説もあります。一方で、神武天皇が成したとされる多くの功績は、実は親子数代にわたって成したことで、それらがすべて神武天皇の項にまとめられているのではないか、という説もあります。謎は深まります。

【初代から十代までの天皇の系図】

1 神武(じんむ)天皇(神倭伊波礼毗古の命(カムヤマトイワレビコノミコト))・137歳*
2 綏靖(すいぜい)天皇(神沼河耳の命(カムヌナカワミミノミコト))・45歳
3 安寧(あんねい)天皇(師木津日子玉手見の命(シキ ツヒコタマデミノミコト))・49歳
4 懿徳(いとく)天皇(大倭日子鉏友の命( オオ ヤマトヒコスキトモノミコト))・45歳
5 孝昭(こうしょう)天皇(御真津日子訶恵志泥の命(ミマツヒコカエシネノミコト))・93歳
6 孝安(こうあん)天皇(大倭帯日子国忍人の命(オオヤマトタラシヒコクニオシ ヒトノミコト))・123歳
7 孝霊(こうれい)天皇(大倭根子日子賦斗邇の命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト))・106歳
8 孝元(こうげん)天皇(大倭根子日子国玖琉の命(オオヤマトネコヒコクニクルノミコト))・57歳
9 開化(かいか)天皇(若倭根子日子大䈝々の命( ワカヤマトネコヒコオオビビノミコト))・63歳
10 崇神(すじん)天皇(御真木入日子印恵の命(ミマキイリヒコイニエノミコト))・168歳

※年齢は崩御の年齢

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解プレミアム 古事記の話』監修:谷口雅博

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