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人に頼るのが苦手だった私。友達の助けで、自分を縛っていた思い込みに気付いた

りっすん

誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は作家・文筆家の星野文月さんにご寄稿いただきました。

子どもの頃からずっと「人に甘える」ことを後ろめたく感じ、うまく人に頼ることができなかったという星野さん。しかし2024年の夏に骨折したことをきっかけに、他人との関わり方に対する価値観が大きく変化したそうです。

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自分の中にある「甘えてはいけない」という呪縛

あるとき、一緒に歩いていた友だちが「ねえ、実は甘えるの下手だよね」と何気なく言った。わたしは平気な顔を装いながら、自分の心臓が小さく跳ね上がったのを感じた。

人前では「そこそこ甘えられる自分」を見せているつもりだったのに、自分の本性が見透かされた焦りのようなものを感じた。小さな棘が刺さったような気持ちで、しばらくその言葉を反すうしていた。

わたしは昔から、人に甘えることが苦手だった。

自分の弱さやできないことをなるべく直視したくないし、相手に何をしてほしいのか率直に伝えることが怖い。その裏には「断られたときに自分が傷つきたくない」という気持ちがある。

同時に「自分も人に何かを提供しなければ、頼ってはいけない」と思っているところもある。できれば今すぐ手放したい価値観だけど、無意識のうちに自分の中でがっちり内面化されてしまっている。

誰かに頼りたいとか、期待したくなる気持ちとどう向き合えばいいのだろう。

気がつけば、わたしは30代を迎えていた。周囲の人が結婚をしたり、それぞれの形でパートナーシップを作ったりして、自分の人生をどう生きたいのか考え、選んでいく姿をよく目にするようになった。

「誰かと一緒に生きていきたい」という気持ちが、わたしの中にもあることに気付いている。でも「人を頼る」「人に甘える」ということが苦手なわたしは、どうやって「他人」に自分の考えや思いを伝えたらいいのか分からない。自分の思いを伝えることは人を攻撃することではないはずなのに、やっぱり未だに怖い気持ちがあって距離を取ろうとしてしまう。

だけど、いつまでもこのままでいいのかな?とも思う。本当は、自分の弱いところや深い部分まで、誰かに知ってほしい。

「機嫌を損ねること」が怖くて、好意すら素直に受け取れなかった

頼ったり甘えたり、人と関わることは怖いけれど、 自分なりに人と一緒にいる方法を見つけてみたい。一体何がそれを難しくしているんだろう? 振り返ってみると、子どもの頃の体験が影響しているように思う。

わたしが育ったのは、山に囲まれた雪深い地域。同じ学年の子が住んでいるところはもちろん、きょうだいや家族のことまでお互いに把握し合っているような、小さな田舎の町だった。

どこへ行っても知り合いがいる安心感と、いつでも誰かに監視されているような閉塞感が共存している。髪型、服装、持ちもの、言動。少しでも「他の子」と違う目立つようなことがあれば、たちまちうわさになったり、仲間はずれにされたりしてしまう。

そんな環境の中にいたわたしは、気が付けば周りからどう思われるのかばかりを気にして「自分なんて」と言う癖が付いてしまった。それが、大人になった今でもなかなか抜けない。

文章を書く仕事をするようになってから、作品についての感想や、評価をもらう機会が増えた。でも、読者の方が感じたことをまっすぐに伝えてくれてもつい謙遜するような態度を取ってしまい、後になって「素直にありがとうと言えたらよかったのに……」と後悔する。うれしい気持ちはたしかにあるのに「素直に受け取ったら、誰かからおこがましいと思われるのではないか」という不安が拭えない。

自分で自分のことをちゃんと大切に思えていたら、安心して人に頼ったり、素直に自分が思っていることを伝えたりできるのだろう。だけどそこにたどり着くまでが、わたしには果てしない道のように感じられた。

骨折を機に人に頼りまくった

そんな自分に、思わぬところで大きな転機が訪れた。

2024年の夏、それまで暮らしていた家を出なきゃいけなくなって、慌てて自分の荷物をまとめていた。椅子に登って、高いところにあった荷物を取ろうとした瞬間、足元がぐらぐらと崩れ落ちた。わたしは床に叩きつけられて、腕の関節が見たことのない方向に曲がってしまった。

その瞬間は不思議と痛みを感じなかったけれど、しばらくすると肘が焼けているような痛みを感じて「これは、まずいことになった」と思った。猛暑の中、腕が動かないように押さえながら、一人で病院まで歩いた。

レントゲンを撮るとやはり骨は砕けていて、腕を包帯でぐるぐる巻きに固定された。朝から何も食べていなかったので帰り道にコンビニに入ったけれど、片手じゃ財布を開けられないことに気が付いて、何も買えなかった。


「これからどうしよう」と思った。引っ越しはもちろん、そもそも自分一人じゃ買い物も、食事も、着替えも、普段の生活がまったく成り立たない。

人に迷惑をかけてはいけない、とずっと思って生きてきたけれど、片手がまったく動かせないとなると、どうしようもないのでは……? そこでわたしは開き直って人に頼りまくることに決めた。

友だちに「骨が折れて何もできなくなったから助けて!」と連絡をした。すると、すぐに「何でも手伝うからいつでも連絡してね!」と返事をくれた。わたしは、その言葉をそのまま素直に受け取って、具体的に困っていることや、相手にしてほしいことを伝えた。

わたしの家にほぼ毎日誰かが交代で来てくれて、食事を作ってくれたり、服を着替えさせてくれたり、引っ越しの荷造りを手伝ってくれたりした。

引越しの当日も友だちが来て手伝ってくれた。荷物を運び終り、段ボールだらけの部屋で買ってきてもらったお惣菜をみんなで食べ、荷解きを続けた。

すっかり暗くなって荷解きに飽きてきた頃、河原へ行って手持ち花火をした。「みんなありがとうね」と言うと「なんか楽しかったよー」と、花火をくるくる回しながら友だちが言った。

文字通り口を出すことしかできず、ずっともどかしかった。でも、その表情を見て、自分から何かを与えられないとしても、人に頼ることは必ずしも迷惑じゃないんだと、初めて知った。


弱いままの自分でも、受け入れてもらえることを知った

どこかでいつも「ちゃんとしていなきゃいけない」とか「誰かの役に立たなければいけない」とか思ってきたわたしは、何もできない日々の中で「ただ存在している自分」を認められるようになってきた。弱いままの自分を見せても、意外なくらい他人は気にしていなくて、そのことに肩の力が抜けた。

生まれ育った環境の中で知らないうちに身に付いてしまった思考の癖や、誰かからの期待。そういうものが、自分で自分を窮屈にしていた。そう気付けた瞬間、見えている景色の色が少しだけ変わった。


思えばわたしは、これまで人と関わろうとする時、なるべくお互いのきれいな部分だけを交換しようと努めてきた。それが決して悪いわけではないけれど、知らず知らずのうちに、自分や目の前にいる相手の弱い部分を見ないようにする癖が付いてしまった気がする。

自分のずるさやきれいじゃない気持ちと向き合い、相手に差し出すことは、まだ難しい。だけど少しずつそれができるようになったら、その先には今よりもっと優しくて心強い場所が広がっていると信じている。

時には人に甘えてみたり、頼ってみたりすることで、新しい可能性に気付くことができた。弱さや痛みによって、人はつながることができるのかもしれない。もしそうならば、自分の中でずっと欠点だと思っていた弱さが、少しだけ光って見えるような気がした。

編集:はてな編集部

著者:星野文月(ほしのふづき)

作家・文筆家。1993年7月生まれ、蟹座。長野県松本市在住。栞日にて書籍の選書を担当している。「Monthly Writing Club」や「日記に集う日」を主催しています。好きなものは、散歩、川、ハロー!プロジェクト、TBSラジオ。
著書に『私の証明』(百万年書房)、『プールの底から月を見る』(SW)、『取るに足らない大事なこと』(ひとりごと出版)、『もう間もなく仲良し』(BREWBOOKS)などがある。

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